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あいのうた
通りの向こうから、拙い歌が聞こえた。
「……これ、讃美歌?」
通り過ぎる子供が歌っているらしく、その声はステップを踏むような足音と共に遠ざかっていく。ホットワインに息をふきかけて冷ましていた俺の問いかけに答えたのは、涼しい顔で二杯目のグロッグを飲んでいたクレマンさんだった。
ラム酒と檸檬とシロップを混ぜて温めて作る、その伝統的なホットアルコールを、結構えぐい比率で作っていた事を知っている。クレマンさんがだばだばとラム酒を入れていた様を思い出し、そうかこの人酒に強いのかドイツの人だもんなぁなんていう、偏見的な事をぼんやりと考えた。
「讃美歌だね。神様がとか愛がとか言っているから。まあ、僕はミサに熱心に通うような敬虔な信者じゃないから、これがどの曲かなんて知らないよ。でも大概は隣人を愛せって歌っているんじゃないかな。この世の中、隣人を愛す前に隣人から身を守れだなんて皮肉を言う人間もいるがね」
僕の隣人はそれなりにおおらかで良かったよ、と、クレマンさんが真顔で零し、それを聞いたオーレリーは、窓際でスケッチする手を止めることなく笑った。絵を描いている時だけ、オーレリーは首から下げている眼鏡をかける。
もう外は暗いのに、何を描いているのかわらかないけれど、オーレリーは大概窓辺でスケッチをする生物だった。
「なんだ、もう酔っぱらっているのかクレマン! お前がそんな風に俺たちを褒めるだなんて、世の中何が起こるかわからないな。ますます隣人を愛したくなる!」
「結構だよ。きみの溢れる程煩い愛は紙にぶつけて作品にしてくれ。僕もアンリも愛なら間に合っている」
「つれない事を言うなよ。お前の石のような表情を柔和にしてみせるというのが、この部屋に来てからの俺の目標の一つなんだ。最近は年下のダンサーにその目標を達成されそうだけどな。リュカはすっかりレジに慣れたもんだな。さっきちらりと覗いてきたが、早くも向かいのコゼット夫人と仲良さそうに雑談していたよ。あいつはあれだな、世間に興味のない猫とみせかけて、ただの小心者の犬だな。一度懐くと情が深い。愛情が嫌いなわけじゃない」
そのリュカは今、下の階のパン屋で一人、店番をしている。
シュミネの夜営業の、リハーサルだとクレマンさんは言った。夜に一人でレジに立てるか。採算は取れそうなのか。そういうものをこの一週間検討し、そして休日のリュカに協力してもらい、来月から始まるリュカの夜営業の予行練習をしている。
夕方に意気揚々と出勤してきたリュカに、日曜に予定はなかったのかとお節介ながらにも聞いてみたけれど、リュカが講師を引き受けている高校選バンドメンツから誘いがかかったが、思いっきり蹴ってやった、と、苛々した様子で吐き出していた。
リュカは背が高い。クレマンさんやオーレリーと並ぶとそうは見えないけれど、それは大人二人の体格が良かったりのっぽだったりするせいであって、日本人男性の平均身長は一応あるぞ、と思っている俺よりも目線は高い。
今風に痩せているし、私服で猫背気味に座っている様は、流行りの若手バンドのメンバーだと言われても納得しそうな感じだった。顔の美醜は外国人の俺にはわからないけれど、決して不細工ではない筈だ。
モテるのだろうと思う。リュカは良い奴で、なんだかんで気が利く子供だ。時折口が悪いけれど、今のはちょっと言い過ぎだと注意すれば、傷ついたように眉を寄せて小さな声で謝る。
俺がかわいいなぁこいつ、と思うのだから、同世代の女子から見てもやっぱりいけてる部類なのだろう、と思うけど。
今下の店でパンを売っているリュカがいつも目で追いかけているのは、俺の隣の椅子に座っている冷めた表情の男だということを、俺もオーレリーも、そして当のクレマンさんでさえ承知していた。
グリューワインの甘い香りを堪能しつつ、俺はクレマンさんにわりとどうでもいいような、でも実はちょっと気になっていた質問を投げかけた。
「クレマンさんって、いくつだっけか」
「身長? 歳?」
「……歳の方」
「アンリの歳に十足せばいい。たぶんそのくらいだね」
「…………リュカと二十歳差……?」
