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シュクレさんの恋マカロン

 ライラックの花が苦手だと言うと、同僚達はこぞって笑う。 「なんだよナタリー、このレストランの名前を忘れたの?」 「知ってるわ、大事な職場だもの。それとこれとは別でしょう。リラの花が苦手でも、リラという名前のレストランで料理を作ることは苦じゃない」 「それは全くその通りだけど。ナタリーにも苦手なものなんてあったんだな」 「……私をなんだと思ってるの?」  オーブンから出したロブスターを皿に盛りつけながら笑う同僚を睨みながらも、ライラックと同じように苦手なものに思いを馳せる。  キュウイの食感、牡蠣の殻の内側の質感、雨の日の通勤路、子供の泣き声。……最近は、人目を気にせずキスをするようなカップルも、苦手なものリストに連なった。  例えば若いご夫婦が腕を絡ませてご来店された時には、メインディッシュの説明の際にわざとワインをぶちまけて、食事の思い出とデートをぶちこわしたくなる時もある。  そんな衝動に駆られるのは、大概寝不足の時だ。  人間は食事と睡眠で動いている肉体だ、というのが私の母の持論で、三十歳も半ばになると、それは確かにその通りなのかもしれない、と思う。  どんなに理不尽なクレームをつけられても、健康的な生活をしていれば前向きにがんばることができる。逆に、毎日の生活リズムがうまくとれない日は、客なんて来なければいいのにと、レストランの経営に関わるような雑言が飛び出した。  美人なのに、口が悪い。表情が暗い。性格が堅い。  レストラン『アン・リラ』のシェフであるナタリー・マルタンの評判はこの有様で、私自身も確かにその通りだと思う。  二十代の後半はまだ、世間も優しかった。仕事に熱中する若い女は、とてもエネルギッシュに見えたのかもしれない。  けれど三十路を過ぎると、とたんに世界は冷たくなる。まだ結婚はしないのか。あんな冷たい言葉しか言えないのだから、結婚は一生できないんじゃないか。恋人はいるのか。仕事だけしていて空しくないのか。  他人は口々に辛辣な噂話で盛り上がり、よりいっそう私は仕事にのめり込むしかなくなった。私の心情が変わったせいかもしれない。昔はまだ、道行くカップルを見ても心が焦ったりはしなかった。  仕事は楽しい。とても忙しい。  毎日入れ替わる食材を、めまぐるしい時間の中で魔法のように料理に変える。特に盛りつけが好きだ。白く丸い皿の上に、色とりどりのソースをすばらしいバランスで描けた時は思わず感嘆の息がこぼれる。  今日のオレンジソースも絶品だった。味も悪くないが、特にきらきらと光る麗しいオレンジが、ほうれん草のソースと混じり合うコントラストが良い。自信作だ。  味に拘るメインシェフには理解されないが、二年前に見習いで入った日本人の青年は、私の皿の上の芸術に毎回目を輝かせてくれた。  私は案外この日本人青年が好きだ。もちろん、一回り近くも年下の青年と恋をしよう、などという感情はさすがにないので、弟のようにその成長を見守っている。  本名はアンザイというらしいが、皆が呼びにくいと文句を言うものだから、すっかりアンリというあだ名が板に付いていた。  アンリは細く、少年のようだ。日本ではこれでもハンサムな部類なんだよと笑う彼は、キッチンスタッフ皆に愛されている。  仕事はまだまだという部分が多い。その未熟な部分を、人柄と真面目さでカバーしている、好青年だった。  ハーブの葉を毟りながら、そのアンリは私の耳元にそっと囁く。 「……リラって、ライラックのことだったの……?」 「…………あなた、もしかして知らなかったの? ほら、レストランの看板に紫の花のデザインがあるでしょう」 「うん、それは知ってたけど。お洒落なデザインだな、って思ってただけで、まさか由来の花だとは」 「クロードには言わないことね、向こう三年は笑いものにされるわ」  こういう些細な会話でも、ナタリーは愛想が無いと言われてしまう。私は精一杯コミュニケーションを取っているつもりなのに、笑顔がないからと言われてしまえばそれまでだった。  私のぶっきらぼうな言葉にも臆せずに声をかけてくれるのは、オーナーとアンリくらいなものだ。  友人は皆結婚してしまった。職場の人間は好きだけれど、休日にランチをする程でもない。恋人なんて勿論いない。