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名前のない曲
騒がしくも暖かい部屋から抜け出した世界はじっとりと暗く、吐き出す息は白く漂い、数秒後には夜に溶けた。
昼は好きだ。太陽が好きだ。しかし月と夜が嫌いだなんてことはない。
俺の愛おしい友人たちは皆俺の事を、やたらに明るい昼の使者みたいに言うがしかし、ひっそりと息を潜めるような重い夜の空気は、指先までも飲み込む静寂で満ちていて心地いい。静かな夜の街は、考え事をするには最高だ。
と言っても、特に目的地があるわけではなかった。勤め人ではないのだから、明日の仕事を気にする必要もない。それはありがたいことではあったが、なんとも生活が不安になることがある。
ふらりと馴染みの店を抜け、公園まで足を伸ばす。
整備されているわけでもない、小さなベンチが数個あるくらいの公園だった。昼間はそれでも、昼食を摂る学生や子供を遊ばせる主婦で溢れる。日が暮れてしまえば、人通りもなく寂れた夜のありふれた風景になった。
冷たいベンチに座る瞬間、尻がひやりとして笑いのような声が出てしまう。それでもぐっと我慢して腰を落ち着けた後、見上げた空はありがたい事に星空だった。
首にひっかけていた眼鏡を鼻の上に乗っければ、きらきらと瞬く星の海がはっきりと見える。
普段俺は、なんてぼやけた世界で生きているんだと驚く程だ。暗い闇にしか見えなかった空には、星屑と呼ばれるような細かい星がぎっしりと寄せ合うように輝く。
しばらくそのまま、星の海を眺めた。
そういえば悩んでいた事柄があったな、と思い出したのはそれから数分たった後で、俺の身体はすっかりと冷えていた。
さて、そろそろ冷えた頭で、考え事をしなければならない。というのはわかっているのだが、どうにも臆病な自分が顔を出す。嫌な事は後回しにしたい。面倒なことは考えたくない。甘やかす言葉は時には必要だが、常に言い続けるとそれは言い訳だ。
さあ勇気を奮い立たせるにはまず、何をしたらいいだろうか。
そう考えた俺は、ささやかな声で、そう、周りの家の迷惑には決してならないような声で、歌を歌う事にした。
どうやら俺は、とんでもなく歌が下手らしい。
自分ではそんなに言う程でもないんじゃないかと思う。しかし、俺を取り囲む少々口の厳しい友人達は遠慮も容赦もなく、お前の歌のその調子はずれな音と拍子をどうにかしてくれと言う。彼らが言うのだから、きっと俺の歌は本当に酷いものなのだろう。
俺はおよそこの世界のものほとんどが嫌いではない。勿論歌を聴くことも、歌うことも好きだ。ただしテレビのない部屋にいる俺が覚えている歌と言えば、流行歌ではなく古臭いクラシックや子供が歌う童謡のようなものばかりになる。
星の歌はあっただろうか。夜の歌はあっただろうか。思い出しながら、古くから時折思い出る曲を口ずさんでいた時だった。
足音が聞こえた。
そりゃ、外だから誰かが通ることもあるだろう。しかしその足音は俺の近くまで来ると、すっと止まった。
同時に人の気配がする。人間がそこにいるときの空気は、一人きりの時とは全く違う。
さて、俺の知り合いかそれとも酔っ払いか。勤勉な警官ということはないだろう。治安が悪いのはもっと奥の通りの方で、このあたりは割合平和だ。
星屑の海から顔を戻し地上の世界に目をやれば、そこには一人の子供が立っていた。子供というか、少年というか。いや、青年ではないだろう。
近所の子供かそれとも観光客かはわからない。見かけない顔ではあるが、そもそも俺は外出することが希だ。従って、知り合いもひどく少ない。
「……こんばんは」
おそるおそると言った風に、その子供は最初の一言を紡いだ。
悪くない一言だ。人に会ったらまず挨拶をする。それを守れる奴はいい奴だ。
