5 / 34

王様の焼き菓子

 王様になんてなりたくない子供だった。  今だってそうだ。僕は、できれば言われた事を言われたままにこなすだけの駒で居たい。何かを決めたりする責任は怖い。表にでて演説する事も恐ろしい。暴君だと陰口を囁かれるのも、仁君だと崇められるのも嫌だ。  やはり僕はひっそりとざわめく市民に紛れ、その一員としてささやかな人生を全うすべきなのに、それさえもままならない自分に、悲しさと絶望は常に寄り添っていた。  王様になんてなりたくないのに、一般市民にすらなれやしない僕は、結局何なのだろう、と。  考えれば考えるだけ悲しくなる。夜の深い湖の様な、凪いだ悲しみだった。  悲しくなると、僕はマカロンを焼く。とても甘いマカロンを焼いている時だけ、僕の冷たい悲しみは少しだけ暖められる様な気がする。  綺麗にビエができたとき。クリームの固さが思い通りだったとき。焼き上がりの艶がとてもなめらかだったとき。僕は世界への恐怖を忘れてささやかな幸せに浸ることができた。  丸くてつやつやと甘いマカロンと、少しだけ手狭なパン屋の屋根裏部屋が、僕の人生のすべてになりかけていたところだった。  金曜日の夜にマカロンを焼く。土曜日にそれを売ってもらい、代金から家賃を引いて後はまた来週に焼くマカロンの材料を買ってもらう。僕は外にはでない。極力、でない。  薄暗い部屋の中でさえ被りものを外せない臆病な僕が、町中を歩くなんて。  オーレリーに言わせれば『自殺行為』だったし、クレマンもその大げさな言葉に神妙に頷いていた。本来は笑うべき冗談かもしれないのだけれど、僕の数少ない友人のような彼らは、大まじめだったし、僕だって同感だった。  クレマンのパン屋に並ぶマカロンは、屋根裏の住人が作っているらしい。けれど、彼は決して町にでようとしない。  居るのか居ないのかもわからない、まるで透明人間のようなマカロン職人は、いつしか住民に『シュクレさん』というあだ名をつけられた。  サレ(塩)の名前を持つ僕が、シュクレ(甘い)なんて呼ばれるのも不思議だったが、その名前の心地よい響きは、気に入っていた。  シュクレさんのマカロンを食べると恋が叶う、なんて。そんな噂を耳にした時はなんだか悲しくなってしまった。  僕は恋なんてしたくない。だってそれはとても怖くて勇気がいる。  好きになるのは怖い。嫌いになるのは、もっと怖い。誰かに心の一部を預けることはとてもとても恐ろしい。  ほんの少し、気持ちが傾いただけで怖くて、僕はそっと手を引っ込めてしまう。ちゃんとした恋愛なんてしたことはない。いつだって僕は本物の恋を体験するのが怖くて自分から感情を手放してしまうのだ。  いつも優しく言葉を選んでくれた前の大家さんの娘さんも、家庭教師の従姉も、きっと僕は恋をしていた筈なのに。その恋が怖くてすぐに手放してしまう。  恋どころか自分の顔さえも手放している僕が、今更誰かに甘い予感を抱くなんて、本当におこがましい事だ。しかもその人は男性で、年下で、遠い日本の国の人だ。  アンザイリクトと言う名前の彼の事を、みんなと僕はアンリと呼んでいる。アンリがゲイだと言う事は、僕が彼と言葉を交わすようになってから比較的早めに、彼からカミングアウトされた。 『あのね、俺はゲイなんだけど。勿論ゲイだからって世界の男全部が好きってわけじゃないし、迷惑をかけるつもりはないんだけどさ。そんな人間が下の階に住んでたら気持ち悪いっていうのなら、新しいアパートを探す努力をするよ』  そう言って少し寒そうに笑う彼に伸ばしかけた手は、多分、無意識に抱きしめようとしていたんだと理解したのは屋根裏に帰ってからで、僕は重い頭を抱えてうずくまって数分間唸る事となった。  そうか。僕は彼がとてもかわいいんだ。  