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デジタル・ラブ

 なんて面倒くさいんだろう。 「半音下がるのが苦手なんだよね。どうしても下がり切らなくて、不格好なハーモニーになっちゃう。でもあれは、エレーヌも悪いよね? だって、あの子ちょっと拍が早いんだもの。昨日もカフェでその話ばっかりで、お茶が冷めるまで喧嘩しちゃってさ」  うだうだと、跳ね上がるような高い声は耳を通り抜けるだけで、中身もなにも全く考慮せずにただひたすら適当に頷くおれの言葉なんて必要ないんじゃないかと思う。  同世代の男だって訳がわからないと思うのに。女子なんて最早宇宙人だ。かろうじて脳みそが理解するのは、時折混ざる音楽用語だけ。後は、そもそも聞く気も無い。  この一週間で感じたことは一つだけ。十代の女ってやつは面倒くさくてまったく理解できない、ということだけだ。 「あのカフェって夜中までやってていいよね。でもちょっと高いかなぁ……あ。ありがとう、もうここでいいよ。それじゃあまた明日、よろしくリュカ」 「…………ああ、うん。気を付けて」  彼女の家はもう目と鼻の先だから、気を付ける事なんて転ばない事くらいしかないだろうけれど、他に言葉が思い浮かばなかったので仕方ない。またねと手を振りたくない、おやすみと声をかけたくない、そんなくだらないガキくさい気持ちで出た言葉で、微塵も慮っていないのだから最低だ。  それでもおれは、ため息といい加減黙ってくれない? という本心を幾度となく飲み込んだことを誰かに褒めてほしかった。  家の中に入るまで見届ける義理はない。そこまではしなくていいと思う。だからおれはすぐに耳にイヤホンをつっこんだ。  音楽はわりと何でも好きだ。ポップスからゴスペルまで、なんでもいい。クラシックは勿論好きだし、ハウスミュージックも嫌いじゃない。でも今日はシャンソンだけは聴きたくない。流れ出したテクノポップに合わせて数歩進んだところで、遠くから呼ばれているような気がした。  音楽の向こう側から、夜の街を控えめに横切るような声がする。  振り返らなくても誰だかわかったけれど、礼儀としてイヤホンを片方外して足を止めた。他の人間だったらおれは、音楽に熱中して気が付かないふりをしたと思う。もう誰とも話したくないような最悪な気分の時に、それでも声を聞いてもいいと思える他人は、今のところ三人だけだった。  そのうちの一人である大柄な黒人は、薄暗い街灯の下でもわかる程にっかりと笑う。まあ、こいつはいつも大概笑っている。 「やぁ、リュカ、おまえさんは相変わらず歩くのだけは最高に速いな……一緒にウォーキングしたら体力がつきそうだ!」 「アンタは相変わらず口数が多くて聞いてるだけでも疲れるよオーレリー。珍しいじゃんこんな時間に外にいるなんて。アンリに追い出された?」  すっかり馴染みになった絵本作家は、寒そうに肩をすくめて白い息を吐く。暗い灯りの中に、ふっと白く冷たい息が漂うのが見えた。 「全く皆どうして俺が外出していると、アンリとの喧嘩を疑うんだろうな! まるで離婚間際の夫婦みたいに言いやがる。俺たちは最高の同居人で友人で、別に喧嘩なんかしちゃいない。ただ空想することに飽きてふらりと現実の世界を見たくなっただけさ。思ったよりも寒くて、すぐにカフェに避難しちまったがな。リュカは、ガールフレンドとデート……じゃないのはわかってるよ悪かったそんな顔で睨むな。お前は本当に愛おしい程心が狭いな」  かなり本気で不機嫌を顔に出したのに、オーレリーは気にした様子もなく余裕な態度で笑って流す。心が狭いのは言われなくてもわかってるけれど、それに関して愛おしいなんて表現するこいつの事は、今でもよくわからない。人として好きだとは思うけど、時々、まじで、よくわからない。  よくわからない陽気な黒人は、何が楽しいのかにやにやと笑うからむかついた。 「例の新鋭バンドの女子だな。おまえさんはかわいい教え子をきっちりと家まで送り届けるジェントルってわけだ」 「……もうちょっと物覚えがよくて音楽の素質があれば、まだかわいかったかもな」 「そんなにひどいのか?」 