おそらくフランス人なのだろうと検討をつける。発音がとてもきれいだった。多種多様な人種が混じるこの国では、人種のサラダボールとは言わないが、まあそれなりに肌の色が違ったり宗教が違ったりもする。俺の友人は外国人ばかりだし、国が同じでも肌の色が違えばパッと見の印象もわからない。
俺がこの子供のことを『フランス人のガキ』だと断定できなかったのは、まあつまりそういうことだ。
俺と違う肌の色が悪いという訳じゃない。そんなことは、まったくもってどうでもいい。客観的に、ただ単純に、国と年がわからないという以外の意味はない。肌の色よりも大切なのは相手が何語を喋るのか、そして自分が何語を理解できるのかという事だ。
言葉が通じるってことは大切だからな。コミュニケーションをとるには、やはり言葉がないと始まらない。
「こんばんは、リトルボーイ。なんだ、こんな時間に夜の散歩か? 買い出しならおすすめしないぞ。この辺は田舎気質だからな、夜が更けてくると開いている店なんて皆無だ。勤め人もパン屋の主も、大概みんな飯を食ってのんびり一日を振り返っている時間さ!」
「あんたは、ここで、一日を振り返っているの?」
「俺? ……ああ、そうだな。そういうことにしよう。俺は星屑溢れる空が好きだからな。残念ながら星屑ってやつはきらきら光る有名な星よりちょっと見にくい。明るくて暖かい部屋から見上げても、光に邪魔されて見つけることができないからな。星屑に下手な歌を聴いてもらいながら一日を振り返るのが好きなのさ。それには、冷たい夜の公園がお似合いだ」
少年はわかったような、わからないような顔をした。いきなり陽気に話しかけられてもそれはそれで困るもんだが、彼の固い表情もまた困るものだ。
悩んでいる人間の顔だ。不幸を背負っている人間の顔だ。
そういう顔を見ていると、俺はついついお節介をやきたくなる。自分のことを棚の上に放り投げて見ない振りをして、俺は少年に隣に座るように勧めた。
冷たいベンチに座るとき、やはり彼も少し声を飲んだ。誰も彼も、尻が冷たいのは嫌だということだ。
「見えるか? あのぎっしり詰まっている光る砂みたいなものが星屑さ。俺も昔は裸眼で見えたものだがなぁ……年をとることは楽しいが衰えることだと、最近は実感する。おっとすまない、俺の話ばっかりだったな。少年はこのあたりに住んでいるのか?」
「……叔父さんが、住んでいるんだ。だから、この辺はよく知らないんだけど」
「おっとまさか小さな家出中か?」
「帰りだよ。届け物をした帰りに、あんたが、よくわからない歌を歌っているのが聞こえたんだ。なんだか、聴いたことがあるような気がしたけど、何の歌か思い出せなくて、それで」
「ははあ。本人にずばり訊いてみようと思ったのか。いやその前向きな行動力は評価したいが、夜の街は思いも寄らず鋭い牙を隠しているもんだ。あんまりホイホイと他人に声をかけるもんじゃないぞ」
「おじさんは、犯罪者なの?」
「まあ、少年から見たら俺はじいさんか。しかし残念ながら犯罪者じゃない。ただの売れない作家のまがいもんだ」
自分の職業を告げるときに、どうも素直になれないのは、わだかまりがあるからかもしれない。
行きずりの少年は相変わらず無表情で、俺の話なんてどうでもいいようでもあった。あまり拘束するのもかわいそうだ。何より今夜はやたらと冷える。
「さっきの歌の話だが……どうだ、もう一回歌ってやろうか」
少年の答えを待たずに、俺は星屑溢れる空に向かい、小さく歌を捧げた。
それはおそらく酷く不格好な歌なのだろう。皆が笑い、どうしてそうなるんだと言う、酷い歌だ。少年は最後まで俺の歌をきき、やっぱりわらかないというように首を傾げた。
まあ、それもそのはずだ。
「悪かったよ少年。種明かしをしよう。この歌は、俺のオリジナルだ。だから名前なんかないし、他のどこにも存在していない。ただ何となくもの悲しく考え込んじまう日には、俺はこの名前のない歌を歌うのさ。……昔、歌を作る人間になりたくてね」
「歌を?」
