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003
外に出て、俊平くんと飛海さんに出会って、そしてあの絵を見て、気持ちが少しは落ち着いたんだろうか。
公園から帰る途中で、急に茉紀さんの声が聞きたくなった。
オレは急いで家に帰って、二階の部屋のサイドテーブルの上にある携帯を掴んだ。
着信履歴から茉紀さんの番号に電話をかける。
前にオレが妙なことを言っているし、仕事が忙しいからもしかすると出てくれないかもしれない。
そんなオレの心配をよそに、5回目のコールで音が変わった。
「由樹か?」
茉紀さんの声がクリーンに聞こえる。
いままで思っていたような、良質な楽器のような声だ。
何週間か前に電話があったときのようなノイズはない。
ボリュームを最大にしていたからか、少しうるさいくらいだった。
「こんばんは。お忙しいのに急に電話してすみません」
「いや、今日は休みだし、特に用事はない」
「え、休み?」
「土曜日だからな」
そう言われて、なんだか顔が赤くなった。
そういえば聡一郎も会社が休みだから佳乃さんのところに泊まりに行ったんだった。改めて自分がそそっかしいのを実感した。
「あ、あの、茉紀さん、オレ、まだ決め兼ねているんです。東京に残るか、大阪に戻るか」
意を決して、茉紀さんに継げる。
茉紀さんからどんな返事が来るのか。茉紀さんに怒鳴られるんじゃないか。
そうやって怯んで、勝手に距離を置いていたころの妙な強迫観念は、すっかりどこかに消えていた。
「そうか。焦ることはない、じっくり考えるといい」
茉紀さんの穏やかな声がする。
なんだか胸の奥がスッとして、口元が綻ぶ。
茉紀さんならこう言ってくれるはずだ。
怒鳴ったり、嫌味を言ったりなんてするはずがない。
なんであんなふうに疑心暗鬼になっていたんだろうかと、自分が恥ずかしくなった。
「それで、いまはどこに? ホテルにでも泊まっているのか?」
「あ、いえ、聡一郎――園山さんの、家に」
「園山の? しかし彼のうちは大変じゃないのか?
由樹は子供に好かれるからいても困りはしないだろうが」
茉紀さんの声に青が差す。やっぱし聡一郎の言っていたとおり、東京転勤は茉紀さんの計らいなんだろう。
相談に行った聡一郎の熱意に気圧されたのかどうかは解らないけれど、そういえば、オレが電話をかけるたびに聡一郎と佳乃さんのことを気にしていたような気がする。
オレは自分が東京行きを推薦したから、東京でヘマをやらかしていないだろうか心配しているのかと邪推していた時期もあったけれど、よく考えれば――いや、茉紀さんの性格上、それはありえないことだった。
「奥さんのことなら、手術も成功して、順調に回復しているそうです」
そう言ったら、茉紀さんは『そうか』と、どこかホッとしたような声で言った。
茉紀さんは相変わらずだった。
いつもどおり、言葉数が少ない。でも、気持ちだけはすごく伝わってくる。
小さい頃から知っている、父親代わりの人だ。どんな小さいことでも、オレの悩みを知っている。逆にオレは茉紀さんがどれだけ優しくて、思慮深い人なのかを知っていたはずだ。
それなのに、自分ばかり気にして茉紀さんまで遠ざけようとしていたなんて、本当に馬鹿みたいだ。
「由樹」
不意に、茉紀さんがオレを呼んだ。
「由樹が出て行ってから、考えた。
柾斗が見つかれば柾斗に、そうでなければ由樹に――と言ったのは、失礼だったな。すまない」
「い、いえ、そんな‥」
どきりとした。オレが家を出た理由を的確に当てられたみたいで。
どうフォローしようか考えていると、また、茉紀さんが継いだ。
「クロエにも言われたし、自分も由樹を傷付けたのはあの一言だったと思う。