「オーレリーとトントンくらい」 「……そりゃひどいな。いや、それでも音楽祭に挑戦しようという気持ちは、まあ、見上げたもんだが。六月に間に合うのか?」 「知らないよ。おれが頼まれたのは楽譜の読み方を教えることだけだから、今月終わったら放課後レッスンも即終了。それに来月から夜は全部バイトになるから、素人バンドの音楽の先生なんて面倒な仕事引き受けてる暇無い」  あの音楽音痴たちが、今月であの楽譜をマスターすることができるのか。正直怪しいが、そんなもん知るかと思う。  おれはさっさとこの放課後の苦行から解放される為だけに、毎日歌いたくもない歌を歌い、追いたくもない音符を追って手を叩いてリズムをとっていた。シャープとフラットの意味も怪しい連中にたった四分の楽譜を理解させるのがこんなにしんどいとは思ってもいなかったし、そんなことをしみじみ実感したくなかったと思う。  六月二十一日はパリの音楽祭だ。この日は一日、どこのカフェでも公園でも、バンドがこぞって演奏をする。イベントごとはあんまり好きじゃないおれも、この夏至のイベントは結構楽しみにしていた。  去年は花屋横の公園でジャズの演奏があった。一緒に覗いたブーランジェの大人たちが帰りがけに漏らした鼻歌で、アンリの微妙にコメントしがたい歌唱力と、オーレリーの耳をふさぎたくなる音痴さを知った。もちろん旦那はめちゃくちゃにうまかった。音楽祭に演奏者として出ればいいのに、とおれたちに迫られた旦那は、ものすごく嫌そうな顔で『僕はパン屋だ』と言っていた。  おれも歌を聞くのは好きだけれど、歌いたい訳じゃない。踊ることしか考えていないおれが学校帰りにパン屋のレジに立つのは少しでもダンス教室のレッスン料の足しにしたいだけだし、まあつまりは踊る為にバイトをしているわけで、その時間を削ってまで誰かの下手な歌の指導をしているなんて本当にバカバカしいと思う他ない。  だって断れなかったんだ。  そもそも、おれに声をかけてくる同級生はあんまりいない。そりゃつるんでいる奴は居なくはないが、おれはたいがいすぐに帰るしあいつらは不良ぶって街をうろつくわけで、要するに『リュカ・ティオゾはつきあいが悪い』というのは暗黙の了解のようになっていた。  今はダンスレッスンとパン屋のバイトがある。それまでは、空いている時間は一人でずっと踊っていた。  わりと孤独なんだろうけど、別にそれでいいと思っている。人間よりもダンスが好きなんだ、と最近は開き直った。たぶん、何を言われてもかたくなにドイツパンを焼く旦那の影響だろうとは思う。  僕はドイツパンが好きなんだ、と旦那は笑いもせずに言う。だから焼くのだと言う。なんか、あーまあ、それでいいんだって、不思議と変な納得の仕方をしてしまった。  踊るのが好きだから。バレエが好きだから。級友の誘いを断っておれは踊るしバイトに励む。そういう人生でいいじゃん、というわけだ。  それなのに。いや、それだからかもしれない。人とあんまり会話することがなかったものだから、誰かに面倒な頼みをふっかけられた時の断り方を、おれは知らなかったのだ。 「楽譜が読めないのに、なんでバンド組もうと思ったのかおれにはぜんっぜんわかんないよ。その上おれに声かけてきた理由が『この前楽器屋に居たから』って、なんだそれ。確かにクラシックのCD見てたよ。見てたけど、音楽教えてほしいなら金払って大人に頼めよって思うしほんとバカなんじゃないか。その上物覚えも悪いし同じこと五回は訊いてくる。もっと優しく教えてなんて言われるけど知るかって話だ。ため息つかないだけでもおれはえらいんじゃないのって思う」 「……それは確かにすこぶるえらいな。もっと積極的に暴言を吐いているのかと軽く心配だけはしてたんだ。主にアンリがな。まぁまぁ、穏便に頑張ってるようで何よりだよ。えらいリュカに、うまいショコラの一杯でも御馳走してやろう!」  それはつまり、ブーランジェに寄ってもうちょっと喋って行けよ、という誘いだった。  時折帰るのが面倒になったり、オーレリーの言葉の濁流に呑まれて時間を忘れたりした時、おれはパン屋の二階に泊まる事がある。  メゾン・ブーランジェとこの男が呼ぶ建物は、まあ要するにただのパン屋だ。  