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ピルウェット・カカウェット

 僕もアンリもへろへろで、とても疲れていて、それなのに幸福だった。  二月はいつも忙しい。それも、年々忙しさが増していくような気がする。  僕のマカロンを妻に恋人に贈りたい、という男性がたくさん居ることに、最初はとても戸惑っていた。けれど今は、僕なんかの作るものが誰かに幸福を届けることができるなら、素敵な事かもしれないと思い始めていた。  本当は金曜の夜しか焼かないマカロンを、二月の十日からは毎日昼間に焼く。  昨日はアンリも手伝ってくれた。サン・ヴァロンタンはどこのレストランも予約でいっぱいで、カップルと夫婦で溢れるときいたから、きっとアンリもとても忙しいに違いない。それなのにシュクレさんの手伝いをしたいからと笑うアンリはどうしようもなく愛おしく、ショコラとピーナッツのマカロンまですべてピスタチオ味にしてしまいそうになった。  アンリは僕の作るマカロンならすべておいしいと言うけれど、特にピスタチオクリームがたっぷり入ったナッツのマカロンを好む事を知っている。オーレリーはショコラとフレーズ、クレマンはシトロンが好きみたいだ。  僕はつい考え事をしてしまうと手癖で動いてしまうことがあって、本来ならジャムを混ぜるべき工程でうっかりピスタチオクリームを投入するという失敗を、このところは何度も繰り返している。  昨日も僕は浮かれすぎて、何度もピスタチオクリームを塗りそうになった。その度にアンリが注意してくれて、最終的に『シュクレさんはピスタチオが好きなの?』なんて訊かれたから、少し迷ってから素直に、君が好きな味だからつい作ってしまうんだと答え、僕はアンリをまた机に沈めてしまった。  アンリはすぐ照れてしまう。アンリが照れると僕も照れるので、大概は二人で机の上に崩れ落ちる事になった。  いつもは僕の部屋か二人きりの金曜の夜にしかしない会話を、昼間の厨房で繰り広げてしまったので、時々端を通る営業中のクレマンにとても呆れられてしまった。  そんな忙しい二月のイベントも明日で終わる。僕のマカロンづくりは今日でほとんど終わったし、あとはもう、いつものように金曜の夜にマカロンを焼くだけの生活が待っている。アンリが本当に忙しいのは明日だろう。 「昼から晩まで予約でぎっしり。一か月も前からほとんど埋まるもんだから、気合も入るよ。そんな前からうちのレストランを選んでくれたんだからって、メインシェフもオーナーも、いつもしれっとしているナタリーだって腕まくりして興奮してるんだからすごい。みんな、アン・リラを愛してんだなって思うよ」 「……アンリも、レストランを愛しているんでしょ?」  屋根裏のいつもの部屋で、明日のマカロンにつけるラッピング用のリボンの花をつくりながら、ベッドに腰掛けたアンリを見る。  薄暗いランプの下で枕を抱えたアンリは、ひどく眠そうな顔で笑った。 「勿論、愛してるけど、流石に体力の限界だよ。あと緊張もしてる。今年からスープを任されてるから。明日が終わればちょっとはゆっくり眠れるような気がするけど、最近疲れ気味だし、俺いびきとかかいちゃったらほんとごめんって今から言っとく」 「アンリはいつも、とても静かに眠っているよ?」 「……待ってなんで知ってるのシュクレさん、俺が一緒の時ってもしかしてあんま寝てないの?」 「…………君がとなりにいると、浮足立って眠れないんだ」  静かな夜の中で、君の寝顔を見るのが好きなんだ、なんてことは流石に言えなかったのに、僕が漏らしたささやかな本音でまたアンリは枕に顔を埋めてしまった。かわいい。隣に腰掛けていたら、勇気をだして手を握ってしまっていたかもしれない。  喋る事は慣れてきたけれど、まだ僕は、アンリに触る時に勇気が必要になる。恥ずかしいし怖いし、誰かに触れるというのは、とても勇気がいることだ。 