だから、私から戻って欲しいとは言わない。由樹が私を許してくれるなら、いつでも戻ってくるといい。クロエと神楽と三人では、静かすぎる」
「それ、野良息子にも言えばいいのに」
なんだか気恥ずかしくて、そう言ってみる。野良息子の命名は茉紀さんだからきっと通じる。オレが猫じゃないんだからと突っ込んだら、茉紀さんは真顔で『猫のように勝手に出て行ったっきり戻ってこないくせに、忘れた頃に戻ってくる性格なんだ』と言っていたからだ。
「‥あれはそのうちに帰ってくるだろう」
案の定というべきか、茉紀さんが渋々と言った感じで口を開いた。
「由樹には言わないとわからないし、柾斗には言うと“解ってる”と反発する。うちの息子達は正反対だからな」
息子たち? そう言われて、なんだか顔が赤くなった。
「そ、そんな‥。野良息子と較べられたり、一緒にされたりしても困る‥」
「何故? 小さい頃から家で過ごしているし、私は息子同然だと思っているが」
『由樹はそうじゃないのか?』と言わんばかりのニュアンスだ。オレは慌てて訂正した。
「ち、ちがっ‥。そういう意味じゃなくて、お、オレ、野良息子に会ったこともないのに‥」
「いや、その“会ったこともない野良息子”と比較して話したことについて不適切だったなと思っただけで」
「そ、そう、なんですか‥? もしかして、それを前の電話で?」
「ああ。でも由樹が落ち込んでいるようだったから言わなかった」
「また、考えさせる原因になるから?」
「ああ」
そう言われて、なんだかホッとした。
オレは自分のことしか見えなくなっていたんだろう。
なんか恥ずかしい。小さい頃から神父様に言われていたことだ。いまだに直っていないなんて、進歩がないなと思う。
「少しすっきりしたようだな」
「はい、おかげさまで」
「じゃあ、元気で」
茉紀さんとの電話は、5分にも満たなかった。
それなのに、ずっと心の奥に引っ掛かっていたものが、すうっと消えていった。
やっぱり茉紀さんの存在はオレにとってとても大きい。オレが気付かなかっただけで、周りはこんなにもオレのことを心配してくれる人であふれているのだ。
* * * * *
21時を回った頃、オレがベッドに突っ伏していたら、聡一郎が部屋に入ってきた。
着替えを取りに来たそのついでにオレの様子でも見に来たんだろう。
オレが『お帰り』と声をかけると、聡一郎は不思議そうな顔をして、ベッドに座った。
「なにかあったのか?」
「ううん、なにも」
「なら、いいけど」
「なんでそんなこと聞くの?」
珍しく聡一郎が煮え切らない態度だ。
思わずそう聞き返したら、聡一郎は少し意外そうな顔をした。
「そういうことを気にするし、なんかいつもと表情が違うからな」
「飛海さんに、会った」
その一言を告げるだけで、かなりの時間を要したと思う。聡一郎は『ああ』と驚いたような声をあげた。
「元気でやっているんだな。少し前に雑誌に載っていたって、知耀が教えてくれたぞ」
「雑誌に?」
「車椅子の新人画家がどうのこうのって。なんかこう、某団体が好みそうな取り上げ方だったな」
「車椅子に乗ってるのにすごい、みたいな感じ?」
「そう。ある意味失礼だよ。車椅子に乗っていようがいまいが、飛海画伯のあの才能は天性のものだ。半身不随なのにあれだけの絵を描けるみたいなニュアンスで紹介してあってさ、さすがにアホかって思ったわ」
少し不満げに聡一郎が言った。
こんな考え方をする人は珍しいと思う。けれど車椅子は人の足代わりのようなものだ。前にあの人も言っていた。障碍のある人にとってなにが一番障害かというと、周りの人の目と偏見だと。
聡一郎もこんな性格だから、オレと同い年なのに福祉関連の仕事に積極的に携わっていられるんだろう。