「らしいね。悩むだろう、ちょっと、流石に」
あ、悩んでいるんだ、と思って顔を見ると、しれっとした眠そうな顔と目が合った。
クレマンさんはめったに笑わない。オーレリーが年中笑っているような男だから、足して割ったらちょうどいいのになんて最初は思っていたけれど、今はオーレリーとクレマンさんを足した怪物なんて絶対に嫌だと思うから、表情の変わらないクレマンさんの顔を眺めて暖かいワインを飲んで首を傾げた。
「クレマンさん、相手が男の子でも平気なんだ?」
「性的指向はストレートだろうとは思うけど。なんというか……性別とかそういうものを超越した変人が多いからね、この建物には。屋根裏の彼を見ていたら、男だとか女だとか、そんなものは些細な事かもしれないと思ってきた。相性が良くて、そして愛を感じることができれば異性だろうが同性だろうが、別にいいんじゃないか、とね」
「その考え方には俺も賛成だな! 全くもって同意する。人生は長いようで短いし、世界は広いようで狭い。一生のうちに出会う人間の数なんて、たかが知れている。その中で手を取りたいと思う愛にぶち当たることができたら、それは奇跡的な事だ。アンリと、ムッシュ・シュクレのようにな」
急に話を振られても、俺はうまく返せなくてもごもごとしてしまう。恋とか愛の話は苦手だ。本人に告げるのも結構恥ずかしいというのに、家族のような友人たちにこうも面と向かって祝福されると、どうしていいかわからない。
結局俺はにやにやしたオーレリーと表情は変わらない癖になんだかこう、微笑ましく見守る大人みたいな雰囲気出してくるクレマンさんの視線に耐えかねず、ラジオのボリュームを上げた。
この部屋にテレビはない。今時、という感じだけどニュースは新聞で事足りるし知りたい情報はネットでいい、というのがオーレリーの言葉で、日本から持ってきた荷物なんて着替えくらいしかない俺は勿論、テレビなんてものを持っていない。この部屋でBGMになりそうなものは、ラジオかCDプレイヤーくらいしかない。
忙しいバレンタインが終わった週末のラジオは、まったりとした懐かしい感じのシャンソンを流していた。フランス語は難しい。特に歌になると、正直歌詞を聞き取るのは難しくて、なんとなくこんなこと言ってるような気がする、という雰囲気クイズみたいになる。
でも、まあ、流石愛の国だ。大概の歌は愛の歌で、大概はキミが僕の全てだと歌っているような気がする。
日本はアイラブユーがない国だ、と言われる。まあ、そうかな、と思う。好きだとか情だとかはわかるけど、愛というものがなんなのか、確かに実感がわかない。
「……まあ、リュカの件で僕が悩むとしたら、性別じゃなくて年齢だよ。僕の事を頭ごなしに好きだと言う人間は限られているし、控えめに言えば彼の事は気に入ってはいる」
「情熱的に言うと?」
「人生を狂わせていいものか迷っている」
「……クレマンさんの愛の言葉ストレートで酔っぱらいそう……」
人とは外見だけじゃわからないものだ。
全然そんな風に見えないのに、いつからクレマンさんの気持ちは傾いたのだろう。最初からだろうか。それとも、徐々に、あのわりと正直な少年に流されていったのだろうか。
訊いてみたい気もしたけれど、そういうことを口にするとすぐに反撃されそうで迷う。酔っているせいにして、ずばり質問してみるのは今しかないのかもしれない。実際にちょっとだけ酔ってるし。
ラジオから流れる愛の歌が静かに終わったタイミングで俺は口を開こうとしたのだけれど、それより先に重いフーガが鳴り響いた。
クレマンさんの携帯の音だ。なんで小フーガト短調なんだよって訊いたことがあるけど、好きだからだと普通に返されてしまったことがある。重厚なフーガを無理やり携帯用のメロディに直してあるから、ちょっと間が抜けた感じがする。
「Allo。何かあったの?」
どうやら、相手はリュカのようだ。クレマンさんが家に帰らず、こうして二階でだらだらとしているのは、俺たちと親睦を深めるためではなく、一人で夜の店番をするリュカに何かトラブルがあった時、すぐに対応するためだった。
