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薔薇色フレーズ
今年の冬はやたらと寒い。
「なぁ、マフラーが手放せなくて困るよ。僕はマフラーをしたらいいけど、花はそうはいかない。凍えてしまって可哀想で大変だ」
夏は開けっぱなしのドアから入る冷気で溜息が出そうだ。室内は暑くもなければ寒くもない状態にどうにか保っているけれど、外は凍える寒さなのだろう。
ふるりと震えた年下の青年は、強張った頬をほぐすようにさすっていた。
「ジャパンも雪だったかい?」
「大雪で大変だったよ。交通機関が全滅で、結局家から出れなかった。……俺、フレデリックに帰省するって言ったっけ?」
「昨日までアンリは日本旅行だって、オーレリーが小一時間喋って行ったよ。寂しかったんだろうなぁ、良い同居人だってここ一年煩いくらいに自慢してる。果てはクレマンまでアンリ自慢をすることもあるんだから、キミは本当に魔性の男だね」
「……嬉しくないなぁ、魔性だなんて失礼極まりないじゃんか。そういう事を言う意地の悪い花屋には、約束のモノを差し出したくないね」
「嘘だ。嘘だよ、嘘嘘。アンリはとても爽やかで素敵でかわいくて優しい。土曜の朝からクレマンのパン屋に並べない僕の為に、かのムッシュ・シュクレのマカロンを買ってきてくれるキミは天使だよ」
僕のいささか軽薄な愛情表現の言葉も、彼は苦笑ひとつで許してくれる。アンリが皆に愛されているのも頷ける。彼は丁度良いくらいに優しく、時折おっちょこちょいで、その完璧すぎないところが非常に好ましい男だった。
二十代半ばの彼は、広場の先のレストランで働いている。過酷な仕事らしいが、やりがいがあると笑うのだから、肝も座っているだろう。
僕なんて家業の花屋を継いでいるだけだ。今になってやっと、この仕事の素敵さを実感することもあるが、異国の地で一から頑張ろうなんて勇気はない。
素直にアンリを称えると、また彼は苦笑いを零した。
「恋人を追っかけてきただけだよ。きちんと働いてるフレデリックの方が、きっとちゃんとしてる」
「その恋人とは別れて、今のメゾン・ブラージェだろう? 運命ってやつは面白いよな。辛いことの後には、ちょっとした幸せが待っていたりるもんだ、ってのはオーレリーの受け売りだけど」
「あはは、言いそうだ! あいつはなんであんなに他人の幸せに敏感なのかなぁ」
「悪口を探す人間よりは何倍も素敵なことだよ。所で、ムッシュ・シュクレのマカロンは無事に買えた?」
「……いやそれが、実は今日の販売は無くて。だから売り物じゃないものをちょっとだけ貰って来たよ。ちゃんと事情を説明したから、安心して貰ってくれて大丈夫だからさ」
「え。いいのかい? そんな貴重なものを……シュクレさんのマカロンは、ただでさえ売り切れ必死のレアモノだって言うじゃないか」
「プレゼントにするなら、むしろうってつけなんじゃないかなって思うけど。誰かにあげるんでしょ?」
さらっと訊かれて、言葉に詰まってしまうのは羞恥からだ。
いい歳までふらふらとして、なんて母親には言われる。そんな僕が三十を目の前に今更恋をしたなんて。しかも、大して言葉を交わしたこともないお客さんの女性に惚れてしまっただなんて、恥ずかしすぎて中々言えない事だ。
彼女はいつも、夜中の手前の時間にふらりと立ち寄る。一番最初に彼女が買った花はリラだった。そんなことまで覚えているのだから、これはきっとヒトメボレなのだろう。
少し疲れた表情で、強張った頬のまま花に囲まれ、暫く無言で選んだ後に静かに会計をして帰って行く。その姿はとても凛としていて、厳しさと正しさと本の少しの哀愁で満ちていた。
声をかけると、困った様に黙った後に、少しだけ表情を綻ばせてくれる。あまり人が好きなヒトではないのだろうと思うのだけれど、彼女がそこにいると、つい声をかけてしまうのが僕なのだ。
その細い手を握る光栄が欲しい、だなんておこがましいことは言わない。ただ、ちょっとだけ笑顔にできたら嬉しいのに、と思う。
彼女がシュクレさんのマカロンのファンだ、という話を聞いたのは年の瀬のことだった。相変わらず疎まれる覚悟で言葉を連ねる僕に慣れたのか、世間話程度の軽さで彼女はマカロンの話をした。
あんなに柔らかく軽くおいしいものがあったなんて。そう語る頬は少しだけ暖かく染まり、少女のようなきらめきが見え隠れした。
恋は単純だ。そして僕も単純だ。彼女が笑ってくれるなら、そのマカロンをプレゼントしなければならない。
本当は自分で買わないといけないのは知っている。けれど、土曜の朝はお得意様がひしめく時間だ。僕が店を空けるわけにはいかない。
さてどうやってマカロンを手に入れよう、と思案していた時に、アンリの事を思いだした。
時折食用の花を買って行く彼は、件のメゾン・ブラージェの住人ではないか。
気の良い青年で、すっかり友人のような存在になったアンリに、僕のどうしようもない恋を打ち明けると、彼は快くマカロンの調達を了解してくれた。
それにしても売り場に出ないマカロンだなんて。そんな貴重なものをもらっていいものか、不安になってしまう。
まだ包装されていない箱を開ければ、そこには赤い艶やかな焼き菓子が四つ程詰まっていた。
焼き上がったマカロンの上には、赤いバラのシュガークラフトが乗っている。見た目も鮮やかな出来栄えに、本当に貰ってもいいのかとより一層の不安が募った。
「本当にいいの? これ、何か大事なモノなんじゃないのか? すごく奇麗で、びっくりするよ……」
「いいって言ってたよ。今世界にものすごく感謝したい気分なんだって。それ、薔薇モチーフだけど苺味なんだ。珍しく伝言もある。『貴方の暖かい気持ちが、どうか実りますように』だって」
「嬉しいね。これって、とても光栄なことなんだろう? ぜひありがとうと伝えてほしい。良ければ、買い物に来てほしいよ。貴方の大切なヒトに似合う花を、ぜひ僕に選ばせてほしいって、伝えておいて」
そう言うと、アンリは恥ずかしそうに笑って了解してくれた。
甘い、柔らかい、素晴らしいマカロンを焼くムッシュ・シュクレの隣で笑う人は、一体どんな幸福な女性なのだろう。彼女はこの薔薇色のフレーズマカロンを食べることができる、幸運な人間なのだろうなと妄想した。
「そうだ、代金とは別に、好きな花を持って行っていいよ。特別なマカロンを貰ったお礼だ」
「いいの? そういうの、遠慮なく貰うけど」
「一応店主だからね。そのくらいの権限はあるよ。想い人に贈ってみたらどう? それとも、新しい恋はもうこりごり?」
「……こりごり、って思ってたけどまあ、結局落ちちゃうのが恋だよな」
そんな風に幸せそうに笑うものだから、ああ、こいつも恋をしているのかと、どうにも柔らかい気分になった。
全く、世界は幸福で満ちている。
赤い薔薇を選ぶアンリと一緒にリボンを選びながら、ささやかな幸福で満ちた世界に感謝した。
end
【屋根裏のシュクレさん】
2015.10.18発行の同人誌ログでした
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