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屋根裏のシュクレさん

「トイレ、バス、キッチンは共同、部屋は無理矢理分けてどうにか二つだ。朝は四時から下のクレマンがパンを焼くから至極煩い。大概その音で目が覚める。ただしパンの端は貰い放題。ペットは禁止。パン屋の上だからな。夜は静かかと思いきや隣の社交ダンス教室が中々の音漏れ具合だ。各種騒音さえ我慢できればそれなりだ」  薄手の眼鏡を首から下げた黒人男性は、フランス人には珍しくはきはきと言葉を紡ぐ。  比較的ゆっくりと発音してくれるのは日本人への気づかいだろう。オーレリーだと名乗り握手を求めてきた同居人は見上げる程に背が高い。  玄関先では一歩引いてしまったものの、招き入れられた室内はとても整理されていて、壁や天井は古いわりに部屋としては奇麗だと思う。  少なくとも、この二年間転がりこんでいた恋人のアパルトマンよりは数段美しかった。 「しきられているとはいえ、ほとんど同じ部屋に居るも同然だ。苦手なものは無いがホームパーティや連れ込みは勘弁してくれ。どうしてもっていうなら安いホテルを紹介する。すまんがそれは、我慢してくれよ相棒候補」 「あー、いや、恋人は今、居ないから。暫くは穏便に品性良好に生きるよ相棒」  やっと慣れたフランス語で返せば、オーレリーは白い歯を見せて笑う。 「そら良かった。まー、日本人はくそ真面目だって言うしな。決まりを守るのが文化で性格だろ? いいね、前のクソ相棒はそれこそ法律すら守らないような煩いガキだった。今回の同居人は俺を寝かせてくれそうだ。ああ、あと上の話はクレマンに聞いてるか?」 「……屋根裏部屋のジャン=クロード・サレ氏?」 「そうそう。我が城の上には引きこもりの変人が住んでいる。階段はキッチン横だ。つまりはまあ、第三の同居人だが、まあ、週に二三度しか降りてこない。とにかくヘンだが、絶対に悪い奴じゃない。むしろとんでもなくイイ奴だ。その事だけしっかり念頭に置いておいてくれよ。俺からは以上だな。アンタからは何かあるかい?」 「…………俺、ゲイだけど平気?」 「なんだそんなことか。別に差別はないよ、ゲイでも女好きでも連れ込まなきゃ問題ナシだ」 「良かった。ここを追いだされたら今日こそ公園で野宿かと思ってたんだ。助かるよオーレリー」 「個人の嗜好にケチをつける程俺はえらく無いさ。前のアパルトマンは彼氏のものか? なんならこの町で、新しい恋を見つけたらいい。なに、昼間はババアばっかりだが、イケメンだって探せばいるさ」  ジョークにして笑ってくれる事が今はとてもありがたくて、この下宿先を見つけられた運の良さを実感した。  同居人は完璧だ。好みのタイプではないが、それも失恋で宿を失ったばかりの身には、失礼だが有り難い。  恋なんてこりごりだ、とまでは思っていないけれど。せめて別のところに住んでいる相手を選ぼうと思っていた。  失恋と同時に宿を失うなんて辛すぎる。折角溜めた貯金も、ホテル代で随分消えた。  同居人は問題ない。下のパン屋の主人も、眠そうな目で歓迎してくれた。二階の住人は口達者だが静かだよと口角をあげたのが印象的で、新しい住居への不安を少し飛ばしてくれた。 「ようこそメゾン・ブーランジェへ。歓迎するよ、アンザイ、ええと、リク?」 「アンリでいいよ。みんなそう呼んでる」  よろしく、と、大きな手をもう一度握り返して、今日からはゆっくりと寝れそうだと、安堵のため息をついた。  フランスに渡ったのは、恋人の勧めからだった。  小さな料理店でシェフ見習いをしていた俺は、日本へ仕事に来ていたフランス人男性と付き合い始め、そして彼の帰国と同時にフランスに渡った。  異国の地に興味はあった。両親とは絶縁状態にあって、家族のしがらみもない。家は自分のアパートに来ればいい。職場は知り合いのレストランを紹介してあげよう。そう言われてしまえば断る理由も見当たらない。  結局就労ビザを取得したのが二年前のことだ。  元々、フランス料理を勉強していた俺にとっては憧れの地というか、聖地みたいなものだ。就職することができたレストランは想像以上にでかいところで、本当に雑用からのスタートだったが仕事にやりがいがあった。  