「あーもう……疲れた脳みそにシュクレさんががつがつ攻撃してきてもう駄目わけわかんない好き……ほんとはさ、昼間から頑張ってたシュクレさんの安眠を妨害なんかしたくないんだけどさ」  アンリが本来なら眠るべきベッドには、今日はリュカという名の少年が横たわる事になる。  リュカは一階のパン屋のバイトで、高校生で、そして隣のダンススクールでバレエを習っている、ということは知っているけれど、僕はまだ、彼に会ったことはない。  リュカは時折、この建物に泊まる。一階は居住区なんてないし、二階はオーレリーとアンリの部屋で、屋根裏は僕が住んでいる。つまり、彼が泊まるのは二階の部屋で、そうすると誰かと同衾するしかない。オーレリーとアンリの部屋にはテーブルと椅子はあるけれどソファーはない。  アンリはリュカと一緒に寝てもいいらしいのだけれど、それは僕が嫌だったので、結局リュカはアンリのベッドを使い、アンリは僕と一緒に屋根裏部屋で寝る事が暗黙のルールのようになった。 「リュカ、最近学校の友達に頼み込まれて、音楽の先生してるんだってさ。夏至の音楽祭に学校の隅っこでライブをしたいんだけど、楽譜が全然読めないんだって頼み込まれて断れなかったって、どんだけ押しに弱いんだよって笑っちゃったよ。世界全部に絶望して諦めてますみたいなシニカル少年ぶってるくせに、ただのお人よしだよな。俺はさぁ、歌も下手だし、とても人様に教えたりなんかできないから、そういう芸術の才能ってすんごいなーとは思うけどね。音痴って言っても、オーレリー程じゃないけど」  アンリが苦笑いをするのは、下の階から調子はずれの歌が聞こえてきたからだろう。  恥ずかし気もなく声を張り上げる歌のようなものの後に、少年が笑う声が聞こえる。何の曲なのかはわからない。  歌詞は聞こえてこないし、聞こえたとしてもオーレリーの歌は本人も認めて開き直る程、音程もリズムも外しているものだから、結局何を歌っているのかなんてわらかないのだと思う。  最後のリボンを作り終え、まとめて紙袋に放り込み、僕はしばらく階下の歌と笑い声を聞いていた。昔は他人の生活音がひどく恐ろしかった。自分が存在している事を気取らせたくなくて、息を殺して生活していた。それも、この屋根裏に越してくる前の事だ。  今は階下の音が楽しい。アンリの立てる食器の音や卵を焼く音、オーレリーの張り上げるような大げさな挨拶と笑い声、時折クレマンの朴訥とした声が混じる。そのすべてが、とても楽しいものだと思えるのだから、僕はこの人たちが好きなのだろうと思う。  とても好きだ。愛している。だから何かを返したいのに、皆一様に『ムッシュ・シュクレは毎日楽しく生活したらそれでいい』と言う。結局僕ができるのは、マカロンを焼くことしかない。  ……アンリにだけは。個別に愛を返すことができるけれど。  久しぶりに忙しかった一日の最後の仕事を終えて、僕は首をぐるりと回した。重い頭の重心の扱いにも慣れた。首がごきっと鳴るけれど、この重さにも慣れた。ちょっと疲れるけれど仕方がない。  僕は被り物を外さないままランプを消し、ベッドで枕を抱きしめるアンリの隣に潜り込む。暗闇を確かめてから、被っていた人形の頭を脱いでサイドテーブルに置いた。  そっと撫でた鼻の部分は、ちょっとぼこぼこしている。  それをなぞる度に、僕は思い出す歌があった。  二階の調子はずれな歌を聴きながら、僕は思い出したメロディをなんとなしに口ずさんだ。  隣のアンリが身じろぐ気配がする。きっと、身体の向きを変えたのだろう。アンリは相変わらず自分の枕を抱えていて、僕とアンリの間には枕がひとつぎゅっと収まっている。 「その歌何? かわいいね。ええと、カカウェットって、ピーナッツ? ピルエットって何だっけ」 「回るとかそういう感じの……『回るピーナッツおじんさんの歌』かな。どうやって英語にするのかちょっとよくわからないし、日本語はもっとわからないけど、この国の子供が歌う曲だよ。たぶん、僕が初めてオーレリーの歌を聴いたのは、この曲だった気がする」 「ピルエット・カカウェット?」 「――小人の家があってね。