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夜更かしオーレリーとマシュマロココア
甘やかす、という言葉はとてもすばらしいものだと思う。
甘いものは、人生にはかかせない。酸っぱいだけの毎日なんてごめんだし、辛いのも苦いのも勘弁してほしい。どんなに怠慢だと非難されようと、やはり人間は自分に甘いものが好きだ。
甘ったれでいいじゃないか。楽しんで何が悪い。
そうは思うものの、現実とは世知辛いもので人生は甘いエピソードばかりではない。
ああつらい、ああ嫌だと泣きそうになったとき、人間は甘やかされるべきだと思う。深夜のベランダでココアを飲むときは、いつもそんな大層な言い訳を口にした。
この前口上を苦笑いで聞くのは、この秋からはすっかり同居人の青年の役目になっていた。日本人とのルームシェアははじめてだったが、個人的には快適すぎるほど快適だ。
オーレリーは見た目からは想像できないほど几帳面で面倒だ、などと言われていた過去が嘘のように、俺たちはのびのびと生活をしていた。
その素晴らしい同居人は今日は遅くなると言伝て出勤していった。忙しいレストランが、輪をかけて忙しくなる時期だ。
クリスマスソングが聞こえる度に、七面鳥が追いかけてくる夢を見るんだとこぼしていた。なるほど、夢を提供する側は、いつだって笑顔だけじゃ勤まらない。
それは俺の仕事だって一緒だろう?
そう笑うと、ベランダの端の脚立にちょこんと座っていた男が首を傾げるジェスチャーをした。
正確には、『したと思う』という程度の認識だ。
なんと言っても彼の顎はどこにあるのかわからないし、表情もわからない。いつだってそう、大変さわやかな笑顔だ! と俺は思っているが、彼を最初に見た人間は、大概は不気味だと感じるらしい。
いいじゃないか。かわいいじゃないか。確かに人形のような丸い頭のかぶりものをしている男なんて、遊園地かカーニバル以外では異質だ。あとはハロウィンがせいぜいだろう。
この被りものを断固はずさない素顔のわからない屋根裏の住人のことを、俺はひとめで気に入った。
気に入りすぎてつきまとっていたら本気で拒絶され、一度クレマンに怒られたりもしたものだが……今は、すっかり良好な天井を隔てた同居人だ。
ムッシュ・シュクレはとても静かだ。
ムッシュ・シュクレはとても優しい。
そしてムッシュ・シュクレは、とても悲しいので、こんな寒い夜にはぴったりの話し相手だった。
センチメンタルは必要だ。甘さは手元のココアが提供してくれる。哀愁と、そして話し相手がいる夜は、気分転換には素晴らしい。
こんな言葉に『オーレリーはいつだって気分転換してるみたいなもんじゃないか』と笑いをこぼすのはアンリで、『相変わらずキミの言葉は半分ほどしか共感できない』と石のような固い表情を向けてくるのがクレマンだ。
そしてセンチメンタルなムッシュ・シュクレは、いつだって指先をせわしなく擦りあわせながら慎重に言葉を選ぶために間を空けた。
彼はとてもゆっくりと言葉を選ぶ。それは、ゆったりとした性格の為ではなく、深夜に静かにこぼすちっぽけな言葉でさえも世界に許されないのではないかと、ただおびえているだけだ。
ムッシュ・シュクレはやはり悲しい。だが、それが愛おしい。滑稽だなんて思うはずがない。これが彼で、彼の魅力で、彼そのものだ。
たっぷり一分程の思惑の後、戸惑う様に最初の声を出すのも、とても良い。
「……オーレリーは今、新しい、本を?」
被りもののせいで、いつだって声がくもぐって重い。そしてゆっくりと選んだはずなのに、いつだって彼の言葉は未完成でつたない。
そのつたなさが、とても愛おしい事を、ムッシュ・シュクレはどうやら知らない。
「そうさ、待望の新作さ! 構想はたった五分のひらめきだ。だが、とても素晴らしい暖かい絵本になるって確信しているね。ほんの少しだけ、ひらめきを取りこぼしてしまって、こうやって悩んでいるわけだが……なに、すぐにまた別のきらきらした言葉が降ってくる。俺はそれを取りこぼさないように両手を広げて走ればいいのさ」
「手を広げて、走るのかい?」
「そうとも。待っているだけじゃ世界に失礼だ。でも、やみくもに走っているだけじゃ疲れちまう。だから俺は時折夜空を見ながらココアを飲んで、その後に運命がこちらに傾く瞬間に走るんだ。なぁ、人生ってやつはちょうど良いバランスだ。運ってやつもきっとちょうど良いバランスに配置されているに違いない! だから運が向いた時に走れるように、今はココアにマシュマロを溶かすのさ」