「ほっとけばいいよ。珍しがるのはいまのうちだけ。飛海さんの才能が本物だってわかったら、下らないことを言わなくなる。その逆もあるだろうけど、飛海さんなら大丈夫。俊平くんもついてるし」
オレが言ったら、聡一郎はそうだなと言って、目じりに皺を刻んだ。なんとなく、いつもと居心地が違うように感じる。オレの気持ちが少しだけ晴れたからだろうか。聡一郎の隣にいるのが妙に心地よく感じる。
「ねえ、聡一郎。どうして、俊平くんがあのときの男の子だって、教えてくれなかったの?」
「聞かなかっただろ?」
聡一郎は相変わらず食えない男だ。
「おまえが気付いていなかったから言わなかったんだ」
勝ち誇ったようににやりと笑いながら、聡一郎が言う。ようやく気付いたのかと言わんばかりの表情だ。
「ひどいよ。解ってたらオレ、あんな態度取らなかった」
「よく言うよ、別れた後あんだけ心配してたくせに。俺は俊がおまえの変貌ぶりを見てショックを受けるんじゃないかと思って言わなかったんだ。それなのにおまえは俊のことをころっと忘れてて、言わんでもいいことを言いやがって。この鳥頭」
言って、聡一郎がオレの頭を小突いた。言われてしまってもしょうがない。オレが自分のことだけに囚われて、周りを見る目を失っていたことは事実だ。
「忘れてたんじゃない、わからなかったんだよ。背だって伸びてたし、普通に歩いてるし。それに、あんなにかっこよくなってるなんて思わなかった」
「あはは、俊は近所のマダムキラーだからな。童顔で小さかった俊がああなってたら、意外性がありすぎて気付かないかもしれない」
「そうでしょ?」
「でも未だに童顔だし、覚えていたらわかるっちゃわかるぞ」
まるでオレを揶揄するように聡一郎が言った。オレは忘れていたわけじゃないと再度聡一郎に言い返した。すると聡一郎はどこか感慨深そうな表情になって、口元を綻ばせた。
「2年前、俊が言ってた。『玖坂さんの大切な人の話を聞いて、余計なことを言ってしまったかもしれない』って。あのあと、かなり気にして落ち込んでいたな。俊は本当におまえのことを尊敬していたんだよ、あの時から、ずっと」
「‥‥そう、みたい」
「俊は本当に素直な子だから、建前で物を言ったりはしないよ。もちろんそう言うときもあるだろうけど、あれは俊の本心だって俺は思う。玖坂さんの力になりたいんだなんて、可愛いじゃないか」
「それは、嬉しいと思う。でもアトリエを作るとき、俊平くんを勇気づけようとして話したわけじゃないよ。本当にそう思ったから言っただけで、取り繕ったわけじゃ‥‥」
「それでこそナオだ」
そう言って、聡一郎がオレの髪を両手でわしわし乱した。『おまえはすごいことをやって、あの二人を立ち直らせたんだよ』って、そう言いながら。
涙が出そうだった。
俊平くんときちんと話せたことも、飛海さんと再会できたこともあって緊張の糸が切れそうだったから無理にでも気を張っていたというのに。
オレは聡一郎の胸をドンと一度叩いて、俯いたまま顔を上げなかった。
思い出した。
あの時オレはアトリエを作る建築士さんたちと話す合間に、あの公園にある桜の絵を描いていた。
俊平くんはオレが描く絵にかなり興味を示していたようだったけれど、恥ずかしくて見せられなかった。
そんな日が続いて、だいぶ打ち解けたあの日、確かにオレは、俊平くんに言った。
聡一郎も誰もいなかったから、きっと知らない。
オレも俊平くんが言わなければ、聡一郎がヒントをくれなければ忘れていた、一言。
俊平くんが、まるで偶然を装ってオレと飛海さんを会わせた意図が漸くわかった。
オレは自分の気持ちを整理しなければならない。
飛海さんの個展で、あの絵が、あの人が、そして俊平くんが、オレにそう解らせる為の、偶然の一致。
