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愛の国の歌 01
他人を家に招き入れることは考えてみなくても初めてで、その上ホームパーティだなんて恐らく数年前の私が聞いたら『冗談はやめてくれ』と冷ややかに言い放ったに違いない。
だがこれは不可抗力に近い。
まず、パン屋は狭い。壁に沿ってパンを並べるだけのスペースがあり、あとはレジがあるだけだ。厨房はそれなりに広いけれど、大きな作業台があって邪魔だ。あれは備え付けだから、動かすわけにもいかない。
二階の居住区はテーブルと椅子があるにはあるが、四人もいれば手狭だった。いつものメンバーならばそこでもいいだろう。しかし今日はゲストがいる。
屋根裏は勿論、場所の候補にも挙がらなかったので、仕方なく私は借り受けて使っている現在の自宅を、パーティ会場に差し出したわけだ。
フレデリックの花屋は遠い。アンリの料理が冷めてしまう。花は簡単に持ち運べても、暖かいスープはそうはいかない。ナタリーの部屋はアパルトメントで、そうでなくとも女性の一人暮らしの部屋に押しかける程、私たちは若くもないし馬鹿でもない。
久しぶりに徹底的に掃除をして、オーレリーを駆り出して家具をすっきりと移動させてみると、狭い部屋もそれなりに見えた。
フレデリックが花を飾り、オーレリーがありったけの椅子を運び込み、私はきっちりとアイロンがかかったテーブルクロスを几帳面に広げた。即席のパーティ会場にしては上出来だろう。まあ、会場が狭かろうが汚かろうが、気にする友人達ではないのだけれど。
料理が並び、全員に飲み物がいきわたると、さて何の会だったかと、皆で一回首をひねった。
「なんだろうね……ええと……まず、ナタリーはヴァロンタンの激務お疲れ様」
「あなたもお疲れ様、アンリ。去年よりは随分と楽になった。あなたがフォローしてくれたからね。スープも上々。もうちょっと準備に無駄がなくなればもっと――」
「ストップ、ナタリー! まったく休日まで仕事の話だなんてお前たちはまじめすぎる! キミは仕事の指導より先に、恋人ができた報告を後輩にしてやらなくちゃいけないだろう? さあフレデリック、胸を張って挨拶してやれ。……リュカ、飲みすぎるなよ、それはクレマン秘蔵のワインだぞ」
「そんなに高いものじゃないよ。音楽の先生も昨日までだっていうじゃないか。リュカのお疲れ様も兼ねているね。初々しいバンドはどう? 成長した?」
「成長するかよ全然だめだよ、もう楽譜に全部ドレミを振った。記号がわかんなくたって音さえわかればいいじゃんって開き直ってさ、口頭で楽譜歌って録音して渡しておれの授業はそれでおしまい。来月からはただのパン屋のバイトに戻るよ」
「忙しない二月だったね。フレデリックのところもバラに溢れた二月が終わったわけだ。サン・ヴァロンタンは地味な祭日だが、どうにも僕たちは忙しくなってしまうらしい。さて、じゃあ忙しい二月が終わった事に、乾杯だ」
さようなら二月。歓迎するよ三月。とグラスを掲げた私の後に続き、皆がさようならと笑い合う。
テーブルの横で、アンリがナタリーとフレデリックを見比べて、目を丸くしているのが見える。私もナタリーとフレデリックの関係など知らなかったが、まあいいじゃないか素敵な事じゃないかと思う。
誰かの愛が伝わるのは良いことだ。誰かれかまわず愛されたいわけではないけれど、やはり、伝わらないよりは報われる方がいい。
ささやかなパーティは緩やかに進み、アンリが用意した軽食は瞬く間になくなった。一口食べる度にナタリーが何か言いたそうにしていたが、仕事の話は職場で、とその度に私とオーレリーが彼女の口を塞いだ。ナタリーが、アンリの事を愛している証拠だ。愛しているから気に掛けるのだ。
「ドルチェくらいなら作ったのに」
リュカが淹れた珈琲を配り、食器をあらかた片付けた私に、ナタリーはそう申し出てくれた。