そんな簡単でどうしようもない事に気がついた時にまず襲ったのは絶望だ。恋なんてしたくない。だってそれはとても怖い。辛いに違いない。体力と気力が全て、全て、零れる砂のようにつぎ込まれるのだろう。愛情とは、そういうものだ。家族に対する愛だってそうなのだから、恋なんてもっともっと辛いに違いない。  いつもなら、感情が熱を持つ前に僕はそっと後ずさる。  けれど、アンリは毎日僕の為に薄い珈琲を淹れてくれる。  僕が朝、少しだけ顔を出して声をかけると、目を開いてびっくりしてから、すぐに甘い顔で笑ってありがとうと返してくれる。その後そっと、僕がアンリを見ている事をきっと彼は知らない。僕が階段を上りきった後でへなりと床にしゃがみ込んで、赤い耳を押さえるアンリをそっと見て、同じようにうずくまることを、彼は知らない。  やっぱり恋は辛い。こんなにも毎日がめまぐるしい。彼のいない毎日だって僕には流れる川のようだったのに、今や滝壺のようだ。ぐるぐると、感情が反流する。  小さな言葉の端々に怯えたり熱を上げたりするのは疲れるのに、やっぱり僕はアンリに『お帰り』と『いってらっしゃい』を言いたくて、階段下の気配に敏感になってしまった。  がたん、と音がする度に少しだけ顔を出して覗くと、買いもの帰りのオーレリーと目があったりもする。その度ににやにやと笑われて、『愛しのコック見習いじゃなくて悪かったな』と、愛に満ちた言葉を投げかけられる。  去年の冬越してきたアンリが、メゾンに馴染むまでに時間はかからず、二度目の冬にはすっかり旧友のような暖かな雰囲気が満ちていた。僕は相変わらず金曜の夜以外、一階に降りる事はないし、必要最低限、二階にも降りない。それでも、アンリがオーレリーとクレマンに愛されていることは知っていた。  時折、クレマンの作った売れ残りのパンを使ってアンリはディナーを作る。皆でそれを食べながら、僕はそれを見守りながら、些細な事で笑う時間が愛おしい。暖かい感情は、身体も温めるということを知った。  なんとなく、このまま年を越し、そしてまた春が来るのだと思っていた。  暖かい季節には花が咲く。最近は花をモチーフにしたマカロンにも挑戦していた。アザレ、ダリア、イリス、ポンゼ……日本の春の花は何? と聞いてみたら薄桃色の美しい花があると言った。その花は、食用になるのだろうか。  そんなささやかな僕の想像を壊したのは、クリスマスも終わった年の瀬、オーレリーの一言だった。 「アンリが日本に帰るらしい」  ――この言葉を聞いてから、僕はいつも以上に時間を忘れる事が多くなった。  気がつくとぼうっと外を眺めている。視線はアンリを追っている時もあるし、なんとなく宙をさまよっているときもある。心はいつもどこか、自分の中以外にあるような気がした。落ち着かない。そわそわと、心が落ち着かない。 「恋人を追ってこっちに来たんだって話だ。そりゃあ、別れた今となっちゃ、フランスに居続ける意味もないだろう。アンリの家族が健在かなんて俺は知らないが、何にしたって、生まれたわけでもない国で一人で生きていくには金がかかる。あんまりフランス語が得意じゃないって言ってたしな、些細な文化ギャップのストレスだってあるだろう。アンリはいい奴だ。日本での働き口だってあるに違いない。どう考えたって、日本で生きてた方が楽だ」  夜、いつものようにベランダで滔々と語るオーレリーの言うことはひどく真っ当で、僕を動揺させるには十分だった。  どうしよう。アンリが帰ってしまうなんて。  もう僕は、アンリの淹れてくれる薄い珈琲が飲めなくなってしまう。軽やかな朝の挨拶も、照れたような笑い声も、耳にすることは無くなってしまう。  そう思っただけで酷く苦しく、息がうまくできないような気がした。