両手で包み込んだココアのカップを傾ける。まだ暖かいうちに、濃いめのココアにマシュマロを投入するのが深夜の休憩のお楽しみだ。
白く柔らかく弾力をもった親指ほどの菓子は、チョコレート色の沼になめらかに沈む。確かにそこにあった個体が、静かに消えていくのは不思議でおかしくそしてなぜか心地よい。
アンリは、少し柔らかい消しゴムをナイフで切るのが好きだという。
クレマンは、固いパンをゆっくりと数を数えながら咀嚼するのが好きだという。
俺は深夜のココアにマシュマロを溶かすのが好きだ。
「なあ、ムッシュ・シュクレ。アンタの好きな事ってやつは何だ?」
「……好きなこと」
「そう、好きな事だ。些細なことがいい。晴れた夕暮れに雲の数を数えることだとか、靴ひもをきつく結ぶ感触だとか。そういう些細なことがいいんだ。夜更かしの暇つぶしにはぴったりだろう? もちろん、マカロンを焼くこと以外で答えてくれよ」
ムッシュ・シュクレがマカロンをこの上なく愛していることなんか、顔を知らない人間だって知っている事実だ。
あのマカロンを一つでもかじればわかる。ムッシュ・シュクレは、マカロンを愛している。マカロンを焼くことを愛している。マカロンが存在している幸福を愛している!
今俺が耳を傾けたいのは、そんな大それた幸福じゃない。とても些細なことに耳を傾け心の端に止めておきたいのだ。
俺のいささか突然でそして難しい質問に、ムッシュは今度こそ明確に首を傾けた。元々丸いペイントされただけの目が、今はもっと丸くなっているように見えてしまう。
ムッシュ・シュクレに表情はないのに、どうにも感情がうまいことこぼれる。その器用だか不器用だかわからない雰囲気だってとても良い。
「好きな事。……小さな事?」
「そうだ。好きな事。些細なこと。ちっぽけな事。小さすぎる幸せな事」
「………………小さすぎる、幸せな事」
答えを待ちながら、ぐるぐるとココアのカップを回す。だいぶ冷めた筈だが、肌寒い夜の空気の中では、暖かな湯気は消えずに漂う。ストラップをつけたまま下げた眼鏡が、うっすらと曇っている様が見えた。
たっぷりと悩んで、また少しだけ首を傾げて、ムッシュ・シュクレはくもぐった声を零した。
「朝。薄い珈琲を、暖め直している時」
「うん?」
「……僕は、少し、幸せかもしれない」
その解答が思いもよらないものだった為、反応するのが遅れてしまった。
間抜けな程瞬きを繰り返した後、噛みしめるように何度か反芻し、そのあまりにも予想外な言葉の意味を理解し、思わず彼を抱きしめそうになった。いけないこいつは人間というものに酷く怯える面倒な生き物だったと言う事を思いだした俺はえらい。
フランスで珈琲と言えば濃いエスプレッソだ。
しかし日本では薄いアメリカンに近い珈琲が好まれるらしい。ということを、アンリの淹れてくれる薄い珈琲で知った。
味がないと思っていた珈琲はしかし、慣れるとわりとうまいものだ。
クレマンの固いパンをそのまま齧るだけの朝飯は、アンリが来てから随分と豪勢になった。
アンリは朝起きて、昼すぎに起きる俺の分の朝食も一緒に作る。勿論、屋根裏の住人の分も一緒に、だ。
アンリが家を出てから、俺が起きるまでの間のキッチンは、ムッシュ・シュクレの城だ。そこで彼は、少し温くなった薄い珈琲を温め直し、アンリの用意した朝食を食べるのだろう。
想像し、そして感嘆の溜息が夜の闇に零れた。
ああ、なんて素晴らしい気分なんだ。隣にクレマンが居たら、祝福のダンスをしてしまったかもしれない。
アンリが、この屋根裏の変人にかなり本気で惚れていることは、クレマンも俺も、もちろん知っていた。
ムッシュ・シュクレに声を掛けられる度に笑顔を咲かせ、そして彼の人が消えるとへなへなとしゃがみこみ熱い頬を隠す様は、まさにイカれちまっていた。
あのぬいぐるみフェイスのどこがいいんだ! なんて問いはナンセンスだ。ムッシュ・シュクレはとても静かで優しく悲しい。アンリは、そんなムッシュに恋をしている。大切なのはそれだけだ。そして俺もクレマンも、アンリとムッシュ・シュクレを愛している。その事を、恥ずかしい程に実感しながら最後に残ったココアを喉の奥に流し込んだ。
アンリの淹れた薄い珈琲を温め直している時の、この変人の幸福を、誰が笑うことができるのだろう。なぁ、そうだろう?