作りたくないわけではないけれど、何度か親しくなった男性は、私が仕事を優先させすぎると言って離れて行った。  仕事に真面目なキミが素敵だと言うのは口説く時ばかりだ。実際に家でも食費を惜しまず料理ばかりしている私を見ると、皆げっそりとしてしまうらしい。おいしい、と食べてくれるのは一カ月までだと知っていた。 「店の裏にも植えてあったよね、ライラック……そういやこの前、公園前の花屋で食用のライラックってあるのかなって話をしてた時に、食用はうちでは扱ってないよって言われてさ」  豆の鞘を取りながら、控え目にアンリは雑談をする。私はアンリのたどたどしいフランス語が嫌いではなかったので、ソースを混ぜながら世間話を続けた。 「食用リラなんてどうするの。新しい料理の試作?」 「あー……俺じゃなくて、屋根裏の、」 「ああ。噂のムッシュ・シュクレ」 「そうそう。新しいマカロンのイメージ沸いたんだって、そわそわしてんの。一昨日はなんだか色々ひっくり返してバタバタしてて、真下の部屋のオーレリーが朝から御立腹だったよ」  アンリを誰かに紹介する時に、アン・リラの見習いシェフだと言うより、『ムッシュ・シュクレの下の階に住んでいる幸福な外国人』と言った方が良い。そう言うと大概の人間は『ああ、あのパン屋の上の部屋か』と納得してくれる。  私はムッシュ・シュクレに会った事はない。あまり、人前に顔を出す人では無いらしい。それでも彼の作る不思議なマカロンの話は、この町の人々なら一度ならず耳にした事がある筈だった。  シュクレさんのマカロンを食べると、恋が実るらしい。  そんな女の子のおまじないのような噂話は、今もまことしやかに囁かれ、一階のパン屋に土曜だけ並ぶマカロンは一時間もしないうちに売り切れてしまうらしい。恋愛云々はともかく、幻のマカロンであることは間違いない。 「そもそもリラは木に咲く花なんだから、花屋にはないんじゃないの?」  素朴な疑問を口にすると、アンリは少年のように首を傾げる。 「え、うそ、あったよ、ライラック。あ、でも自宅の庭に生えてるものを切ったんだって言ってたかも」 「へえ、珍しい」  公園前に、花屋なんてあったかしら。大きな噴水は覚えているけれど、あまり通らない道だから記憶が曖昧だ。  たまには、夕食のテーブルに花でも飾ろうかしら。そんなことをしても一緒に夕食を食べる人は居ないけど。わたしは一人だって花のある生活をしています、という、意地のような感情だった。  帰りに散歩がてら、公園前の花屋を探してみよう。アンリの話では夜も営業しているらしい。午後から出勤の私たちディナーメインのシェフにとって、夜空いている店というものはありがたい。  明日はレストランの定休日だ。本当は厨房を借りて試作品を作りたいところだけれど、ナタリーは働き過ぎだとオーナーに小言を言われたばかりだった。アンリよりも日本人っぽい、などと揶揄され、アンリと二人でまったく失礼な話だね、と愚痴を洩らしたのはつい最近のことだと記憶している。  全ての料理を作り終え、すべてのオーダーをこなし、厨房の清掃を終えた頃には真っ暗になっている。  コックコートを奇麗に畳んでバッグに入れ、早足に店を出ようとしたところで、着替えたアンリに捕まった。 「ナタリー! ちょっとちょっと、ごめん、ちょっとだけ時間ある?」  人気者の弟分に呼び止められて、急いでいるの、と帰れるわけもない。花屋が閉まっていたら明日昼間に行けばいい。そう思い足を止めると、駆け寄って来たアンリに小さな包みを渡された。  薄紫色にラッピングされたそれは軽く、少し甘い匂いがする。 「……マカロン? もしかして、ムッシュ・シュクレの試作品?」 「そう。今週の土曜日には出したいんだけど、いつもと勝手が違うからちょっとだけ不安なんだって。ナタリー、ライラック苦手だって言ってたから悩んだんだけどさ……一番感情に流されないでずばって言ってくれるのが、ナタリーだし」 「貴方もシェフのはしくれでしょ? アンリの舌じゃダメなの?」 「だめだめ。俺は感情にぐだぐだ流されちゃう。シュクレさんのマカロンは全部馬鹿みたいに美味しいって感想しか出てこないんだから、最近は『本当に?』って再三確認されるようになっちゃったよ」  明朗に笑う青年は爽やかで、照れる様が可愛らしい。ああ、この子はきっと女の子が放っておかないだろうに、と、彼の性的趣向を告白された私は少しだけ苦いような気持になった。