一階がクレマンの旦那の店。二階がオーレリーとアンリの住居。そして三階には、未だに一回も会ったことがない謎の男が住んでいる……らしい。  土曜の朝にパン屋の隅にとんでもなくうまいマカロンを並べるその変人の本名は知らない。ただ、周りの人間が『シュクレさん』と呼ぶので、おれも天井裏の住人の事をそう呼んでいた。  三日に一回くらい泊まってた時期もあるのに、おれはこのシュクレさんに出会ったためしがない。運が悪いんじゃなくて、たぶん、向こうが馬鹿みたいに用心深いんだと思う。  寒くて暗い夜の道を歩きながら、耳につっこんでいたイヤホンをひっこぬく。音楽がなくても、うるさい男が大体何か喋っている。 「ところで、さっきの彼女は、おまえさんのことが好きなんだろうな」  お節介でうるさいオーレリーがマジでお節介な事を言い出したのは、シュミネの明かりが見えてきた時だった。  今日は夜営業の日じゃない。けれど、来月からの予行練習だと言って、旦那は今週から閉店時間を遅らせていた。漏れる灯りの中で、ふらふらと動く長身が見える。  うるせーよかんけーないだろ、と言うつもりで口を開いて、足を止めて言葉も飲み込んだのはたぶん、旦那が最後の客と談笑しているのが見えたからだった。  あの妙齢の女性は常連で、多分、旦那の事が好きだ。旦那もそれがわかっていて、でも、別にどうでもないさみたいな顔をしている。おれには大人の本心なんてわからない。 「――やっぱ、同世代の奴と、普通に付き合った方がいいと思う?」  おれの数歩先まで歩いたオーレリーも、何を考えているかなんてわからない笑顔で、なんでもない風にどうだろうな、なんて返してくる。 「なんだよ。イエスかノーかではっきり言えよ」  どうして大人はそうやって、なんでもお見通しみたいな顔で、ふわっとした答えばかり言いやがるんだろう。 「したり顔で誤魔化してるわけじゃない。素晴らしく難しい質問だったから答えを考えるまでに時間稼ぎが必要だっただけさ」 「答えは?」 「『知るか、自分で考えろよやんちゃボーイ』」 「……もっと優しく言えよ。泣くぞ」 「それは困るな! おまえさんに泣かれるとクレマンに一週間は根に持たれて投げつけられる嫌味で息の根を止められそうだ。だが、正直な気持ちを言ったまでさ。おまえさんの人生も感情もおまえさんのもんだ。世間がどうとか気にするな! と肩を叩きたいところだが、世知辛いもんでな、生きていくには世間と折り合うことも必要だ。どれが最善で幸せかなんてそれぞれ別さ。自分の愛を貫いて孤独に生きるハッピーエンドも、平穏と堅実を選択するハッピーエンドも、どちらもありうることだ。案外付きあってみたら彼女はとんでもなくかわいくておまえさんはメロメロ、なんて未来だってあるかもしれない。俺は未来を覗き見ることはできない。どれがいいか、なんてアドバイスはできないな」 「個人的な意見でいいんだよ」 「そんなことを言えば、俺の意見は一つしかない。いいか、これは大人としての良識や世間の一般論じゃない、ただ俺の好みと簡単な感情から言わせてもらう。よくきけ少年。『知るか。自分で考えろ』」  そう言って、にやにや笑うむかつく黒人は、うははと声を上げた。  むかつくような、泣きたいような、それなのになんかぐっと胸に詰まるような感じがして、あーもう、なんなんだとおれは鼻をすすった。 「俺は励ますのは好きだ。無責任にハッピーを押し付けられる! だが他人の人生の左右を決めるのは苦手だな。どちらを選んだっていいじゃないかって思っちまうからな。選ぶのは苦手だ。アドバイスも苦手だ。いいじゃないか、どんどん悩んで選べばいい。悩まずやけっぱちでさっさと選んでもいい。その結果がハッピーなら宴を開いてお前の肩を叩いて歌を歌ってやろう! アンハッピーだったらそれこそ俺の言葉の出番さ。俺は誤魔化すのが得意だからな。ちょっと暗くて寒いような人生だって、明るく晴れた日の木陰くらいの気分に錯覚させられるかもしれない」 「……すげー。全然参考にならない」 「アンリにでも聞いたらどうだ? ちょうど帰ってきてる頃だろう。ただしあのシェフはヴァロンタンの恋人たちの祭典前で、毎日ぐったりしているから、相談事なら眠る前にさくっと済ませなきゃいけない」 「言わないよアンリには。