「なぁ、ムッシュ。世界はそりゃ確かに恐ろしくてうるさいさ。俺でさえもこうやって深夜に一人星を見上げる時間がほしくなる程だ。けれど、雑多なこの世界には一つとして同じものなんてない。クレマンがよく言ってるじゃないか、人類みな他人、そしてみな頭のおかしな隣人だ。そんなあたまのおかしな奴らの中には、アンタの事を丸ごと愛してくれる最高にいかれた奴がいるかもしれない。そいつの隣だったらアンタも、その被りものを脱いでも、息ができるかもしれないじゃないか」
「……でも僕は、とても怖い」
「知っているとも。ムッシュ・シュクレが世界におびえない日などないだろ? この上、何を恐怖することがあるんだ。いつだって怖い世界なら、更に恐怖が増したところで微々たるものさ。なぁ、世界は怖い。それでいいさ。怖くても愛すことはできるだろう?」
その愛は、アンタの怯えを覆い隠す事はできないのか。と、問えば、しばらく無言になった。
動いていないと本当にただの人形だ。背がでかくて、頭がでかい人形だ。
不器用で不格好で恐がりで愛しい人形は、器用に指を組み回し擦りあわせて爪をなぞり、それでも言葉を探しているようだった。
「ムッシュ、たまには直感って奴に頼ってはみないか?」
「直感?」
「そうさ。思った事をそのままに言えばいいだけだ。世界をおそれる必要なんてない。今耳をそばだてているのは売れない絵本作家だけなんだからな。さあ、質問だ。――アンリの事を、どう思う?」
「…………優しい。あと、とても、かわいいと思う」
パーフェクトな解答だ。思わず笑顔が零れて幸福が増す。
「同感だ。あのちょっと優しすぎる日本人はとてもかわいい男だ。じゃあ次の質問だ。アンリの料理は好き?」
「好きだよ。きちんと栄養をとれるように、きっと考えているんだろうなって、わかるんだ。とてもおいしい」
「それも同感だ。マメな奴で頭が上がらない。アンリに幸せになってほしい?」
「もちろん」
「じゃあそのためには、ムッシュ・シュクレは年下の青年と手を繋ぐ練習をしなければな」
俺が何を言いたいのか、勿論ムッシュは察している筈だ。思考と動作に時間がかかる男だが、決して愚鈍ではない。むしろ、様々な事を感じとる敏感さが、彼の恐怖心に繋がるのだろう。
ムッシュ・シュクレはとても静かで、とても優しく、とても悲しい。そして、とても聡く、臆病で、今は実る前の甘い感情をどうやら持てあましているらしい、ということを俺はこの日初めて知った。
アンリには言わないでおこう。ゆっくりでも、きっとうまくいく筈だ。俺がやることははやし立てることでも背中を押すことでもない。並べ立てる根拠のない言葉達で、ムッシュの恐怖を誤魔化す事だろう。
言葉を並べるのは得意だ。何と言っても、本職なのだから。
「さあ、夜更かし休憩は終わりだ。俺はまた机に向かって紙に物語をかきなぐる。そしてムッシュ・シュクレはマカロンの構想を練りながら寝る時間さ。いい加減アンリも帰ってくる筈だ」
「僕は……」
「うん?」
「アンリに、お帰りを言ってから、寝る事にするよ」
この幸福な言葉に、飲みほした筈のココアの甘さが喉に蘇るような気分だった。
いつかこの不器用すぎる男が、あの青年に少し心を許した時に、俺は頭のでかい人形と世話好きな料理人の話を描こう、と決めた。
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