異性に恋をされる度に、申し訳ないと断る様が目に浮かぶ。  小さな同情を、何気ない顔で振り切って、私はアンリの差し出した薄紫の包装をといた。  幻のマカロンを食べるならば、ゆっくりと椅子に座って堪能したい。けれどここは店の裏の路地上で、椅子もなければ照明もない。シチュエーションが勿体無いけれど、試作品の味見に選ばれた身としては、きちんとその期待に応えたい。  薄紫色の小さなマカロンだった。  ふわり、と香るのはすこし懐かしいような匂いだ。しゃくり、と一口齧って、ああ、これはライラックの香りだと気がついた。口の中に優しい甘さと紫色の花の香りが広がった。 「花のマカロン? 珍しいのね。マカロンって、果物とか、チョコとか、ナッツとか……そういうものばかりだと思ってた」  表面はさっくりと硬いのに、中はほろりと崩れる柔らかさだ。マカロンの間には柔らかく甘いクリームが詰まっている。酸味はないので、ジャム系統ではないだろう。  甘すぎない絶妙な砂糖の加減に、思わず溜息が洩れそうになった。素晴らしい。こんな焼き菓子を作る人間が、この街にいたなんて。  やっぱり、椅子に座って食べれば良かった。そんな後悔をしてしまうほど、幸福なお菓子だ。 「花のフレーバーは薔薇以外作ったことないんだって。バラってほら、ジャムとかあるじゃん? だからわりと簡単にできたっていうんだけど。ライラックはさ、元々そこまで食用で流通してるわけでもないし、ジャムとか加工品もないし」 「これ、砂糖漬けが入ってる? ちょっと、たまにしゃりしゃりする」 「うん、クリームの真ん中に砂糖漬けを入れたんだってさ。酸味を入れるかどうかで結構迷ってたみたいだよ。ねえ、どうかなナタリー」 「素晴らしいの一言ね。何も言う事なんかない。これは確かに、おいしいという言葉以外見つからない食べ物だわ。酸味が入るとすこし、きつくなってしまうかも……香りが柔らかいから、甘い方が素敵じゃないかな」  半分になってしまった薄紫色のマカロンを名残惜しく眺めてしまう。  ライラックの花が苦手なのはその密集したような見た目だけで、香りも色も嫌いではない事に気がついた。  私の素人感想を聞き、アンリは嬉しそうににっこりと笑う。 「伝えておくよ。試食役ありがとう、ナタリー。これでOKなら、今週の土曜のシュクレさんの新作はリラの砂糖漬けマカロンだ」 「噂のシュクレさんの役に立てたなら嬉しいわ。……土曜の朝に並べば、このマカロンは買える?」 「え。買えるとは思う、けど、欲しいならあと二個くらいあるよ?」  試食用で良かったら、とアンリが差し出してくれた包みには、確かに薄紫色のころころとしたマカロンが入っていた。本当はアンリ用の試食品なのかもしれない。でも、このマカロンをもう一口、食べることができる幸福は、何者にも代えがたいと思える。  有り難くマカロンを受け取り、アンリと別れ、歩きながら夕飯のメニューを考えた。  マカロンの香りが台無しにならないように、強い匂いのものは控えるべきだ。チーズリゾットに、野菜を添えるのもいい。豆のポタージュも悪くない。白身魚のフリットはどうだろう。軽くて、春らしい。  暗い公園の前を通り過ぎようとした時に、煌々と明るい店に気がついた。店頭に並ぶ色とりどりの鉢を見て、ああ、そういえば花屋の話をしていた、と思いだした。  もう周りの店は明かりを落としている。店先の一番目立つ位置には、確かに紫色の花のついた枝が見えた。アンリの言った通り、本当に夜なかに営業している花屋があったらしい。  マカロンを鞄に入れたまま、私はふらりと花屋に吸い寄せられるように足を向けた。  スタッフは一人しかいないらしい。私が店先を覗くと、奥のレジにいた男性が笑顔を見せた。ウェーブのかかった髪の毛が少し重そうで、茸のようだと思ってしまった。  生マッシュルームのサラダのレシピを考えながら、花の香りを吸い込んだ。ああ、悪くない、と思う。やはり、花を買いに来て正解だった。テーブルに花を飾る余裕を、私はこの日思い出した。  ――ライラックの花の香りを抱きながら。もしかしてシュクレさんがリラの香りのマカロンを作ったのは、レストラン・アンリラの見習いシェフの為じゃないかしら、と、そんなささやかな想像をした。

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