「おいおい、その顔は失礼じゃないか。俺だってなんて無茶な夢なんだ! ということを知っているから、泣く泣くあきらめたんだぞ。歌が好きなんだ。たった数文字で感情を伝える。まるで魔法のようだ。三分で人は幸せになれる。こんな素晴らしいものが世界に存在する幸福は言葉にしがたいよ。俺は、ぜひその幸福の使者になりたかったんだが……残念ながらこの音痴だ。俺が歌うわけじゃないが、音楽の神様は俺にその才能を与えてくださらなかったのは明白だ。だからおとなしく、音じゃない方に重きを置いたのさ」
「……文字をかくのは、楽しい?」
「楽しいとも! とても楽しい。そりゃ、時折悩むこともある。実はある企業から別のものをかいてみないかと言われていてなぁ……俺が書きたいものじゃないんだが、まあ、それもありかな、と悩んでいる真っ最中だ。人生何事も経験だ。やってみなくちゃわからない。そうだろう? ところで少年は将来、何になりたいんだ?」
「僕は……」
そこで少年は言葉を切り、思い悩むように視線を落とした。おそらく彼は、とても悩んでいるのだ。人生の壁に初めてぶち当たり、それをどう乗り越えていくのか、大変悩んでいるのだ。
「僕は、絵本作家になりたいんだ」
少年はそう言った。とても苦しんでいる者の声だった。
「でも、絵が下手で、ちっともうまくならない。林檎を描けばただの赤いボールみたいになるし、人なんてもっとひどくて、ヒトデみたいにしかならないんだ」
「なるほど。じゃあキミはあれか、絵が描きたいんじゃなくて、話が書きたいのか?」
「……わからない。絵を描くのは好きだけど下手で、話を書くのはうまいのかわからない。でも、喋るのが好きだよ。言葉が好きなんだ。僕の言葉は多すぎてわからないから、少なくして、絵でもつけたらいいよって言われたんだ」
「それで絵本か。なんだ素晴らしい動機じゃないか! 俺はキミを大いに応援したくなったぞ」
なんて愛おしいのだろう。なんてすばらしいのだろう。
言葉の海を愛している少年は、その海の中から数個の文字を抓みだし、並べ立てて作品を作ろうというのだ。その横に沿えるのは、ヒトデだか人間だかわからないへたくそな絵だという。
それを生業にしたいだなんて、俺は応援するほかない。ただし、応援する以外の事もできない。行きずりの名前も知らない少年の背中を叩くのは、無責任な程簡単だ。
それでも俺は彼を励ますべきだと思った。アンタのせいで道を踏み外したと、後々恨み言を言われてもいいさと思った。俺はきっと、この少年の事が好きなのだ。
「絵は芸術だ。そして芸術は得てして努力よりもセンスが重要だと思われがちだ。実際にそうなのかもしれない。だから音のセンスがない俺は歌うたいになることを諦めた。何度練習してもドの音もレの音も安定しやしない。完全に駄目だ。だがおまえさんはまだまだ見込みがあるぞ! 赤いボールだって林檎の話だってわかれば林檎に見える。ヒトデだって目と鼻をつければかわいいお人形さんだ。練習していればうまくなるかもしれないしな。センスがなくても努力してみる価値はある。目に見えるものすべてを描いてしまえ! 部屋の中でも部屋の窓からでも、キミが描くべきものはごまんとある。キミが自分の下手な絵に嫌気がさしてどうしようもないと思っても、いいじゃないか。溢れる文字で、下手な絵を飲み込む感動をぶちまけてやれ」
星屑の下で捲し立てる俺の演説を、少年は静かに聞いていた。感銘をうけたのか、呆れているのかはわからない。ただ静かに聞いていた。
そのうちに、ぶるりと寒さに震えたのは俺だ。
さて、いよいよ散歩を切り上げる時間かもしれない。偉そうなことを言った俺は結局ただの悩める大人で、自分の未来さえも決定できない。立ち上がった俺は、静かにそこに座ったままの少年に向かい屈みこんだ。
「俺は身体が冷えちまったからそろそろ帰るよ、じいさんだからな。握手をしよう、少年。将来キミが偉大な絵本作家になった時に、初めて握手を求めてきたファンは? と訊かれたらぜひ、俺の名前を答えてくれ。応援しているよ、先生。俺の名前はヤスミン・ビュシェールだ」