困らせそうだから」 「なんだ、俺なら困らないと思ったか?」 「困ったの?」 「困るだろう。俺はお前の友人だ。友人が困っているのに俺はろくなアドバイスが言えない。そりゃ困る。結局俺に出来るのは、暖かいショコラを淹れることくらいしかない」  いつのまにかシュミネにはCLOSEの看板がかかっていた。歩き出したオーレリーに旦那は気が付き、どうしたんだと声がかかる。旦那の声は、夜に沈むように馴染んで気持ちがいい。早朝も似合うけど、夜も似合ってずるい。 「こんな時間にどこに行ってたんだオーレリー。アンリと喧嘩でもしたの?」 「クレマンまで! なんだ一体、俺が外出するにはアンリを一々怒らせないといけないのか!」 「君は割合外に出ないからね。うちの住人はすべからく引きこもりだ。リュカ、おかえり。今日は歌の先生の日じゃなかった?」 「ジェントルなリュカが生徒のガールフレンドを家まで送り届けた後に、俺とばったり出会ったのさ。堂に入ったエスコートぶりだったぞ」 「帰り道でオーレリーに捕まったのか。それは災難。……そうだ、ちょっとね、来月からのシフトの事で相談があるんだけど。オーレリー、ちょっとリュカを拝借するよ。アンリはさっき帰ってきたばかりだから、あんまりうるさくして本気で喧嘩しないように」 「全く失礼だな。疲れている人間の耳元で騒ぐようなことはしないさ!」  どうだろうなぁと思っていたのが顔に出ていたようで、不服気なオーレリーは不服気なまま、外付けの階段を登って行った。  残されたのはおれと旦那の二人だ。  薄暗く絞った電灯の下で、ちょっとこっちに、と手招きされる。レジのカウンターの上には、来月のカレンダーが置かれていた。 「基本的にきみのレッスンの水曜日は抜いて、あとうちは月曜休みだからね。その日も休みだね。金曜はムッシュ・シュクレがマカロンを焼くから夜営業は無しだ。となると月、火、木、土、日の五日間になるわけだけど。……いや日曜は流石にやめよう。どうせ夜は暇だろうし。週四日でも平気かい?」 「おれは、なんでも。どうせバイトなくっても結構来てるし」 「まったくすっかり馴染んだものだよ。今月はきみが音楽指導で忙しくて暇だなんて、オーレリーはちょっと拗ねてたくらいだ。アンリも今は忙しいし、とばっちりのように僕まで忙しい」 「サン・ヴァロンタンってパン屋も忙しいの?」 「違う。パンは普通だ。イースターはそこそこ忙しいけどね。うちもエッグチョコを置くから。そうじゃなくて、あるだろう、女性が好きそうなお菓子が。この店には」 「…………シュクレさんのマカロン」  そう、と旦那はカレンダーをしまいながら店のドアを施錠した。二階には外の階段からしか行けないけれど、裏口から出ればいい。 「問い合わせだけで店に人が溢れそうなんだ。いつもは女性がこぞって買っていくマカロンに、仕事帰りの男たちの問い合わせが殺到だ。みんな愛しの妻や恋人にどうしてもこのマカロンを贈りたいといって、結局この時期だけは受注生産なんだよ。珍しくムッシュ・シュクレが昼間から厨房に入り浸る時期だ」 「めっちゃ大変そう」 「大変だ。ひどく大変だ。正直関係ない僕も大変な気分になってくる。そわそわして落ち着かなくてよくないね。無駄に忙しいし、そうなると人手が欲しいし、せっかく増えたバイトは取られるし……いや、きみの予定を非難しているわけじゃない。というか、きみを非難しているわけじゃない。僕が言うのもなんだが、何事も経験だ。音楽の指導だなんて、すごいじゃないか。だから、僕がグチグチと非難しているのは、まあ、つまり、リュカを拘束している年若い顔も知らない人間の方だから、きみは気にする必要はない」 「うん……うん?」  すぐに何を言われているのかわからないからおれは馬鹿なのかもしれないし、この人の言葉が回りくどすぎるのかもしれない。  クレマンさんは頭が固い、というのはこの辺の客の常套句で、確かに旦那は表情も固いし変なところで頑固だったりする。顔が変わらないから感情が読みにくい。 「えーと。……ごめん、いま、オーレリーの言葉の処理で脳みそ使っちまってて、わりと思考能力がアレなんだけどさ」 「簡単に言った方がいい?」 