「本場のシェフのドルチェだなんてもったいない。それはキミの店に食べに行った時にぜひ腕を振るってほしいよ。それに今日は特別なドルチェがある。あー、いや、焼き菓子は、ドルチェにはならいのかな」
どうかな。どうだろう。けれど甘いものなのだから、どれも一緒だろうと私は強引にそう付け加えた。
奥の部屋から、アンリが運んできたのは、美しく色とりどりのマカロンタワーだった。勿論、このマカロンは土曜の朝に私の店に並ぶ、幻のマカロンだ。
ムッシュ・シュクレ当人は、パーティには出席していない。リュカも、ナタリーも、フレデリックも、ムッシュ・シュクレにしてみれば恐ろしい他人だからだ。
ブーランジェの面々はそんなことはわかっていたし、ナタリーもフレデリックもリュカも、気にした風もなかったのだけれど。
「今までのが、忙しない二月お疲れ様ようこそ三月の会ね。そんで、これからは、ええと……これ俺が言っていいの?」
改まった雰囲気が苦手なのか、アンリは痒そうに言葉を濁らせた。こういうところが、可愛い後輩なのだろうなぁと、私はナタリーを見てしまう。
「いいよ。僕はそういうのは苦手だ。さあアンリ、もうちょっと前出てきたら?」
「え。いいよここで。ていうか改まって言うの、ちょっとなんか、あー……つまりええと、いいか一回しか言わないからな。ハッピーバースデイ、オーレリー!」
それを合図に、ボン! と抜けたような音が響いた。
ひらひらと、舞い散るのは色鮮やかな紙屑だ。
私は人生で初めてこの家に人を招いたが、人生で初めて、クラッカーというものを鳴らした。思っていたよりも火薬くさく、割合音がうるさいという事を知る。
ひらりと舞い散る紙はご丁寧に星型に抜いてあって、それらは火薬くさい空気の中をきらきらと舞い落ちる。星の紙くずにまみれたオーレリーは、何が起こったかわからない様子で珍しくぽかんとしている。
しまった、と思う。カメラを用意しておけばよかった。笑っていないオーレリーなんていう貴重なものを、写真に収めるチャンスを、私は逃してしまったらしい。
「…………いや、待て、待て待て、俺は聞いていないぞ? それに俺の誕生日は三日前に過ぎてしまった。誰にも言った記憶もない! 一体どういう事だ? 誕生日を一々祝うような、そんな友人だったかと今記憶を思い返してしまったじゃないか!」
「ムッシュ・シュクレがキミの誕生日をうっすら覚えていたんだよ。いいじゃないか、口実なんてなんでもいいんだ。アンリとナタリーはレストランの多忙が終わった。フレデリックもだね。ヴァロンタンは赤いバラが欠かせないから、花屋は馬鹿みたいに忙しい筈だ。リュカは面倒な講師にカタを付けてきた。僕は、そうだね……夜営業の門出かな。シュミネの新しい日々が三月から始まる。その前祝だ」
「そんで、オーレリーは誕生日おめでとうってわけで、俺たちからプレゼントがあるんだよ。受け取らないとか言わないよな?」
「おいおい、そういう……堅苦しい祝い事は苦手なんだ。幸福は好きだし愛はたっぷりあっても困らないが、どうもこう、俺はささやかな日常を愛しているわけで、何かの主役になったりするのは柄じゃない」
「つれないこと言うなよオーレリー。あんたのために、ゲストが来てるんだからさ」
「ゲスト?」
それは誰だと、オーレリーが問う前に隣の部屋のドアをアンリが開けた。
誰もいない。いや、いる筈だ。ずっと、最初からそこには彼がいた筈だ。逃げる場所もないので、扉の陰に隠れているのだろう。
ほら、とアンリが促すと、おずおずとその人は姿を現した。
丸い、とても大きなのっぺりとした人形の被り物。にっこりと笑顔が描かれた顔には丸い目が二つあって、鼻と耳だけは立体的に縫い付けられている。
頭にはそんな大きなぬいぐるみの顔を被っているのに、首から下はいたって普通で、それがあまりにもアンバランスで私は最初、どう反応していいか迷ってしまったことを思い出した。
恐らくリュカも、ナタリーも、フレデリックも、当時の私と同じか、似たような気持ちを抱いているに違いない。
