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クレマンさんの硬いパン

 クレマンのパンは固い、と皆が口を揃えて言う度に、これはこういう種類のパンなのだと説明するのは、とても日常的なことだ。  フランスのパンは、バケットでさえもほんのりと甘く柔らかい。固くて少し酸味の残るドイツパンで育った私には、いささか物足りない。  自分の為に焼いていたロッケンブロートを、店に出すのは趣味のようなものだ。その固いパンを冷やかすのは、小さなパン屋『シュミネ』の常連の通過儀礼のようになっていた。  クレマンのパンは固い、そしてクレマンも頭が固い。そんな風に笑われるのは、フランス流の親しいジョークなのだから、私はいちいち傷ついたり、悩んだりしない。  そもそも、頭が固いのも事実だ。私の固い頭は、彼らの冷やかしがジョークだろうと侮辱だろうと、結局は固いパンを焼き続けるのだから、悩む時間も労力ももったいない。  そんな風な事を一息に言葉にすると、目を丸くして聞いていた日本人は最後に瞬きをしてから笑う。  彼の声はとても軽い。私の頭とは正反対だ。 「それが、クレマンさんが毎日固いパンを売り続ける理由?」 「そうとも。売り上げの大半はバターロールとバケットだけれども、僕はこの先もずっと固いパンを焼くし、そのパンを一番下の右の皿に乗せて売ることに変わりがある筈がない。予期せぬ天災でこの石釜オーブンが壊れない限りね」  私の厨房を時折間借りするアンリは、火にくべた鍋を揺らしながら、にやりと笑った。 「……クレマンさんの頭は固い?」 「まったくもって事実だよ」  しれっと石釜に火を入れながら、空調を確認する。ささやかな煙突は古く、若干心もとないが、改装する程私の店は繁盛していない。小さな街角のパン屋がなんとか潰れず稼げているのは、常連客に愛されているから、というよりも、土曜の集客のおかげかもしれない。  毎週土曜、我が店の端にひっそりと並ぶのは、私の作った固いパンではなく屋根裏の住人がこっそりと焼くマカロンだ。  ジャン=クロード・サレ氏のマカロンは絶品だ。さっくりと甘く、ほろりと崩れて口の中が満たされる。普段は固くて酸っぱいドイツパンを好む私も、このマカロンの幸福感には抗えない。  そしてその絶品マカロンには、いつの間にか不思議な噂が付きまとい始め、土曜の集客を更に高めてしまった。  シュクレさんのマカロンを食べると恋が叶う。  街の人々は、正体不明の絶品マカロンの作者を、愛と想像力を持って『シュクレさん』と呼ぶ。  かくして、私の小さなパン屋はシュクレさんのマカロンが買える、大変貴重な場所となった。  特別な不満は無い。ムッシュ・シュクレのマカロンは絶品だ。ぜひ世界の人間に自慢したい。そして私の店のごく普通のパンも、ついでのように売れるのだから感謝こそすれ、妬むような筋合いはない。  固いパンの生地を練りながら、私はにこりともせずに滔々と雑談を続けた。 「今やすっかりマカロンのオマケのパン屋だ。けれど僕は一向に構わないよ。客が入らなければパンはもっと固くなっていくだけなんだから。カチカチになったパン程可哀想なものはない。ゴミ箱に放り投げるか、それともオーレリーに文句を言われながら食われるしかない運命だ」 「タダで貰っているものに文句なんか言えないけどね。オーレリーはそのまま食べようとするからダメなんじゃない?」 「あの口うるさい黒人は料理なんかできないんだから仕方ない。各言う僕だってパンを焼く以外は素人で、シュクレさんだってマカロン以外は作れないのだから、人間は不器用に出来てるものなんだよ」 「俺は? 一応、料理は得意な方だって自負してるけど」 「キミは恋に不器用だ」  私の言葉も固くて痛いと、よく言われるものだが、アンリは照れたように笑うだけだった。この青年はとても柔らかい。時々不思議になる程彼の思考は柔軟で、それでいてその柔らかさが世界に評価されていないのが理不尽だと感じた。  アンリはとても良い青年だ。パン屋の二階と屋根裏を他人に提供して随分と経つが、今が一番平和かもしれない。