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第136話

「はぁ……俺が魔族生の岐路を彷徨っていたのを救ってくれた恩人なのにその上これほどかわいければもう愛するしかねぇよ……必然だろもう……」 「ん、それ……俺は前から気になっていたんだが、アゼルは俺を以前から知っていたのか? 俺にはアゼルと出会った記憶はないんだが……」  アゼルの周囲がたまに口にする、あの勇者という言葉。  そして本人も俺を、時たまぽろりと恩人と言う。  密かに気にはなっていたが、俺の記憶にはアゼルと出会ったこともアゼルを助けたことも少しも残っていない。  アゼルとのことを忘れていたくはないから、思い出したいんだ。  彼にとっては大事な思い出なのに当人の記憶がないというとアゼルは少ししょんぼりと目線を下げたが、すぐに手を離して真っ直ぐ背筋を伸ばし、居住まいを正した。 「いいんだ、覚えてねえのは仕方ない。昔の話だし、俺は名乗ることもしなかったし正体も言わなかった。それにきっと、話せばその程度で恩を感じるのかと誰もが思う……すげぇ些細なことだ。たった一回しか会ってないしな」 「そうか……でも話せば思い出すかも知れない。お前のことで俺が忘れたままなんて、さみしいじゃないか。俺はお前のことが知りたいよ」 「あぅ、し、しかたねぇな……!」  いいと言ったのにやはり気落ちしていたのか、嬉しそうに頬を染めてそっぽを向いたアゼルは、んん、と咳払いをひとつ落とし話し始めた。  昔々のある日。  魔王アゼリディアスは憔悴していた。  心を削っていく生活の発端は、気ままに暮らしていた野良魔族時代に先代が亡くなって突然現れた、魔王の紋章。  紋章はその時一番戦闘力の強い魔族の体のどこかに現れ、持ち主が死ぬとまたその時の最強へ自然に現れる。魔界創世時の王が覇権争いをしないようにと定めた古代の呪いだ。  紋章が現れた者が王。  王は魔界随一の魔力スポットである魔王城へ赴き頂点に立つ。それは魔族全ての遺伝子に刻まれた本能のようなもの。  紋章が現れた魔族は、その時点で魔王となる。拒否権はないが、魔王になってからどうするかはその魔王次第。  肩書きを持っているだけで、魔王城に座すれば怠惰に過ごしても構わないのだ。最強の王を、誰も止められないのだから。  事実そういう魔王はいたし、全世界へ宣戦布告した魔王も、恐怖で魔界を支配した魔王も、あらゆる国へ行って魔界を発展させた魔王も、様々いた。  そんな中で、アゼルはそつのない魔王だった。  怠惰の魔王のようにひきこもるでもなく、暴虐の魔王のように戦争に明け暮れることもなく、鬼胎の魔王のように呼吸すら死に起因する危うさもなく、優政の魔王のように特別素晴らしい為政者でもない。  それなりに仕事をこなしそれなりに発展させ、他種族の侵略には排除を。特別になにもせず誰も特別扱いせず、無感情ではないが感情の機微が微弱。  それ故に危険がなく、歴代一温厚な魔王なんて呼ばれていた。  その仮面の裏では、ただ魔王である自分に価値を見いだせない、息苦しさに疲れ果てているだけだったのだ。  そんなある日のこと。  アゼルはどうしようもない息苦しさと倦怠感に耐えられず玉座に向かう足が止まり、衝動的に魔界を飛び出した。  魔族すら立ち入らない魔境で疑問を抱くことなくたった一人で生きていた自分が、突然大勢に魔王様と呼ばれ畏敬と畏怖の渦に置かれる環境に、あり方を見失ったのだ。  城にやってきて、自分以外の複雑な感情を持つ生き物を初めて見た。  喜び、怒り、哀しみ、楽しみ。  それに対してそれぞれのなにかが返ってくることも、吐き出した言葉の返答も、対して行動に向けられる言葉も、初めて知った。  他者からの精神的な刺激がなければ心の成長は止まってしまう。あの頃は恥ずかしいが、良く言っても幼児程度の情緒しかなかっただろう。  当然他人と共生することに不慣れで、どう接していいかわからない。  言葉を交わして意思の疎通をすることにようやく焦燥しなくなりつつある自分が、他人の裏の意図なんて読めるわけもなく……求められていることがわかったとしても、それを返すこともできず。  初めて存在を知った同族たちに陰口を言われているのを聞いてしまった時の感情の処理方法が、わからない。  自分の大切な物を壊された時も。他国との会合で罵倒されて戸惑う時も。怒り方も悲しみ方もわからない。  仲間だと言われたのだ。  あなたの部下だと、王として守る民衆だと言われたのだ。  仲間が自分をあんなに痛い言葉や視線で嬲るのだ。  他人との距離感を、加減を知らない自分が怒ると、きっと陰口を言って仕事をサボっていた自分の臣下を殺してしまう。悲しむと、壊れた贈り物のカップを抱いて場所もはばからず泣いてしまう。  だけどそんなことをすると弱い心がバレて、強さが基準のここでは一人だということはわかっていた。  一人きりの魔境で孤独に生きることより大勢の中で孤独に生きるほうが、ずっとずっと辛かった。  誰か助けて下さいの言い方も、知らなかったからだ。

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