アンリの背中に隠れるように姿を現したムッシュ・シュクレは、律儀にブーランジェの面々以外に小さく頭を下げた後、オーレリーに向き直ってくぐもった声を並べた。
「…………あの、マカロンを……きみの為に焼いたんだ。ショコラと、フレーズ。オーレリーはいつも、ベランダでココアを飲んでいるでしょう? 僕はその横で、きみの話を聞くのが、とても好きな時間だから」
ムッシュ・シュクレの声はとても小さくて、いつも少し聞き取りにくくて、そしてそれが愛おしいんだとオーレリーはよく笑っている。わからないでもない。ぼそぼそと喋るかの人見知りの被り物男は、とても愛おしいその声を、恐ろしいだろう世界にポツリポツリと放つのだ。
「――ムッシュ、ああ、そりゃ嬉しい。嬉しいが、無理をしなくたっていいんだ。俺はムッシュが、外に出なくたって、誰と仲良くしなくたって、ただ毎日笑っていればそれで幸せだってのに」
「……だって僕も、きみの事を祝いたい」
震える手で、ムッシュ・シュクレは少し膨れた封筒を差し出した。
オーレリーは泣き出してしまうんじゃないかと思うと、私は見ていられない。アンリはほら、もう半分泣いている。
「きみの言葉を聞いていると、なんだか少し、軽くなるんだ。今日はもう寝て、明日でいいのかなって思うんだよ。それが、僕は、とても嬉しいし、とてもありがたいと思うから。……ありがとう、オーレリー。きみが居てくれて、僕はとても、嬉しい」
その膨れた封筒を受け取った時、オーレリーもアンリもすっかり涙で濡れていて、私まで視界が滲む思いだった。
隣で鼻を啜っているのはリュカだ。なんでキミまで泣いているんだい、と思わなくもなかったが、きっとムッシュの話をオーレリーとアンリから嫌というほど聞かされていたのだろう。
屋根裏の引きこもり。人が怖くて、誰とも話せない対人恐怖症。外に出るなんて自殺行為。階段を下がってくるのだって勇気がないと無理で、金曜の夜に厨房に入るときは一週間分の勇気を使う、愛おしき変人。そして、とても優しく、少し悲しい変人だ。
天井を見上げたオーレリーは、涙を誤魔化したいようだが、溢れるものは止まらないらしい。わかる。私も目が痛くて困るよ全く。
「…………サプライズは苦手なんだ。ちくしょう、こんなのは卑怯だぞ! ムッシュにこんなことを言われて、さらっとありがとうなんて言える奴が居たら拝んでみたいしそんな奴はもっとムッシュの努力と勇気を想像しろって殴ってやりたくなるから駄目だな! まったく、なんて勇気だ。どうして俺の為に勇気なんか出しちまうんだ。ほらみろ、こんなこにくらしい事しか言えないダメな絵本作家だ。もっと愛を与えたい。もっと幸福を与えたい。それなのに、俺がもらってどうするんだ、ちくしょう!」
「いつもあほみたいにもらってるよ落ち着けよ。ほら、その封筒開けてみろって。シュクレさんだけじゃなくて、みんなから、アンタにだよ、オーレリー」
「なんだって? おまえさんたちは俺の涙を搾り取る気か?」
減らず口を叩く事を忘れないオーレリーはしかし、封筒の中身を取り出すと、その素朴な紙に書かれたメッセージを読みながら、また天井を仰いだ。
それは、私たちから彼へ当てたメッセージカードだった。
花を贈ろうか、何を贈ろうか。随分とアンリと悩んだものだ。しかしプレゼントというものは面倒で、もらった方はその先のお返しを考えてしまう事がある。もらった分だけ何かを返さなければ、と思うのならば、私たちは彼からもらったものを返せばいいのだと結論付けた。
「言葉だよ。俺たちはさ、いっつもアンタに馬鹿みたいにたくさんの言葉をもらってるだろ。だから、まあ、そんな溢れるみたいにたくさんの言葉ってわけにはいかないし、本職じゃないから拙いもんだけど、まあもらってやってよ。俺たちの愛の言葉だよ」
アンリが促し、オーレリーはそのカードを一枚ずつ捲った。
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