少々口うるさいオーレリーとの相性も良いらしい。屋根裏の彼の少々奇抜な格好を目にしても、逃げずに見守ってくれる優しさをもっている。  もっとも、アンリがムッシュ・シュクレに優しいのは、彼本来の人間性以外にも理由があるらしい。というとても単純なことに気がついたのは、実はつい最近の事だった。  二階に越してきた時も、アンリは恋に打ちひしがれていた。酷い恋人に疲れ、呆れ、心を痛めていた。確かに、最初に会った時のアンリは少々痩せていた気がする。全ての顛末をオーレリーから聞きかじったのは後の事で、あまり世界に関心がない私はぼんやりと思いだすことしかできない。  こんなに優しい青年なのに。疲れ果てたような恋の次に落ちたのが、人間恐怖症の変人への片思いだなんて、見ているこちらが憐れになる。  売れ残りの固いパンをサイコロ状に切り分けたアンリは、ナイフを片手に笑った。 「変なのばっかに恋すんの。昔っからね。それでこんな異国の地まで来ちゃったんだけど、まあ、後悔はしてないよ。ダメな男についてきたお陰で、素敵な職場と素晴らしい住まいに出会えた。同居人は最高に良い奴だし、大家のパン屋さんは真面目できもちいいし固くなったパンをくれる。あと、ええと……屋根裏にはシュクレさんがいる」  その名前を口にする時だけ、ほんの少し照れくさそうにするのがなんとも微笑ましい。微笑ましいが、どうも、頭を捻ってしまう。別に、アンリが誰と恋愛しようが私は一向に構わない。けれど、ゲイだという彼がオーレリーに惚れたと言われた方が、幾分か納得がいく。  そう、私は納得がいかない。アンリはとても良い青年だ。そしてムッシュ・シュクレは確かにとても優しい人ではあるが。それにしても一体どこに惚れたのかと、首をかしげずにはいられなかった。  私のパン屋の屋根裏に、件の人が住み始めたのは随分と前のことになる。その頃まだ私は二階を住居としていて、友人に頼まれ、屋根裏に居候を住まわせる事を了解した。  彼が家を追われて困っているという事実や、大変な人みしりでひきこもりだという事実に同情したわけではない。ただ単に、売れないパン屋では食べていくのに精いっぱいで、奇麗でもない屋根裏に家賃を払いたいという奇特な申し出を断る理由がなかっただけだ。  ジャン=クロード氏に初めて会った時の衝撃は忘れられない。  何と言っても、人の顔ではないのだ。いや、きっと中身はきちんとした人間なのだろうけれど、丸く、大きく、不格好なヒトの頭の被り物は不気味としか言いようがなく、流石の私も半歩程身体を逸らした思い出がある。  普段から愛想笑いをするような人間でなかったことが幸いしたのはこの時だけだ。にこにこと笑っていたのならば、途端その口の端が引きつっていたことだろう。  長身を屈めるように座るジャン=クロード氏は、にこやかな笑顔の人形の被り物をしていた。  最初の会話など覚えていない。私はずっと、ジャン=クロード氏の被り物の縫い目を凝視していたし、彼はひたすらに肩をすぼめてせわしなく手を組んだり離したりしていた。喋っていたのは彼を紹介してくれた友人だけだ。  全く縁とは不思議なものだと実感する。結局断ることも面倒で、部屋からあまり出ないのならば、被り物をしていても美女でも怪物でも別段違いは無い、という事に気がついた私は彼を屋根裏の住人として迎えた。  その結果、魔法のようなマカロンを試食する光栄な時間と、土曜の恩恵が手に入ったわけだ。  言葉と頭が固い私と、極度に人を恐れる彼との間でコミュニケーションが取れるようになるまでに、随分な時間を使ったものだ。後に二階を貸すことになったオーレリーもやはり、ムッシュ=シュクレを手なずけることに手間取っていた。喋らない男も、喋りすぎる男も、奇特な変人の心を開かせるには時間がかかる。  私達が数年という忍耐力で、やっと挨拶を交わせる程になったというのに、この柔らかい異国の青年は、ものの数日で彼のマカロンを口にするに至ったという。  あの小煩く顔のわりに気障な黒人が言うには、私達に足りなかったのは『傷ついた心と涙』だと言う事だ。成程、わからなくもない。涙を流した記憶など、流し台でひじをぶつけたのが最後だと思う。  