そうやって少年に手を差し出すと、おっかなびっくりといった感じで、彼も手を差し出して来た。俺の白い手と、彼の黒い手がしっかりと握手を交わす。小さな手には、ペンを持つ位置にタコのようなへこみがあった。なんだ、努力家の手じゃないかと、俺はますます笑顔になった。
「キミの名前をきいとかなくちゃな。いつか本屋で見かけたら買わなきゃいけない」
「……オーレリーだよ。オーレリー・コラール」
「オーレリー! いい名前だな。ますます気に入ったぞ。さあ時間は有限だ。こんなところで落ちぶれた作家と話している場合じゃない。キミは絵を描いて文字を書かなきゃならん! 世界中の絵本好きな人を幸福にするためにね。そうだろう?」
にやりと笑った俺に対し、その時少年――オーレリーは初めて、唇の端をあげたように見えた。いや気のせいだったのかもしれないが、俺は彼が笑ったと思いたかった。
俺が彼の事を一発で好きになったように、彼にも俺の事を好きになってほしかったからだ。
もう会うこともないかもしれない少年に手を振り、俺は慣れ親しんだ道を歩いて帰った。
古い町並みだ。時折新しい家ができるが、それでもこのあたりの見た目は随分と変わらない。そのうちに数刻前に飛び出した家の前に戻り、なんとなく気まずいような気持ちを抱えながら、俺は部屋の明かりの中に飛び込んだ。
案の定、俺の同居人はキッチンに居た。
本来の発音は何度聞いても再現できないから、このあたりの知人はみんな愛称でリィと呼ぶ。リーシンだかリーリンだかリーウェンだか、とにかくそんな名前の東洋人は、黒い髪を束ねて括り、コトコトとスープを煮込んでいた。
まったくこの同居人と言ったら、俺が散歩に行くといつもスープを作り出す。それさえあれば、俺の悩みが吹っ飛ぶとでも思っているらしい。
まあ、間違っちゃいない。リィの卵スープの味は、絶品だ。レストランのオニオングラタンスープよりもうまい。
「あら、お早いお帰りで。身体の芯が冷えるくらいまで、帰ってこないかと思っていたんだけど」
「十分冷えたさ。一時間も経ってるじゃないか! 星屑は十分に堪能したからな、もう今日は何も考えずに寝るだけだ。リィのスープで温まったらな」
「例の件の結論は出たの?」
「ん? なんだって?」
「ほら、最近ずっとお悩みだったでしょ。ミステリを書いてほしいっていう依頼……まあどうせ、『あの恋愛小説家ヤスミン・ビュシェールが満を持して挑戦する密室トリック!』みたいなあおりが作りたいだけで、中身なんて求められてないんだろうけどね。書くの? やめるの?」
「……まあ、人生何事も経験だな。やってみるのも有りかもしれないな」
「へぇ。急に前向きになったじゃない。何か……ああ、誰かに会ったの?」
察しの良い同居人だ。俺が自分一人で問題を解決できないことを、よく心得ている。
「ちょっと公園で新しい出会いをしてきたところだ。未来の絵本作家の名前は忘れないように手帳に書いておくぞ。オーレリー。そう、オーレリーだ」
彼の絵本が店頭に並ぶ時には、俺はもしかして恋愛小説家ではなくミステリ作家として一発当てているかもしれない。
密室なんて作らなくても屋上から突き落とせばいいじゃないか、なんて言っているようではそれは夢でしかないだろうが、夢を見るのは勝手だと息巻いた。
そうだ、夢を見るのは勝手だ。努力するのも勝手だ。挑戦するのも勝手だし、諦めるのも勝手だ。
人生みなそれぞれ勝手に生きたらいい。
そんな身勝手な感情を愛の言葉にかえて、俺は昔作った自前の曲に乗せた。スープをかき混ぜるリィが、耳がおかしくなる、と笑う。
まったく失礼だが、俺も同意見だったので、この名の無い歌は、やはり一人の時に、星屑を見上げながら歌うべきだった。
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