「できれば」 「僕はきみを拘束している人間に嫉妬している」  喉がつまって変な声が出そうになって、そのまま息を止めてしまった事に気が付かなくて今度は熱が上がって死にそうになった。 「……そしてきみがそういう反応をするだろうことがわかっていて、つい言葉を零してしまうよくない大人だな。悪かったよ、とりあえず息はした方がいい。死んでしまうから」 「な、あん、……だって、そん…………」 「まあね。僕は顔に出ないし、言葉で誑かすタイプでもないんだ。オーレリーのようだったら楽だったかもしれないと思う事がないことはないが、自分の固さを僕は気に入っているから改善する気もない。それでも、向けられたものには誠実でいようとは思っている。というか、どうしてきみは、最初から返ってこないものだと思ってるんだ」 「……………だって、」 「いいかい。僕は確かにゲイではないけれど、きみの事を意識していないだなんて一言も言っていない」  このあとの記憶が、実はちょっと怪しい。気が付いたら旦那がのぞき込んでいて、大丈夫かといつもの無表情で首を傾げていた。  自分で考えろ、と言ったオーレリーの声が蘇った。こんなもの、考えるまでもない。考えなくても、わかる。  理性なんか意味はない。本能に忠実なだけじゃ生きてはいけないのかもしれないけれど、おれはそれを無視することなんかできなかった。  死にそうに速く鼓動を刻む心臓のあたりを摩って、何度か深呼吸してやっと落ち着いて、でもなんて言葉を返したらいいのか滅茶苦茶迷っていたんだけど旦那はさっさと戸締り確認していて、要するに俺の返答は特にいらなかったらしい。 「ああ、それと、もうひとつ」 「……まだなんかあるの……?」 「そんなに怯えなくても捕って食いやしない。この前きみが僕の鼻歌をききつけて、その歌は何だと訊いてきたアーティストのCDをやっと発掘したんだ。普段聴くようなものでもないし、なんならあげてもいいけれど」 「…………まじで。ほしい。誰?」 「ダフトパンクだね。まだ活動しているだろう? 曲名はデジタル・ラブ」 「めっちゃダンスナンバーじゃん……旦那が歌う曲だから、クラシックかシャンソンかと思ってた」 「歌に年齢なんて関係ないさ。いいものはいいし、好きなものは好きだよ。愛の唄は確かに柄じゃないけどね」  そして旦那は、あのひどく甘く深い声で、呟くように歌う。  ぼく達は夜通し踊っていた、という歌詞はそこだけ聞いてもよくわからないけれど、ラブという題名なのだからきっと愛の歌なんだろうなぁと思う。  この前店で聴いた時はただの鼻歌だったのに、歌詞がついた歌は酷く甘くて耳から溶けてしまいそうで死にそうだった。  たぶん他の歌詞を覚えていないんだろうなと思う。同じフレーズを何度か繰り返し、旦那は裏口の戸を開けた。店から厨房スペースをつっきると、裏口に出る。厨房はいつもバターと小麦粉の香りがしているのに、今日は甘い焼き菓子の匂いで満ちていた。  歌は嫌いじゃないけれど。歌うのも、嫌いじゃないけれど。やっぱりおれは、旦那の歌に合わせて踊りたいと思う。  真似するようにそのフレーズを歌うと、珍しく旦那が笑ったような気配がした。気のせいだったかもしれないけれど。なんてったって真っ暗だ。 「音楽は素直でいいね。おやすみ、リュカ。また、近々……いや明日の朝会うかな? 泊まって、そのまま学校に行くだろう? 朝食にアンリが起きていなかったら、厨房まで降りてきたらいい。ドイツパンのサンドイッチしか振舞えないけどね」  それでいいなら朝食を一緒に食べようと誘われて、おれは、やっぱり何と返したらいいのかわからなかったし、なんと返したか覚えてなくて、ただただその日は甘い声の意味のわかりかねるくらいストレートで歪曲的な衝撃の一言を反芻し、オーレリーとアンリに揶揄われ心配され、結局眠れぬ夜を過ごすことになった。  ……夜通し、踊れるもんなら踊りたい。きっと頭がすっきりする。夜の中で踊る曲は、あの甘ったるくて低い声だったら最高だと思った。

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