心まで固いのではないか、と自分でも思い始めた私と、涙なんて生涯無縁ではないかというくらい延々と言葉を垂れ流すオーレリーでは、シュクレさんの琴線に触れることすらできなかったのだろう。  ムッシュ=シュクレがアンリに甘い事は理解できるのだが。どうして、アンリがあの被りものの変人の言葉に一喜一憂してしまう程の恋に落ちてしまったのか。いつも夜までレストランで働くアンリと、朝早くから夕方までしか店に居ない私とは、ゆっくりと話す機会もない。  今こそその機会とばかりに、ここ数カ月のそんな疑問をそのまま口にした。思っていた通りに、アンリは恥ずかしそうに笑う。恋をしている人間は、いつだって少し照れくさそうだ。 「あー……いや、外見はそりゃ、今だって時々びっくりするし、自分でもよくあのマスクにどきどきできちゃうなぁとか、思うんだけど。でもさ、そこにシュクレさんが居ると目で追っちゃうし、朝から『キミの一日が幸せでありますように』だなんて声をかけられちゃうと、翌々日くらいまでずっと浮かれちゃってるんだよね。これって恋でしょ?」 「全くもって驚くほど恋だね。彼の事を語るキミは確かに微笑ましいけれど、キミは、あのぬいぐるみの頭とキスしたいの?」 「…………」 「D’accord。いいよ、言わなくても。クレマンの脳味噌は鉛なんじゃないかなんて言われるけどね、さすがの僕もその顔の赤さに気が付かないわけがない」 「……自分でもおかしいと思うよ……手でも握られたら死んでしまうかも」  恋なんて所詮他人にはわからないものなのだ。そう納得した私は、成形したパンの種を寝かし、手を洗い、なにか手伝おうかと一応声をかけてから、苦笑いで首を振るアンリの隣の椅子に腰かけた。 「僕は固くて酸っぱいドイツパンが好きだ。オーレリーは夜中にピアノジャズを聞きながら林檎の芯を齧るのが好きだ。そしてアンリは、屋根裏の変人が好きだ。きっと他の人間にはこの些細なこだわりや愛おしさは伝わらない。つまりそう言うことかな」 「……みんなモノ好きって事?」 「人類みな他人さ。自分と同じ人間なんて居るわけがない。多少変な個体が居たって、おかしくはないだろうね。僕は固い。オーレリーは煩い。アンリは不運。ムッシュ=シュクレは被り物が外せない。さあ、その人間恐怖症が、どこまでキミに近づけるかは、キミの頑張りによるんじゃないかな。不器用な恋は見ていてもどかしいが愛おしい。けれど本人はとても辛い。恋は実ってこそだよ」 「仰る通りで言い返す言葉がない。……デートにでも誘うべき?」 「デート会場はこの建物内がぎりぎりだね。まずはキミの器用な部分でアプローチしてみては? さあ、高級レストラン・リラのシェフの固いパン料理が完成だ」 「……見習いだけどね」  あははと笑う声は、やはり軽く心地よく、鼻をくすぐるホワイトソースの香りと相まってどうにも気分が晴れやかになった。  売れ残った固いパンは、今やすっかり姿を変えた。焦げ目が麗しいグラタンの中に埋まったパンは、さぞ暖かいことだろう。そう言えば、雪がちらつく季節ももうすぐだ。 「クリスマスはこのグラタンを作ってもらおう。すばらしいパン料理だ。とてもパン屋のパーティーらしいね」  耐熱容器をミトンで包み、鍋敷きの上に順に並べる。四つ並んだ皿の横には、クルトンたっぷりのサラダが添えられた。このクルトンも、先ほどアンリが作っていたものだ。料理人とはすばらしい、と感動する。  当の本人は謙遜し、絶品ではないかもしれないけれどたぶんおいしいよと笑った。 「さあ、口うるさい絵本作家と、そして引きこもりの変人を呼んでこよう。僕のパンがこんなに麗しく変身するんだったら、売れ残るのも悪くはないさ」 「でも、クレマンさんのパンは、焼きたてがやっぱりうまいよ」  その言葉がアンリの優しさでも本心でも、私は素直に嬉しいと思う事ができたから、やはりこの青年はとても柔らかいのだと思った。  彼の柔らかさが、あの病的に引っ込み思案な屋根裏の変人を絆せますように、と。うっかり、祈ってしまう程だった。

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