そこには段ボールの階段があって、それを登った郵便配達のおじさんはぐるぐる回って落ちちゃって、鼻がとれちゃうんだ。その鼻を、金色の綺麗な糸で縫い合わせるんだけど、鼻はまた取れて空に舞い上がっちゃって飛行機とぶつかっちゃう、以上が私の歌だよっていう歌」 「なんか、すごい電波だけど、あーでも、童謡ってそんなかも。なんで? とか考えちゃいけないんだろうな。ていうかシュクレさんめっちゃ歌うまいじゃん。え、ちょっと、もう一回歌ってよ」  アンリに褒められていい気分になった僕は、乞われるままに覚えている歌詞を歌に乗せた。  あんまりテレビにもラジオにも縁はないし、誰かと歌を歌うような生活もしてこなかった。それでも子供の頃によく耳にした歌くらいは染みついていて、難なく最後まで歌いきる事が出来る。  僕の歌を最後まで聴いたアンリは、かわいいのかかわいそうなのか、わかんない歌だなぁと笑った。 「あーでも、オーレリーは好きそうだな。アイツが歌ったら、この可愛い歌のメロディなんてあってないようなもんだろうけど。……最初にこの家に住んでたのはクレマンさんで、オーレリーより先にシュクレさんが入居したんだっけ?」 「そうだよ。僕がこの屋根裏に引っ越して来た時は、下の階に住んでいたのはクレマンだけだった。その後に裏の家の御婦人が亡くなったとかで、クレマンはそっちに移ったんだ」  亡くなった人の家族が、いつか帰ってくるけれどそれまで家を管理していてほしいからと言って。古い家だから借り手も見つからないという馴染みの若夫婦の頼みを聞き、クレマンは裏の家に住むことにして、通りに面したパン屋の二階に、下宿人を探したという話を聞いたような記憶があった。  僕はまだその時は、あまり、この部屋から出なかったから、クレマンに一通り説明された事以外はあまりよく知らない。誰が階段の下に住んでいようが、僕は夜中に食事を作る少々の時間さえ確保できれば、あとは特に、何の問題もないと思っていた。 「そして、いきなり現れたのは煩い絵本作家だった?」 「うん。そうだね。びっくりした、のは覚えているかな。だって、僕の事を見て表情を動かさなかったクレマンだってすごいと思ったのに、急に抱きしめようとしてきた人間なんて、オーレリー以外にはいなかったんだから」  握手を求められただけでも、僕は相当びっくりしたものだ。それなのに、僕がその手を握っていいものか迷い、握手は嫌いだったか申し訳ないと手を引っ込める笑顔の黒人男性は、『そんなことは決してないけれど、僕はキミの手を握るまでにちょっとの時間と勇気が必要なんだ』と、ぼそぼそと答える僕を、急に抱きしめようとした。  びっくりしたなんてものじゃなくて、思わず本気で逃げてしまい、更にクレマンも慌てて僕とオーレリーの間に入った。  僕は昔から他人の目線が恐ろしく、他人に顔を見られることが苦痛だ。人形の頭に落ち着く前はありとあらゆる手段で顔を隠し生きて来た。その長くない人生の間だって、こんな風にいきなり抱きしめられそうになったことなどない。笑顔で握手を求められることすら稀なのに。  奇異の目や嘲笑じゃない、本物の笑顔だった。彼に興味はあった。でも、最初のインパクトが恐ろしくて、僕はすっかりこの声の大きな絵本作家が苦手になってしまった。  僕の思い出話を聞いているアンリは、枕を抱きしめて軽やかに笑う。 「わかる。わかるよ、あいつってちょっと、大げさだし、突拍子もないから、慣れるまではわりと異星人っぽいよなぁ。普通っていうのが通用しないっていうか。だからなんか、そうだなぁ。シュクレさんが、びっくりしちゃって余計に引きこもっちゃったのが、目に浮かぶ」 「嫌いってわけじゃなかったんだよ。でも、オーレリーの愛は唐突で不思議で大きすぎて、僕はどうやって受け止めたらいいのかわからなかった」 「今はわかる?」 「……ちょっとだけ。相変わらず、彼の愛は大きいし、僕には理解できない部分もあるにはあるけど、全部優しさなんだって知っているから、半歩下がってありがとうって言うことにしている」 「それがいいよ。