風呂に入ってくるといって部屋を出た聡一郎の背中を見送ったあと、オレはクローゼットにしまっていたスケッチブックを探し出して、開いた。
1年前にオレが描いた桜の絵は、どこか翳りがあるように思えた。
一番初めと、最後のページの絵を見比べてみると、どうもなにかが違う。
絵全体に覇気がなくて、わりと暖色系の色彩中心に描いているのに、冷たいような、暗いような、色の明るさが死んでいるように見えた。
それはオレが落ち込んだ気持ちで描いたからなのかもしれない。
昔は、あの人が喜んでくれるから、笑ってくれるから、だから描いていた部分もあった。
誰かの為に描いたものと、自分の為に描いたものとでは、こんなにも差があることを、初めて知った。
桜が散るまでにまだ1週間は余裕があるはずだ。
五部咲きではないけれど、また絵を描こうと思ったその気持ちを、あの人はきっと認めてくれるだろう。
オレはあの人には会いに行くことができない。
あの人もそうだ。
だけどあの桜の前に立つと、あのときの思い出がたくさん蘇ってくる。
きっと、そのためにあの人は、桜の絵を描いて欲しいと言ったんじゃないか。
いままでそんなふうに思ったことはがなかったのに、ふとそう感じた。
オレがこの公園に来ることを躊躇っていたとき、桜の香りに混じって、あの人に呼ばれたような気がした。
いま一歩を踏み出しておかないと、きっと後悔する。そんなふうに言われたように思えた。
そしてあの夢も。オレの周りにあったあの靄のようなものが消えたとき、あの人の周りにも靄がなくなっていた。
はっきりとその姿が見えた。笑っているような、困っているような、そんな雰囲気を背中で語っていた。
それはきっと、あの言葉の意味を知っているのに押し込めて、自分だけが傷付いたような気持ちでいたオレに対して言いたいことがあったからだろう。
あなたはここにいる。
そう言っていた。唇はそう動いていた。
オレがここにいる――なんて、とても漠然としていて、でも当たり前の言葉に、なんだかとても深い意味を見出してしまった。
だからオレはいま、スケッチブックを開いている。自分の過去の気持ちを整理したくて。そして、どんな気持ちだったのかをもう一度知りたくて。
ページを進んでいくごとに、鮮やかな色がどんどん失われていっていた。
そのうち着色すらしていない、モノクロの絵へと変わっている。
そして最後のページは、なにかの絵を書いた上から、黒いマジックを被せていた。
ページ右下にある日付は12月12日。
ああ、あの日だ。
オレはそのページに馳せた自分の思いを噛み締めて、スケッチブックを閉じた。
あの日を境に絵を描くことも辞めた。
ささやかな趣味だったけれど、それすら辛くなったからだ。
そのうちに仕事も辞めて、なにも手につかなくなった。
そうしてモノクロの世界に捕らわれて、色も、音も、感覚さえ忘れてしまった。
なにもかも失ってしまったような気持ちで、自暴自棄になって、それから聡一郎に拾われた。
そして、俊平くんに出会った。
この出会いは、ただの偶然なんだろうか?
あの人が教えてくれたことを、俊平くんは持っている。考え方も、生き方も、すべて似ている。
そんな人にもう一度で会えるなんて、そんな言葉は信じていなかったんだけど、本当、運命としか思えない。
あの桜を、今年の、いまの桜を、キャンバスに収めよう。
そしてその桜が散ってしまうのを見届けて、今度こそ気持ちに鳬をつけて、それからリスタートすればいい。
まだ戸惑うことも、引き摺ることもあるかもしれないけれど、“自分の足で歩く”ことに意味がある。
生きているという証になる。
それはあの人が、道を見失いかけていたオレにかけてくれた言葉だった。
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