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第86話

 いや、俺は本当に視察に行くためのおちゃめなジョークだと思っていたのだ。  けれどこの様子だとアゼルは違うようで、今日は視察、ではなく今日はデート、ついでに視察と思って、あんなに浮かれて早起きをし、おめかししていたらしい。  なるほど。だから競歩レベルの早歩きで視察を終わらせようとしていたのか。  早く終わらせるとそれだけ早くデート、というかお出かけできる。アゼルはスウェンマリナの街が好きなんだな。  おかげで俺は行きの魔王任せを解消する、いい運動すぎるくらいのマラソンランナーっぷりだった。  この世の真理がそこにあるのかというほど遠い目で、石畳のデッキを見つめる足元のアゼルに、そっと膝を折る。  少し気恥ずかしいような……嬉しいような、変な気持ちでこそりと寄り添う。 「んんと、アゼル……」 「ぅあ……なんだ……」  どんよりと暗い表情の彼。  照れくさい気持ちをどうにか押し込めて、コツン、と額を擦り合わせてみた。 「今日は終わるが……明日、付き合ってくれないか? 俺の買い物。──……デート、しよう」 「っ、はっ、あ!? はわっ、ふ、ぉぁぁ……!」  そして夜色の瞳を見つめながら意を決してデートに誘うと、途端にアゼルが壊れてしまった。  ガバッ! と立ち上がってうおおうおおと人型のまま唸りながら転げまわったが、ついに手すりに飛び乗ったあと、空に向かって天にそびえ立つ光の柱のような光線の魔法を発射。  いつも仏頂面か威圧感たっぷりにフッ、と笑うアゼルなのに、今はにへら~っと緩みきった表情で笑っている。  もはや神々しい。  闇を纏う魔王なのに光のシャワーを浴びて夕日をバックに歓喜するアゼルは、実に神々しかった。 「……魔王様、本当にデートしたかっただけなんだ……」  ぽかんとアゼルを見つめるユリスは、サラサラと砂になりそうな燃え尽き具合でぽそりと呟く。  手のひら返すように浮かれ始めたアゼルに、俺の発言を信じざるを得ないのだろう。  その戸惑いはよくわかるぞ。  俺もまだなぜそんなに一喜一憂しているのかよくわかっていない。  実際は二人で買い物に行くだけなんだが、ものは言いようだ。  そういえばアゼルに妃がいるのかどうかとか、そういう色恋の話は聞いていないな。  もしかしたら俺をそういうことの足しにしてくれるくらいには、縁がないのかもしれない。  あんなに魅力的な容姿に自信のある所作、優しく面倒みのいい誰よりも強い王なのだから、引く手数多だとは思うが。  権力者は色を好むというし、そういうことはしても付き合うという交際はあまりなかったのだろうか。  誰かと甘酸っぱいことをしようと思えば、すぐにでもできる容姿と立場なのにな。  それこそ、ユリスなら喜んでデートしてくれると思う。  んんと、いや立場的にダメなのか。  難しいな。だから俺と触れ合ったり出かけたりすることを喜んでくれるわけだが。  きっと魔族じゃない持ち物である俺だから、好きに構っているだけだろうけど……なぜだろう。  俺はなんとなく些細なことを喜んでくれたのが嬉しくなって、アゼルと同じようににへら、と締りのない顔を晒してしまうのだ。 「ふふ、アゼル。危ないから降りたほうがいい。一旦休憩にしよう? 夕飯前の腹ごなしに、二人で食べそこねたお昼を食べようか。野菜と肉のサンドイッチだから、重たくないぞ。それか積もる話もあるだろうし、軍の人のところへ行くか? 俺は一人でも大丈夫だから、放っておいても問題ない」 「シャルとサンドイッチ食う」  浮かれた俺は一人でも気にならないほどうきうきしていたのだが、アゼルはピョンと手すりから飛び降りていつも通りのへの字口で俺との食事を選んだ。  アゼルよ。  何事もなかったかのように振る舞っているが、何事しかなかったからな。  しかしユリスは自分の知る魔王と全く違う今のアゼルに灰になっているし、心にしまっておこう。  俺は特に触れずに、召喚魔法でお昼のサンドイッチを取り出してアゼルと分け合った。

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