胸が詰まる感覚は、隣人の心無い言葉以外でも体験できるのだということを知った。恋は甘いだけではない。幸せなだけではない。誰かを思う事は、その分魂を預ける事なのだろう。  僕が勝手にアンリに差し出した魂が、重く冷たくなって行くような感覚だった。  フランスが嫌いになったのだろうか。日本が恋しくなったのだろうか。それとも経済的な理由だろうか。仕事の都合だろうか。訊きたい事は溢れるばかりで言葉にならず、沢山のその言葉を選んでいるうちに声にするタイミングを逃してしまう。  結局、年が明けるまで僕は、アンリにいつも通りの挨拶と些細な会話以外の言葉をかけることができなかった。  時折、洋服をまとめたりしている様子が伺えた。アンリの荷物は少なく、調理用具と少しの洋服を抱えて転がり込んできた、らしい。旅行バックひとつにまとめられてしまう程の荷物を持って、彼が消えてしまう日の事を考えるとこめかみが痛み、鼻の奥が痛くなった。  新年のパーティーをしよう、と言いだしたのはクレマンだったか。それともオーレリーだったか。お別れ会も兼ねて、と笑ったオーレリーに、アンリが苦笑していたのを見た時には耐えられずに泣きだしそうだった。顔が、隠れていてよかった。僕の被り物は、いつだってにこにこと笑っている。 「ハッピーニューイヤーのケーキと言えばガレット・デ・ロワだ! うまい店も沢山知ってるが、このメゾン・ブーランジェには幸運な事にコック見習いとマカロン職人が揃っている! ああ、飾り付けは任せろ。素晴らしいパーティー会場を作ってやるさ。何? 焼き菓子は専門外だ? 知るかそんなこと、俺だって飾り付けは専門外さ!」  そんな勝手な事を言われて、僕とアンリは困りながらも笑ってしまった。  マカロン以外のお菓子も、実は作れない事はない。昔、そういう仕事をしていたことがある。これは誰にも言っていないことだけれど、オーレリーはきっと、マカロンが焼けてパイが焼けないなんてことはないだろうと、そんな適当な予測で僕にこの仕事を押しつけただけだろう。その大雑把な適当さが愛おしいと、アンリも笑った。彼だってドルチェの担当では無い。それでも、レシピを探して、職場のレストランでパイ生地のコツを教えてもらったというのだから、その真面目な優しさに僕はまた胸をつまらせる羽目になった。  器用なアンリと、経験者の僕の作業は、特別な困難もなく進んでしまい、アーモンド生地のパイはあっという間に焼き上がった。 「これって、王様のお菓子っていう意味なんでしょ?」  焼き上がったパイを切り分けながら、アンリは僕を見上げてくる。  頭が大きい分もあるけれど、日本人のアンリは少し小さい。本国に帰ったら女の子よりは大きいよと笑うけれど、がっしりしたオーレリーと、背の高いクレマンと、そして僕と並ぶとやっぱり小さくかわいい。 「そう。ロワは王様。ガレットはケーキ。公現祭に食べるケーキで、紙の王冠と、フェーヴがセットになるんだよ」 「さっきケーキの中に入れ込んだ陶器の人形だね。俺はこのケーキ初めて食べるから、王様のゲームにも初めての参加だよ。フェーヴが当たった人は王様になるんだっけ?」 「うん。……そして、妃を指名できる」 「お妃さんを指名して何すんの?」 「ええと。多分、キスじゃなかったかな……僕も、実はこのゲームをしたことがないから、よくわらかないんだけど」 「あはは! 男だらけでそんなゲームしたら、もう罰ゲームだよなぁ。オーレリーにフェーヴが当たらないことを祈らなくっちゃ」  丁寧に切り分けたパイの皿を、少し大きめなトレーに移す。クレマンの厨房から二階の部屋に上がるには、外の階段を上がらなければならない。  今頃、オーレリーとクレマンが料理を並べ、紙の王冠を作っている頃だろう。  