目の前でシュクレさんがそんな可愛い事を言ったら、ほんとに抱きしめられちゃうかもしれないからね」  僕より絶対にアンリの方がかわいいから、アンリも半歩下がってねと言うと、くすぐったそうに俺はシュクレさん程愛おしい生物じゃないから大丈夫だよと首をすくめたようだった。かわいいのに。アンリはいつも、僕が可愛いと言うと、あなたの方がかわいいよと言う。 「そんで、シュクレさんは屋根裏の引きこもりを続けていて……でも、俺が来たときは割と仲良かったよね? 今もだけど。仲直りするきっかけとかあったの?」 「仲直りというか、僕が、びくびくしなくなったのは、ええと……さっきの歌のおかげかもしれない」 「回るピーナッツおじさんの歌?」 「うん。いつだったかな。ええとたぶん、ヴァロンタンの前だったから、今頃の時期だったと思う。僕はやっぱりちょっと忙しくて、珍しく金曜でもないのにマカロンを焼いていて、夜階段を上がったところで散歩から戻ってきたオーレリーと鉢合わせしちゃって、びっくりして階段から数段落ちちゃったんだ。その時に、手すりのねじにひっかけて、鼻を、破いてしまったんだけど」  ものすごく盛大に謝って僕を助け起こしてくれたオーレリーは、破れてしまった不格好なその鼻を、器用な手つきで縫い付けてくれた。  僕はマカロンを焼く事以外はひどく不器用だ。オーレリーは細かいことは割と好きなんだと笑いながら、そしてピルエット・カカウェットを口ずさんだ。  僕は最初、それが僕の知っている童謡だとわからなかった。あまりにも彼の歌が下手で、音程もリズムもめちゃくちゃだったからだ。  それでもオーレリーはひどく楽しそうに歌いながら、僕の鼻から飛び出た綿をぎゅうぎゅうと糸で押し込めた。  その歌が好きなのだろうかと首をひねっていた僕は、彼の持つ針に繋がる糸を眺め、彼がその歌を歌う理由を知る事になった。  僕の鼻を縫い付ける糸は、ほのかな金色をしていた。  ピルエット・カカウェットの歌詞だと思い当たった。段ボールの階段から転げ落ちて鼻が取れた郵便屋さんは、金の糸で鼻を縫い付けてもらう。  僕の鼻をきれいに縫い終えたオーレリーは、これでいいぞと椅子から立ち上がると、何もしないさというように両手を挙げた。それは優しくて大げさな愛溢れる仕草だった。  今でも彼の言葉を覚えている。 『さあ、これで完璧だ、屋根裏の愛しい人。俺の金の糸には魔法はかかっていないからね、取れて舞い上がって飛行機にぶつかって誰かを不幸にすることも無いはずだ。屋根裏への階段を上がる時には気を付けて。大丈夫、俺はその階段を上がらない。鼻が取れたら困るだろう?』  この時に僕はオーレリーの愛情を知り、彼がとても懐の深い人間で、とても優しい人だという事を知った。  オーレリーは、決して屋根裏への階段を登ることはなかった。それは、今もそうだ。破ってはいけない約束のように、それを守る彼の事が、僕はいつの間にかとても好きになっていた。  糸の金色は色あせてしまったけれど、僕が被る顔の鼻は、あの時オーレリーが縫い付けてくれた時のままだ。その後何度か不注意にも顔をひっかけて、綿を零れさせたことがある。その度にオーレリーはあの音程が穴に引っかかって転んだようなピルエット・カカウェットを歌いながら、金の糸で僕の顔を直してくれた。  僕の話はここでおしまい、と言う代わりに、あの歌の最後のフレーズを口にする。わたしのお話はここまでだよ、と歌い終わると、アンリは枕越しに僕の肩に顔を寄せてきた。  暗闇に目が慣れる頃になると、アンリは目を閉じたまま開かないという事を知っている。僕は、もう、見られても少しくらいは大丈夫なんじゃないかなと思ってはいるけれど、かたくなに配慮してくれるアンリの事がとても好きで、泣きそうなほど愛おしいと思った。 「……いい話聞いちゃったな。あいつのあの下手な歌が愛おしくなりそうな、最高な話」 「そうかな? 僕は、あんまり、他の人と交流がないから……たったそれしきのことできみは心を許したの? なんて、クレマンには呆れられてしまったんだけど」 「かわいいじゃない。