ただ、やりがいがあり過ぎて恋人をないがしろにしすぎたかもしれない。  でも仕方がない。仕事でくたくたに疲れている日に、セックスに付き合ってはいられない。断るとすぐに機嫌が悪くなるのが嫌で、その些細な鬱憤は徐々に腹の底に溜まって行った。  自分だって休日の前の日にしか誘って来ない癖に。いいレストランだからと口添えしてくれたのにもかかわらず、最終的には何もかも職場が悪いというような事を言われて喧嘩になった。  ……喧嘩出来ているうちはまだよかったのかもしれない。  最後には怒るのも疲れて呆れてしまい、ああもう駄目なんだなぁと悲しくなった。感情が死んだように動かなかった。ただ自分勝手に憤慨して口汚く罵倒する男が滑稽で、そんな風に思ってしまうならもう駄目なんだと実感した。  多分、どっちも悪いんだと思う。  対話することに疲れた俺も、思いやる事を忘れたあの人も。  もしかしたら本気で別れて出ていくとは思わなかったのかもしれない。思いつく限りの侮辱の言葉を並べられた俺は、ついに我慢できなくなって恋人のアパルトマンから逃げた。  それから二週間。このままでは帰国する金もなくなるかもしれない、と危惧していたところ、たまたま通りかかったパン屋の扉に下宿人募集の張り紙を見つけた。それがこの、オーレリーの言うところの『メゾン・ブーランジェ』だった。  一階はクレマン氏のパン屋。外階段から上がれる二階はオーレリーと俺の住居。そして、二階のキッチンからは屋根裏部屋の階段が伸びる。  ジャン=クロード・サレ、という屋根裏の住人には、引越ししてから一週間、お目にかかった事はない。  俺がレストランの雑用(それでも二年でどうにか出世は出来ているっぽい)から帰ってくるのは深夜の手前くらいの時間で、パン屋は閉まっているし、作家家業だというオーレリーは丁度飯を食っている時間だ。  少なくともこの時間に、キッチンで件のジャン=クロード氏にはち合わせることはなかった。  実は幽霊とかじゃないよな、とか。若干思いかけていた引越し十日後のことだ。  その日の俺は心身ともに疲れ果てて居て、足を止めただけでちょっと涙が出るかもしれないというくらいだった。  忙しいのはいつもの事だ。身体が疲れているのもいつもの事だ。でも、心がこんなに落ち込んでいるのは越して来てからは初めての事で、たまたま玄関ではち合わせたオーレリーを驚かせてしまった。 「やぁ、どうしたんだ相棒、酷い顔じゃねーか」 「……ああ、ちょっと。人生ってうまくいかないな、みたいな、気分になってて。ごめん、食って寝たら多分元気に戻るんだ」 「まあ、そうだな、太陽と睡眠と栄養ってのは案外メンタルにも効くもんだが……それにしても心配にもなるさ。マナー良好の最高の同居人だってのに、倒れてもらっちゃ俺も困る。さっさと寝てまた明日笑顔で――……いや、甘いものを食うっていうのも一つの手だ」 「あまいもの?」 「糖分は人間を甘やかす」  如何にもモノ書きらしい事を言う、と感心したものだが、オーレリーは絵本作家だ。そんな言いまわしが子供向け絵本に必要だとは思わないけれど、言っていることは確かになぁというものだったので、曖昧に笑った。 「オーレリー、甘いの好きなんだ?」 「いや、苦手だな。わりと食えない。だがそんな俺にもひとつ、好物だと自信をもって言えるものがある」 「へえ。それは気になる。よほどうまい?」 「うまい。まるで天使の食いもんだ。そんでそれは、世界で中々手にはいるもんじゃないんだが……幸運な事に、このメゾン・ブーランジェに住んでいれば高確率で手に入れる事ができる。丁度いい事に、今日は金曜日だ」  甘い匂いがしてるだろう? と言われて、ふと、空気に香るものを感じる。  全く気がつかなかった。  言われてみれば、部屋に漂う空気が甘い。焼き菓子特有のむわりとした甘い匂い。クレマン氏がフィナンシェでも焼いてるんだろうか。  そういえば、下の階のパン屋の奥が珍しく明るかったような気がする。  思った事をそのまま口にすると、チチチとオーレリーは指を振る。 「クレマンはこんな時間にはもう夢の中さ。金曜日の夜はムッシュ・シュクレがパン屋のキッチンを占領してる」 「……シュクレさん?」 「そう、ムッシュ・シュクレだ。