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オメガのおじさま1
最近、うちの課にオメガだというおじいさんが入って来た。おじいさんというよりもおじさまというか、品があって、ほどよい色気があって、なでつけられたグレイヘアに、銀縁のメガネがよく似合う。だから、可愛い老紳士という風情の人だ。おじさまと心の中で呼んでいる。
「だからさあ……上にあんたを雇えって指示されたから雇ってるだけで」
そのおじさまが、いま怒鳴られている。
理由はいつも同じで、アルファのくせにパッとしない上司のただのやっかみだ。丁寧に質問をしたおじさまに、上司は、オメガのくせに、上に言われてるから雇ってやっただけ、と性別や解雇を盾に怒りをぶつけるのだ。
学歴とアルファであることしか誇りを持てない、ただのクズ上司。ただ穏やかに笑うだけのおじさま。怒鳴り声が響くフロア。おじさまが入社してからほぼ毎日、日常のように行われている光景ではあるが、さすがにしんどさを感じる。
「あーあ、またやってるよ…」
「いつも通りでしょ。あほらしい」
「あのクソより絶対に優秀だよな、あの人。あの叱ってる時間でかなり計上できてると思うんだけど」
「同感。……オメガってだけで」
声が自然と小さくなった。
オメガは、男でも子どもが産める、発情期があると言うだけで差別される性別だ。
アルファとオメガ。それに一般庶民のベータ。アルファとオメガには、一言で言い表せない関係がある。ベータの私には想像も付かない痛みを伴う「番」という特殊な関係だ。アルファが、発情期のオメガのうなじを噛むことで番になることができるという。
おじさまは噛まれることを防ぐ首輪をしていない。だからぴんとノリの効いた襟の下には愛咬のあとがあって、きっとそんな痛みを伴う関係の番がいるんだろう。やっぱり、想像も付かない世界だ。
怒鳴り声が耳を裂くと、考え事中でも自然に目はそっちの方に行く。大丈夫かな、って心の中だけで心配しながら、いつのまにか表計算の画面と、微笑むおじさまを交互に目をやっていた。
最初の方はアルファの先輩が止めに入ってたり(あのクズ上司は、自分より上か同じくらいの人間の話しか聞かない)したけど、何度も何度もあると天災のようにすぎるのを待つのみになってしまう。
「俺アルファだけどさあ」
隣の彼は、最終学歴が高校で、上司にはもの申すことができないのだ。
「自分の無能さを弱いやつに押しつけようとは思わねーわ。カッコ悪」
「アルファがみんな、あんたみたいに力抜けてると良いのにね」
「ほんとそれ」
20年くらい前に発情抑制剤が売り出されてから、オメガの制約がかなり緩和されて、オメガが発情期中、ベッドの上で一日中のたうち回ることが少なくなったという。それで普通に働くオメガが多くなったのに、まだオメガと言うだけ劣っていると言い、アルファと言うだけで偉ぶる人間がたくさんいる。このクソ上司はその典型だ。
もちろん、そんなアルファだけじゃないことも知っている。愛情で結ばれた番の夫婦を私は知っている。それに、アルファ以外の人口の約97パーセント以上を見下しながら生きるって、なんだか疲れてきそうだ。だからむしろ、そういうアルファは可哀想だと思うようにしていた。
時計がきっかり正午を指し、チャイムが鳴る。
「もういいよ、どっかいけ。明日にはデスク片付けとけよ」
と、おきまりの言葉でおじさまは解放された。
おじさまは「了解いたしました」ときれいに30度のお辞儀をする。頭を下げている間に、クソ上司はメシメシと外に飛んでいった。
デスク片付けろというわりに、どうせ帰ってきたら嘘だ冗談だ、期待をしているから叱るのだなどと取り繕うんだろう。セクハラ対策にしては軽々しい。
おじさまはデスクに戻って座ると、銀縁のメガネを外して、眉間をマッサージするように手で捏ねた。そしてまたメガネを掛けると、仕方ないというような、少し寂しそうな顔をしていた。ついまじまじ見てしまった。
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