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第150話(sideアゼル)
迷い苦悩しながらも咄嗟に伸ばした手は、あっけなく空を掻いた。
考える余裕はなく、ただアイツが消えてしまうと思うと体が勝手に動いていたのだ。
しかしそれじゃあ遅い。
零れ落ちる涙は止まることなく溢れ続け、なぜ伸ばしたのかもわからない俺の手にはなにも残ってはいない。
──……俺の愛したシャルは、俺の求めた恩人じゃなかった。
予想もしなかった真相。
まさに青天の霹靂だ。
疑うことなく一心に求め、いつしか愛していた。
そんな唯一無二の愛する人と唯一無二の恩人が全くの別人だったと知り、俺は一歩踏み出した先で、恩義と恋情の矛先を見失った。
突然降って湧いたその事実が俺の思考を奪い去る。押し寄せる絶望と、喪失感。
だって俺はあの日の恩人にまた出会うために、そしてできれば共にいてほしいと告げるために、十年間王座で殺されるのを待っていたんだ。言えなかったありがとうを伝えたくて。
しかし彼はもうこの世にはいなかった。
この深い絶望の源は、夢が永遠に叶わない夢だったと知ったこと。
伸ばした手が落ち、ドサリと膝を叩いた。周囲の音は遠く聞こえず、座り込んでいるのに目眩がして、視界がボヤけながら揺れている。
とめどなく流れる涙を拭うことも忘れて、自分の心を懸命にかき集める。心の欠片を必死に求めて一つにしていく。
大切な人だと思っていながら間違えてしまった罪は、ここにある。
なら俺の気持ちの矛先は、いったいどこにあるんだろう。
あの日の恩人と、ついさっきまで腕の中にいた愛おしい人を重ね合わせる。
『ありのまま、やればいい。大丈夫、お前はそのままで十分魅力的だ』
『この世界の誰よりも、お前が一番好きだ……心ごと……お前にしか染まれない』
シャル、シャル、シャル。
シャル。なんて恋しい名前。
俺が呼んでいたのは、いったいどっちのシャルなのか。
恩義の矛先を失ったなら、恋情の矛先は、いったいどっちだったんだ?
静まり返った広く冷たい玉座の間で、知らなかった恩人の死と、アイツのか細い断末魔のような謝罪が、俺の心臓をねじ切ろうとしている。
痛い。痛くてたまらないのに、俺は考えて、そして、泣く。
なぜアイツがあの勇者ではなく俺を見つめて首を横に振ったのかが、よくわかる。
執務室で、俺が十年の想いと告げたから、アイツは自分の矛盾に気がついてしまった。
『怖くなんかないぞ?』
言えない場所に行きたいと願った時すら、嘘を吐かずに言えないとだけ告げるような透明な男の、初めて吐いた嘘。
その言葉の裏でどれだけの困惑と、絶望と、焦燥と、恐怖があったか。
葛藤の中で、心が追いつくよりも早く、追い打ちをかけるように来訪者から齎された真実が、どれだけアイツを殺したか。
死体となったアイツの心を考えると、いても立ってもいられなくなる自分のこの感情は、なんなのか。
──止まらない涙の理由と、この心が求める〝シャル〟がどちらなのかの答えは、とっくに俺の中にあった。
よろりと立ち上がり、トロトロと流れ落ちて止むことのない涙を拭わずに、広間の外へ歩き出す。
一歩、二歩。
転びそうな震える足は次第に速度を早め、すぐに人間国の方向へ、正確な位置もわからないのに走り始めた。
涙のわけは、尊い大恩の主を失ったから。
涙のわけは、愛する人がそばにないから。
手を伸ばすのを迷ったから、俺は唯一無二の人が消えてしまう前に抱きしめられなかったんだろ。
俺の宝は偽物で、名無し?
そんなこと、俺を泣かせる理由にはならない。涙を止められない理由は、一つだけ。
ただ、お前が隣にいないから。
外へ向けて走りながら、ほんの刹那の迷いでお前の手を取りそこねたことを、俺は気が狂いそうなほど後悔していた。
どうして迷っちまったんだよ。
早く助けに行かねぇと、アイツはずっとずっと一人で戦ってしまうんだ。
ボロボロになっても助けてと言わずに、当たり前みたいに一人で。
「シャル……っ」
喉の奥から嗚咽が溢れだす。
みっともなく泣きながら胸を押さえて、外が見えた瞬間、城から飛び出す。
心臓を抜き取られたみたいだ。一番大事な血管から溢れる血液のように、熱くとめどない涙がただ一人を求めて悲鳴を上げる。
シャル、シャル、シャル。
もういいんだ。名前なんてどうでもいい。お前が誰でも構わない。
愛おしいと言う感情は、お前と出会って芽生えたのだから。
人違いでも偽物でも何者にもなれない。お前にしかなれない。
「勇者だとか恩人だとか、お前の名前を愛したわけじゃない……っ」
お前だから、俺はこんなに、愛おしい。
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