我らが愛すべき天井上の住人さ。彼はとんでもない引きこもりで名前さえも明かしたがらない。ジャン=クロード・サレという名は同居人だからと俺たちにだけ公開しているのさ。呼び名に困ってこの辺の住人は彼の事をムッシュ・シュクレと呼ぶもんだ。それはこの甘い匂いが原因さ」 「ジャン=クロード・サレ氏はお菓子屋さんか何か?」 「まあ、似たようなもんだ。裏口が開いてるはずさ、回り込んで左手だ。ちょっと、つまみ食いをしてきてみろよ。ムッシュ・シュクレは泣きそうな大人に弱い」  さあ、と背中を押されて追いだされて、今しがた上って来た階段を下る羽目になる。  正直さっさとベッドにもぐってしまいたいとは思っていた。けれど、このまま寝てもきっと睡魔は訪れてくれないだろうことはわかっていたし、少しでも誰かほかの人に会えば、気がまぎれるような気もした。  単純な興味もあった。屋根裏のジャン=クロード氏ことシュクレさんとは、何者なのか。この甘い匂いは何なのか。その正体は何なのか。 気にならないと言えばうそになる。  肌寒い空気にジャケットをかき抱いて、パン屋の裏手に回って裏口の扉を見つける。  確かに鍵は開いていて、どうぞとも言われる前に俺はそのドアノブを回した。  煌々と照らされた室内をそっと伺うように扉を開く。甘くて暖かい匂いがふわりと舞い上がり、アーモンドの香りが鼻に届いた。  アーモンド、卵白、ピスタチオ、クランベリー。……ああ、これはマカロンか?  カチャカチャと音が鳴る室内には、一人の男がいる。こちらからは背中しか見えないのだけれど、俺は、その後ろ姿に妙な違和感を覚えた。  背がでかいのはいいとして――…頭がでかい。とてもでかい。というか、確実に人の頭の質感じゃない。  横に丸いでかいヘルメットのようなそれは髪の毛の質感などなくて、のっぺりと赤毛が描かれている。どうみてもかぶり物だ。それも、クマやウサギやネコじゃない。人間の顔のかぶり物だ。  あまりの光景に言葉を失っていると、くるりと件のかぶり物男がこちらを向いてそして俺に気が付いてびくりと肩を震わせて、そのついでに持っていたボールを落とした。  ガシャン、という音に我に返る。  ハッとして瞬きをして、もう一度正面から凝視しても、やっぱりそれは人間の男の顔がコミカルに描かれた丸いかぶり物だった。  丸い目と、にっこりと笑った口元が、シュールだ。まるで、子供の描いたらくがきのような、乱雑な顔だった。 「……あー、の……シュクレ、さん?」  俺の掠れた声に、やっと我に返ったらしいシュクレさんと思わしきかぶり物男は、何故か怯えたように首を横に振る。  いや絶対に嘘だ。  金曜日の夜はシュクレさんがパン屋のキッチンを使っているという話だ。ここには被りモノ男しか居ない。確実にお前だろと思ってとりえずキッチンに入って扉を締めると、男が一歩後ろに下がった。  怖がらせてしまっちゃまずい。  そう思って、なんとなく両手をあげてしまう。フランスでもこれは無抵抗ですっていう意味にちゃんとなっているのか不安だけれど、殴ったりはしないよという、意思表示にはなっていると信じたい。 「あの、すいません、俺、オーレリーに言われて来て……あ、はじめまして、二階に越してきた安西陸人です」  その説明を聞いて、やっと俺が何者かわかったのか、シュクレさんらしき人はいかにも納得したと言うように手を叩いた。叩いた拍子に何も持っていない事に気がついたらしく、あわあわと下に落ちたボールと泡立て器を拾う。  びっくりさせてしまったな、申し訳ないな、と思ったので手伝おうとしたら、またネコのように飛びのかれた。  でっかい頭なのに、妙に動きが早い人だ。  というか、なんでそんなもの被って深夜のパン屋でマカロンを焼いてるんだこの人は。  もしかしてそれずっと被ってるんだろうか。  色々訊きたい事と言うか疑問だらけだったけれど。とりあえず無視されたりとかそういう事はなかったし、びくびくされてはいたけれど俺の事は知っているようだったし、全ての疑問には一回ふたをして、甘い空気を吸い込んだ。  すう、と吸う。ふう、と吐く。  焼き菓子特有の甘さは少しくどいけれど、今日はその甘い匂いに酷く落ち着いた。 「マカロン?」  俺の問いかけに、じりじりとキッチンの端に逃げて居たシュクレさんがこくこく頷く。 