おやつ時に始めた作業に没頭している間に、すっかり陽が暮れてしまった。外は寒い。珍しく雪がちらちらと降っている。  今年も冬が通り過ぎる。その後に春が咲いて、夏が押し寄せる。その季節の変化の中に、アンリが居ない事が、とても辛い。  誰かを好きになることは辛い。でも、淡く実った感情が消えてしまうのは、もっと辛い。 「…………ねぇ、アンリ」  僕は言葉を選ぶのが苦手で、いつも躊躇しているうちに時間ばかりが過ぎてしまう。一生懸命に、オーレリーの言葉を思いだす。思ったことをただ簡単に言えばいい。今更恐れる必要なんてない。世界は怖い。世界は怖くても、愛す事は出来る。  だから僕は僕の中で言葉にならなかった愛をどうにかかき集め、不安が吹き出す前に震える声にして吐きだした。怖くて怖くて泣きそうだ。でも、彼が居なくなるより辛いことなんかない。 「僕が。……僕が、王様になってね、そして、アンリを選んだら。僕の布の頬にキスしてくれる?」  その瞬間のアンリの顔を、僕はきっと忘れないと思う。  一回目を大きく開いて、二回瞬きをして、そのあと息をひゅっと飲んで、呼吸が止まった後に耳まで赤くなって小さな悲鳴を上げて、冷たいキッチン台の上に倒れこんでしまった。  僕はその様があまりにも可愛くて、伸ばしかけた手をひっこめるのに精いっぱいで、うまく言葉が見つからなくて、ただひたすらに慌ててしまう。  どうしよう。どうして君はこんなにかわいいの? 「…………どうして、シュクレさんは、そう、……あー……俺をさー、ぎゅって気持ちにさせるんだろう、もーもー……なにそれ。幸せで死んじゃうような事いきなり言うの、ずるいよ」 「……ええと、ごめんなさい?」 「謝るのもかわいいからダメだ、俺の頭がもうダメだ……。ていうか、シュクレさんはさ、もし俺が王様になって、シュクレさんをお妃にしたら。ちゃんと唇でキスしてくれるの?」  たっぷり一分。僕はぼうっとした頭で考えて、あまりうまくない言葉を探して、最終的には降参した。 「アンリが、目をつぶっていてくれるのなら」 「……つぶってる。ぜったい開けない。約束する。じゃあ俺頑張ってフェーヴを当てる。当てるから、キスしてね」  柔らかく嬉しそうに笑うアンリを見ていたら、急に切なくなって涙が零れた。僕の涙は、ボロリと落ちることはなく、被り物の柔らかい布に吸収されていく。ああ、また洗わなくちゃならない。冬は、あんまり乾かないから嫌なのに。けれど涙は止まらなくて、ついには鼻を啜りだした僕に気がついたアンリはあたふたと慌てだした。 「え。え? ちょ、シュクレさん泣いてんの? なんで? 俺、泣かせるようなこと言った?」 「…………僕は、アンリがかわいいんだ」 「うん。なにそれ、すごく嬉しい今日がこの世の終わりかなって思うくらい嬉しいよ。だから何で泣くの」 「キミが、居なくなってしまうのが嫌だから。行かないでほしいから。僕が、キミの手を握る勇気が出るまで、我儘だけど隣に居てほしいのに。どうして帰ってしまうの」  目のあたりがじんわり熱い。滲む涙は零れず湿気に代わって僕を息苦しくする。こんな被り物脱いでむせび泣きたいなんて思ったのは、生まれて初めてだ。  僕の言葉を聞いたアンリは、今度は赤くならずに目をぱちぱちと見開いた。 「俺、帰国しないよ?」  その言葉に、目を見開いたのは今度は僕の方だった。アンリから見えている被り物の顔は、いつも通りの飄々とした笑顔だろうけれど。 「え。……え?」 「あ、いや一回日本には帰るけど。ちょっと従姉が結婚したとかで、いい加減正月くらいは顔見せろって言われて、まあ、普通に里帰り的な……幸い一週間くらい休み貰えたから、それ消化したらまた帰ってきてこっちで働くつもりだから、日本に行ったっきりなんて事ないけど」 「………………」 「………………」 「……オーレリー……」 「あー。