「ああ、うん。うん? ずっと居るの? 今も? どんな感じの……あー、いや、そいつはあれだよ、水をぶっかけてもいい奴だ。待って今僕が……ああ、いやオーレリーが行くらしい。キミはそのまま店番を続けていいよ。残りのパンが二種類になったらもう切り上げてもいい」
予想内の事だったのか。クレマンさんの対応だけでオーレリーは事を察したらしく、やれやれと苦笑して眼鏡を外し、ダウンジャケットを羽織った。
電話を切ったクレマンさんは、悪いねとオーレリーに手をあげる。
「いやいや、構わないさ。酔っぱらったクレマンが相手をしたら、水どころか熱湯をかけて警察沙汰になるかもしれないからな。あんな男のせいで、俺たちの偉大なるパン屋の主が刑務所にぶち込まれちゃ困る」
「流石にそこまではしないさ。していいならするけどね。まったく毎日懲りないね。ナタリーもいい加減警察に突き出すって言ったらしいけど、この様子じゃ懲りるどころか悪化してるんじゃないかな」
「久しぶりの襲来だったからな。ヴァロンタン前に恋人がほしいだけかと思ってたんだが、今回はどうも長いな。嫌な感じだ。思い切りケツでも蹴ってくるさ」
「……え、なに。何かトラブル?」
二人だけで話を進める様子に不安になり、俺は慌ててオーレリーの裾を掴んだ。俺に引き留められたオーレリーは珍しく困ったように視線を泳がせ、クレマンさんと目配せすると仕方ないというように肩をすくめた。
「別に、アンリを仲間外れにしたいとか、アンリに知らせたくないとか、そういう意図じゃないからな。訊かれたから答えるが、今下のパン屋に来ているのはおまえさんの昔付き合っていたとかいう男だ」
「――は? え? ちょ……何? もう一回言って、俺うまく聞き取れてないのかもしれない」
心臓が痛くて笑えない。俺の顔からざっと血の気が引いたのがわかったようで、オーレリーの代わりに答えたクレマンさんはまあ落ち着けと俺の肩を叩いた。
「ニコラ・ボーマルシェ。三十二歳。アンリがこのブーランジェに来る前に付きあっていて別れた元恋人だ。どうも、キミの事が忘れられないらしく、時々やってきてはアンリを出せとうるさいんだけどね」
「そんな話、今初めて知ったんだけど……」
「そりゃそうだ」
「言ってないからね」
しれっと言い放つ二人に茫然と口を開けていると、とりあえずケツを蹴ってくると言ったオーレリーは、さっさと外に出てしまった。
かつかつと軽快に階段を降りる靴音を聞きながら、いや俺もと席を立つつもりが隣のクレマンさんにぐっと手を引かれて、押さえつけられてしまう。
「……俺も行くよ。だって、俺のせいじゃん」
「全くもってキミのせいじゃない。あと別に僕たちは、キミに隠してキミを守っていたというわけでもないんだよ。会いたいなら本人に直接アポととればいい話であって、僕たちが取り次ぐ必要もない。だから僕は店先で追い返したし、オーレリーは玄関の扉を開けなかった。彼の部屋でもあるわけだしね。ただそれだけだ。まあそれも半年に一回あるかないかだったから、単にアンリに言い忘れてたっていう状態だったんだが……どうも二月に入ってから、あの男はやたらと粘着質だ」
「全然、気が付かなかった。なんで今まで俺は会わなかったんだろう……」
「僕とオーレリーが割と強かったせいかもね。僕はこんな性格だし、オーレリーもあの通り口が達者だ。言いたい放題言う僕たちに二コラ氏は辟易しただろうし、職場にはこれまた僕の女版と言ったら失礼かもしれないが似たようなガードマンがいる」
「……ナタリーまで? ていうかもしかして最近クレマンさんが夜まで営業時間伸ばしてたり、ナタリーが途中まで一緒に帰ったりしたのは、まさか、二コラのせいじゃ……」
「関係ないとは言わないけどね。……キミに言うべきタイミングを失っていたことは謝るよ。申し訳ない。でも、僕とオーレリーと、そしてナタリーは、あんな男のせいで泣きそうになるキミを見たくはなかったんだ。今みたいにね。ただ、それだけだよ、アンリ」
鼻の奥が確かに痛かったけれど、これは二コラのせいじゃない。クレマンさんは謝る。でも、俺は怒ってなんかいなかったし、むしろ本当に感動していてもう涙が零れそうだった。
あー、とどうでもいいような声を出しながら天井を見るのは、鼻が痛くて目も痛かったからだ。