「……これが、オーレリーの言ってた天使の食いものか」  まだクリームを挟む前の緑とピンクのマカロンがずらりと並んでいる。あのでかい黒人にマカロンなんて不似合いだったけれど、確かにふっくら膨らんだマカロンは奇麗で、軽そうで、うまそうだった。  日本に居た頃は、マカロンなんて食わなかったかもしれない。  チョコレートやクッキーは手軽に売ってるけれど、マカロンはコンビニにもケーキ屋にもない。今も手軽に買えるとはいえ、一人で買って食べる程でもないかなと思ってしまうお菓子の一つだ。  なんとなく、贈り物のイメージが強いせいかもしれない。  緑の方が多分ピスタチオのマカロンで、濃いピンクの方がクランベリーのマカロンだと思う。一応料理人のはしくれだし、そのくらいは匂いで想像が出来た。 「シュクレさんは、マカロン作って売ってるんだ?」  そっと、マカロンに触れないように気をつけながら天秤を覗きこむ。  これが商品なら、あんまり近づくのもよくないだろう。器用に俺から逃げるようにじりじりとキッチンの壁沿いを並行移動していたシュクレさんが、縦に頷いてから横に首を振った。どっちだ。 「え、どっち。作ってる、のはシュクレさんだよね? じゃあ、売って無いの? これ、趣味のマカロン? 俺が一口貰っても、怒られないやつ?」  壁に張り付いたシュクレさんは、曖昧に頭を傾げてから、今度は縦にだけこくこくと頭を揺らした。  どの質問に対するイエスなのかまったくわからなくて、思わず笑ってしまう。動きは怯える子供の様なのに、見た目がコミカルだから非常にシュールだ。なんだか、かわいい。 「……喋ってくれないとわかんないよ、シュクレさん。喋れないっていうのなら、そりゃ仕方ないけど」  苦笑しながら首を傾げると、同じく首を傾げていたシュクレさんが、もぞりと姿勢をただした気がした。 「………………苦手なんだ。言葉」  もごもごと、くもぐった声だった。  なんだ、喋れるんじゃんシュクレさん。しかもわりといい声だ。低くて、甘い。掠れるような響きがあって、きもちいい。少しカツゼツが悪い気がする。 「俺もニガテだよ。フランス語は、難しい」 「きみは、日本のひとだから。僕は、フランス人なのに」 「でも意思の疎通は出来てるから問題ない。苦手だけど、通じる。はじめまして、ジャン=クロードさん? シュクレさん?」 「どちらでも、かまわない、けれど。はじめまして、アン……ザ?」 「アンリでいいよ。みんな日本人の名前はカツカツしてて言いにくいって文句ばっかりだから、ここんところは俺の名前はずっとアンリ」 「アンリ。……君はとても静かで、僕もとても生活がしやすいです。ありがとう。ええと。……外は、寒い?」 「どうして?」 「……アンリは、とても、さむそうな、顔をしているから」  そんな風に言われて、あーそういえば、今日は最低な一日だったんだと、思い出した。  遠くから怯えた様子で椅子を勧めてくるシュクレさんの言葉に甘えて、キッチンのスツールに腰を下ろす。甘いマカロンの匂いは、俺の緊張と心の重さを少しだけ溶いたようだ。 「別れた恋人が、職場まで会いに来たんだ。それが、すごくなんていうか、怖くて。嫌で。そんな風に思ってしまうのも悲しくて、結局また口論になって、お互いに傷ついたよ。どうしてもう終わりにしてくれないんだろうって、今はそればっかり考えててまた辛い。……寒くはないけど。ちょっとだけ泣きそうかな」  こんな話をオーレリーにしたら、彼はきっと困ってしまって笑っていいのか一緒に泣いていいのかわからないと謝られてしまうだろう。オーレリーはとても優しい。最高の同居人だ。  同居人に相談できなかった話を、何故自分は深夜のパン屋のキッチンで、かぶり物をした男に打ち明けているのだろう、とは思ったけれど。  ああ、シュクレさんは、笑っているのか困っているのか、それすらもわからなくてとてもいいなぁ、と思った。  にっこりと笑顔を作った稚拙な顔はぴくりとも動かない。だからなんというか、不思議と安心するような気持になった。  シュクレさんは嗤わない。シュクレさんは嘲笑わない。だから言葉はするりと出る。  そしてオーレリーの言った通り、シュクレさんは泣きそうな大人に甘かった。  