うん。だろうな。いやでも、悪気はあったかもしれないけど、きっとアイツは良かれと思って悪戯しかけたんじゃないかな。シュクレさんが泣いた分は、俺が後で殴っとくけど。……シュクレさんが勇気だして言葉を選んでくれた分は、ちょっと、申し訳ないけどありがとうオーレリーって思ってる」 「……アンリは、また、このメゾンに戻ってくる?」 「来るよ。俺別に日本でやりたいこと無いし、こっちの生活好きだし、まだレストランで頑張りたいよ。同居人は煩いしお節介だけどいい奴だ。パン屋の主人も見た目ほど固くない。それに、屋根裏には、シュクレさんがいる」  こんなに幸せな生活はない、とアンリは笑う。軽やかに、柔らかく笑う。僕はその笑顔にまた止まった涙がぶり返し、ああ、人を好きになると言う事は本当に疲れるけれどとても暖かい事なんだな、と実感した。 「なんか、妙にシュクレさんが一生懸命だったのはそのせいかー……いや、いいんだけど。嬉しかったし。がんばってフェーヴ獲得するから、そしたらそれ脱いでキスしてね。俺もちゃんと告白します。一年も片思いしてりゃそらバレてるかなって思ってたけどさ……シュクレさんは、結構誰にでも優しいから。いつだって勘違いしないようにって言い聞かせてたのに」  早く言ってよもう、と怒った振りをするのがとてもかわいくて、僕の手がそわそわとしてしまった。  あんなに絶望的な気分になったのが嘘みたいだ。毎日、アンリが居なくなる世界を想像して泣いていたのに。その世界は僕の思い過ごしだと判明したら、急に心が晴れやかになった。  恋とはとても怖い。でも僕は、ほんの少し、恋の素晴らしさを味わうことができている気がする。  二人で少し笑って、オーレリーを少しだけ責めて、パイの皿の事を思いだして、二階で待つ住人の事も思い出した。ケーキが出来ればパーティーの準備は完了だ。  お節介なオーレリーも、彼と居るととても口が悪くなるクレマンも、きっと待ちくたびれていることだろう。慌てて支度を再開するも、どうも気分が浮足立っている。ふわふわとうまく歩けない。少し泣いたせいもあるのかもしれない。あとはやっぱり、楽しそうで幸せそうなアンリのせいだ。 「そういえば。アンリは、訊かないね」  ふと、彼を見ていたら思い立った。思った事をすぐに口にするのは珍しいことなのだけれど、ふわふわした思考のせいで考える力が沸いてこない。 「何を?」 「僕が、こんな被り物をしている理由。みんな、とても知りたがる。どんな辛い事があったのか、どんな悲しい出来事があったのかって。でも、アンリは気にならない?」 「あー。いや、まあ、気にならない事は無いけど。それは普通にオーレリーの幼少時代どうだったのかなとかクレマンさんに恋人は居なかったのかなとか、そのくらいの気持ちでさ。シュクレさんの話が聴きたいなっていう、それだけの感情だよ。何が理由だって、被り物してたって、顔が見えなくたって、俺はシュクレさんが好きだよ」  晴れやかに笑う、柔らかいこの青年の事がやっぱり好きだと思ったから、衝動を堪え切れずに手を握ったら、アンリは悲鳴のような声をあげてから苺のように赤くなって焼きたてのマカロンのように熱くなった。  アンリが帰ってくる日は、甘くて赤いマカロンを焼こう。それをバスケットいっぱいに入れて、花束のようにして。そしてもう一度、ちゃんと言葉にしようと、そう誓った。  いつか、僕が屋根裏から一歩出れる時、隣で笑うのはキミが良い。  そう告げた時のアンリは、きっと甘く、赤くなってしまうことだろう。その妄想は、とても甘く僕までも熱くしてしまうものだった。  屋根裏の引きこもりが、階下の料理人に恋をした。そんな、些細な話だった。

ともだちにシェアしよう!