下手な歌がきっかけだなんてかわいいし、金の糸の話も小粋だし、悔しいけどオーレリーはやっぱり良い奴だよなって思うし、あとクレマンさんってあんな顔してわりと嫉妬深いみたいだから、きっとシュクレさんを急に手懐けちゃったオーレリーに、嫉妬してたんだと思うよ。俺も、よく言われたし」 「何を?」 「『まったくアンリはどんな手段を使ってあの屋根裏の変人の心を奪ったんだ、僕は一年も口をきいてもらえなかったのに!』」 「……一年はちょっと言い過ぎじゃ……たぶん、八か月くらい……」 「八か月もシュクレさんと喋れなかったら、俺はこんな風に一緒のベッドに居なかったかもしれないけどね。そういえば、最初にシュクレさんに出会わせてくれたのって、オーレリーだった……ような記憶があるな。俺がへこんで疲れてた金曜の夜に、あいつは確か厨房を覗いてこいって言ったんだ」 「……びっくりした。僕は、新しい住人が来たのは知っていたけど、日本人だということくらしか知らなかったから。とてもかわいい人で、とても寒そうな顔をしていて、でも僕のマカロンを食べて笑ってくれたから、君の事がすぐに気に入ってしまったんだ」 「…………シュクレさんちょろくないかな大丈夫かな。俺以外にもそんな風にすぐにきゅんとしちゃってないかって、クレマンさんじゃないけど嫉妬に狂いそうになるよ」  僕はこの部屋から出ることはめったにないし、クレマンとオーレリーとアンリ以外の人間に会うこともめったにない。  だから、誰かを好きになることなんて、これ以上はないとは思う。  そうじゃなくても、僕はアンリを一番愛している。クレマンもオーレリーも愛している。でも、その愛とは別だから、そのことを伝える為にちょっとだけ頑張ってアンリの額に唇を付けた。  枕を抱きしめるアンリの腕に、力が入ったのがわかる。 「その枕、抱きしめていた方が、眠れる?」  別に僕はそれでもいいけれど、アンリの腕が疲れないだろうか。そう考えた僕が問いかけると、アンリはちょっとだけ言葉を詰まらせた後に、小さな声でぼそぼそと言った。 「……枕抱きしめてないと、俺もオーレリーみたいに、シュクレさんを抱きしめたくなるから」  そんなことを言われて、僕がどうして普通でいられると思ったのだろう。  急に抱きしめる勇気はなくて、やっぱりちょっとだけ戸惑ってしまったけれど、暗闇の中で僕は、ゆっくりとアンリから枕を取り上げて愛しい身体に両腕を回した。  アンリは身じろぐ。恥ずかしそうに僕の背中に手を回す。ぎゅう、と抱き着かれて、僕の顔はぬいぐるみの中にいるときみたいに熱くなった。  熱い。でも、とても幸せだ。  階下からは時折、調子はずれの歌がまだ聞こえる。陽気な彼の歌は決してうまくないのだけれど、とても好きだなと思う。 「あー、なんか……世界人類ありがとうみたいな気分になってきた……みんなで集まって、なんかこう、ハッピーな気分を祝いたいっていうか。今結構忙しいから、お疲れ様みたいな感じで、ちょっと集まれたらいいよなぁ」 「じゃあ、オーレリーの誕生会は?」 「……え。あいつ誕生日二月なの?」 「だと思うけれど。誕生会なんてしたことないけど、僕のところに混じっていたダイレクトメールに、ハッピーバースデイって書いてあった事があったよ。確か二月の末とかだった、気がする」 「口実は見つけたな。じゃあ、あとはクレマンさんとメニューの相談だ。シュクレさんは何が食べたい?」 「なんでも。アンリの作るものは、なんでもおいしいから」 「……俺を甘やかしてくれる優しい舌の持ち主ばっかりで、調子にのっちゃいそうだよ」  笑うアンリを抱きしめて、僕は目を閉じた。アンリに出会わせてくれた、オーレリーに、金の糸と同じくらいの幸福を返せたらいいのに、と思いながら。  僕はこのパン屋の住人に出会い、愛は幸福だという事を知った。

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