暫く黙っていたシュクレさんは、そっとキッチンに近づくと、数個のマカロンに手際よくクリームを挟んで行った。ピンクのマカロンには赤いクリームを。緑のマカロンには深緑色のクリームを。  そしてそれをそっと皿の上に乗せると、俺の目の前にすっと差し出す。  その手はちょっとだけ震えていて、申し訳ないような気持ちになりながらも、優しい屋根裏の住人の気づかいにちょっとだけ本当に泣きそうになってしまった。 「え。もらっていいの? 大事なものじゃないの?」  マカロンはすごく奇麗で、どう見ても売り物だ。そう言えばクレマンさんのパン屋の隅に、マカロンが並んでいる事がある、気がした。もしかしてそれはシュクレさんの作るマカロンなんじゃないかと思う。  売り物なら、俺がつまみ食いなんかしたら勿体無い。  そう思ったのに、震える手は俺にマカロンを押しつける。 「クレマンが、売ってくれる。でも、全部、売るわけじゃない。少しなら、食べたっていい。……嫌いじゃなければ、だけれど」  ありがとう、と言ってから、いただきますと頭を下げる。  一口、齧ったピンクのマカロンは軽くて、さっくりと甘酸っぱくて、とても優しい味がした。  あ、おいしい。  そう思ったのがうっかり日本語で零れて居て、さっきより少し近づいたシュクレさんが首を傾げるのが見えた。  こう言う時に、語学に堪能じゃないから困る。もっと、色々言いたいのに、セボン以外の表現がうまく出てこない。  おいしい。すごい。本当に天使の食べ物だ。軽くて、甘くて、溶けるみたいに無くなってしまう。 「すごい。レストランでパティシエになれるよ、シュクレさん。こんなに美味しいマカロン、初めて食べた」 「レストランは、ちょっと、こわい。行った事もない。……僕は、人が苦手だから、土曜日のクレマンのパン屋にちょっと置いてもらうだけでも精一杯だ」 「もうひとつ食べてもいい?」 「どうぞ。好きなだけ。キミが、笑顔になるならば」  ピスタチオのマカロンは濃厚で、それなのにやっぱりさっぱりと溶けてしまう。  甘酸っぱいクランベリーマカロンと、まったりとしたピスタチオマカロンを味わって、甘さと美味しさに溜息をついて、その後にふははと笑った。 「すごい。……本当に、ちょっとだけ、元気になった。あんなに今日は最低な日だって思ってたのにさ、今は、こんな素敵な事があるなら、悪くない日かなって思ってる。シュクレさんのマカロンはすごい」 「…………アンリの方がすごい。僕は、恋なんて怖くてできない。すごいよ、人を好きになるのも、好きになるのを辞めるのも、すごいことだよ。すごくすごく、大変なことだよ」  僕は恋なんかしたら、心も肉体も全部疲れて必要なエネルギーを絞り出すだけで死んじゃうかもしれないから、と、シュクレさんはとても気持ちのいい声で静かに話す。  その声が、低い音になって耳に届いて身体に沈んで行くような気がした。  気が付けば俺は、表情の変わらないかぶり物の顔をじっと見て居た。  次の日、クレマンさんに訊いた話では、シュクレさんの絶品マカロンはその味だけではなく、不思議なジンクス付きのお菓子としてこのあたりでは有名なのだという。  なんでも、そのマカロンを食べると恋が叶うとか。  ……恋が実るマカロンを作るかぶり物男は、恋なんてしたこと無いし怖くてできない、なんて言っていたけれど。  そのシュールすぎる顔や、震える指先や、挙動不審な及び腰や低くて優しい声を思い出してうっかりそわそわしてしまって朝から頭を抱えたのは誰にも秘密だった。  知っている。この感覚は覚えがある。でもまさか、素顔も素性もわからない変人相手にまさかそんなと、悩んだのは五分で、珍しく朝からキッチン上の階段に顔を見せたシュクレさんが小さな声で『……素敵な日になりますように』と言ってすぐに扉の向こうに消えてしまったのを見て、ああもうだめだとへたり込んでしまった。  だってかわいい。なんだあの人、かわいいよ。  マカロン三つで恋に落ちた。  なんて笑えないんだろうと思う、それでも甘い気持ちは押さえきれず、俺はクレマンさんに小銭を渡して袋詰めのマカロンを買った。

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