俺が最初、この家に転がり込んだ頃、すごく心が折れていた事を、オーレリーは知っている。クレマンさんにも後々笑い話みたいに話した事がある。だから二人に、何故隠していたのかだなんて言わない。俺を守ってくれて、気遣ってくれて、その優しさと愛情に心打たれない事なんてない。
二月のレストランは馬鹿みたいに忙しくて、シュクレさんも忙しくて、心に余裕がなかった。バレンタインが終わった今だから、ゆっくりホットワインを片手にぼんやりできているのだけれど。あんな精神状態の時に、二コラの話をされたら、俺はおかしくなっていたかもしれない。
息を吸って、鼻の痛さをこらえながら吐く。息は震えているが大丈夫、泣いてはいない。耐えた俺はとてもえらい。
「ありがとう、って言葉しか思い浮かばなくて、だめだ、あとでシュクレさんにもうちょっとマシな愛の言葉訊いてくるよ……」
「いやムッシュよりもオーレリーの方がいいんじゃないか、それは」
「言う相手に訊くのってどうなのかな」
「喜ぶだろう。頼られるのは楽しいことだ。自分は一人じゃないと思える。あいつは最近、何か悩んで気落ちしている風だったから」
「……やっぱり? そう思う?」
俺が薄々気付いていた事に、やっぱりクレマンさんも気が付いていたらしい。
オーレリーは陽気で、いつでも人の憂鬱を食って幸福にして吐き出しているような男だ。でも、オーレリーだって人間だ。悩むことだってあるだろうし、泣きたいような何かが襲うこともある筈だ。
オーレリーが夜中の街に繰り出して散歩に行くのは、どうしようもなく落ち込んでいる時だと知っている。オーレリーが夜散歩に出かけた時は、二回に一回の割合くらいを見計らってジンジャーミルクティーを作ることにしていた。ゆっくりと沸騰させないように牛乳を温め、そこに茶葉を入れる濃い目の紅茶だ。
毎回作ると心配しているのがバレるかな、と思って、ちょっと控えめにしているんだけど。
「みんなも落ち着いたし、お疲れ様という意味も込めて、ちょっとした催し物をするのも悪くはないかもね」
クレマンさんがそんな風に、珍しい事を言う。あんまりイベントごととか好きじゃないような気がしていたから、意外だったけど、俺は二つ返事で賛成した。
階段の下を気にしつつ、食事会の概要を話し合う俺たちの部屋のドアが開いたのは、それから十分ほど後だ。
入ってきたのは寒そうに手をこすり合わせるリュカで、オーレリーの姿はない。パンが売り切れたから締めてきた、と言うリュカは、俺が温めておいたココアを抱えるように両手で持つと、ふうふうと息を吹きかけた。
「違算もないし問題なかったよ。こんな時間までやってるのね便利ねーって結構好評っぽい。ところであのおっさん誰? なんかアンリがどうとかうるさかったけど雰囲気やべーから『自分バイトなんでちょっとよくわかんない』って繰り返したんだけどおれの対応間違ってない? 大丈夫? アレもしかして本命の恋人とかじゃないよな? さすがにアンリそこまで趣味悪くねーよな?」
本命ではないけれど、一時期熱をあげて国まで跨いだ大恋愛をした相手だ、とはさすがに言えなくて言葉を濁す。俺はゲイだとリュカに言った覚えはないのだけれど、やっぱりわかるものなのかなと苦笑した。
「キミの対応は大正解だ。お疲れ様。ところでうるさい絵本作家はどこに蒸発したんだい?」
「あー。なんか、ついでに散歩行ってくるってさ。遅くなるかもしれないし鍵は持ってるからって言ってたよ。最近オーレリー夜中の散歩多くない? なんかみんなせわしねーな」
そういうリュカも最近は忙しなく学友の用事に付きあっている。
二月のブーランジェは忙しない。気落ちするような案件も、地味に重なる。冬は憂鬱だし仕方ないのかもしれない。
ぬるくなってしまったホットワインを飲み干して、俺はラジオから流れ続ける歌に耳を傾けた。相変わらずフランス語の歌は難しくて何を言っているのかわからないけれど。やっぱりそれは愛の歌らしく、聞き覚えのある甘い単語が耳の中を撫でた。
愛してるよという気持ちは、やっぱり馴染みのないものだ。
けれど今俺が泣きそうなのは紛れもなくこの家の住人の愛のせいだった。
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