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フェイバリット・シングス

 どうしても、甘くて深い香りの珈琲が飲みたくなった。  珈琲をゆっくり飲むのは朝だけで、仕事上がりの夜に飲むのはワインかペリエにしている。多くのフランス人がそうであるように、私も珈琲を愛してはいるけれど、生活習慣的にそれを楽しむ時間がないのだから仕方がない。  本当は一刻も早く帰って空腹を満たし、眠りにつきたい。明日は恋人たちの祭日で、一か月も前から予約はびっしり埋まっている。いつもより早く出勤しなければ仕込みが間に合わないかもしれない。駆け足で帰路を急ぐべきなのに、私の足は夜道を明るく照らすカフェへと向いた。  珈琲の素晴らしい香りが満ちている店内で、小さく息を吐いた私を見つけたのは、夜に会うのは珍しい人だ。 「やぁ、ナタリーじゃないか! このカフェの通路はキミの家への近道かい?」 「……あなたのメゾン・ブーランジェも、ここから少し遠い気がするわね、オーレリー。珍しい時間に会うものだわ」 「夜中の散歩中でね。時には生活圏外に飛び出して刺激を求めてしまうものさ。何よりこの店の珈琲は日の暮れた寒い夜にぴったりの暖かい味だ。俺の声がうるさくないのなら、こちらの席へどうだい。勿論、孤独と隣り合って珈琲を堪能したいのならば、無理は言わないさ」  孤独と共に珈琲を啜るつもりだったのだけれど、相手がオーレリー・コラールならば話は別だった。私は喜んで――といっても、疲れ切った私の顔の筋肉は笑顔を作れていたか怪しいけれど――彼の向かいの席へ腰を下ろした。  彼との縁は今だにあまり深くはない。私が知っているのは、彼が絵本作家であることと、とてもよく喋るという事くらいだ。オーレリーの同居人は私と同じレストランで働く日本人の青年で、彼はよく、この陽気な黒人男性の事の愛ある愚痴を零している。  なんでもかんでも拾ってくる、なんでもかんでも口を出す。そう言うアンリは、その実迷惑している様子はなく、一体どういう人なのだろうと長いこと疑問に思っていた。  足を伸ばし彼らの住居であるパン屋・シュミネに通うようになって、私はアンリの言っていた事を理解した。確かにオーレリー・コラールはとてもうるさい。そして、とても明るく愛おしい人で、なんというか、一言で彼を語ることは確かに難しい。  気さくに声をかけてきた彼の前には、半分程に減ったカフェ・クレムのカップが鎮座する。一人で飲むならエスプレッソだけれど、私も彼と同じカフェ・クレムを頼み、珈琲の香りに満ちたカフェの空気を深く吸い込んだ。 「お疲れかい、ナタリー。サン・ヴァロンタンを控えているんだから、そりゃあくそみたいに忙しいだろうな。そういえば明日は早出勤だって話じゃないか! うちのシェフ様も今日は早く寝るからなって、散々俺に言い含めて出勤したものさ」 「あら。オーレリーが時間つぶしをしているのは、アンリの安眠の為?」 「まさか! 第一あいつはわりと図太い素敵な同居人でね。俺が詩の女神様と戯れて深夜まで煌々と灯りをつけていても、朝までぐっすり爆睡してくれている。俺の散歩は放浪癖みたいなもんさ。起きたままの夢遊病だ。時々ふらっと、夜を徘徊したくなる。そう思うと我慢が出来ない。今日も気が付けば夜の街の中で珈琲を啜っていたのさ」 「……貴方の言葉は歌のようね。どこまで本当かわからないけれど」  支給された珈琲に口をつける。深い香りが私の身体を満たし、漸く私は今日の疲れを言葉にする余裕を得た気がした。  嫌な事を思い出すのは疲れる。それを言葉にするのは、もっと疲れる。けれどこの口うるさいと有名な絵本作家は、アンリに言わせれば『不幸を食べて幸福を吐き出す生物』だというのだから、ここで彼に会ったのは、幸いな事なのだろうと思う事にした。  私の憂鬱も、彼は食べてくれるのだろうか。カフェ・クレムで湿らせた唇を開く為に、ほんのすこし、瓶の底に残るジャムのような細やかな気力をかき集めた。 「……小さな棘が少しずつ刺さるように、ちくちくと、イヤな事が積み重なる一日だった。災厄のミルフィーユ、とまではいかないけれど。イヤな気持ちのトライフルのよう」 「さすがシェフの例えだな。ひどく苦い味のドルチェになりそうだ」 「笑い事ではないのよ。朝から目覚ましが壊れて寝坊するし、家を出たら猫にたかられて、出勤すればネズミの処理。キーキー鳴くのが、たまらなく嫌なのね。道端でゴミを漁るだけならば、殺される事なんてなかったのにと思うと、柄にもなく同情してしまって憂鬱になる。オーダーは面倒な揚げ物料理ばかりで、メインシェフが風邪をひいてしまっているからもう大変。新人のアシスタントは皿を割るし、昼間には従業員のストーカーが裏口から進入しようとしてオーナーに捕まって、私の休憩まで無くなった。そしてディナーのお客様がとにかく最悪で、……こういうことを言ってはいけないのだから、名前は伏せるけれど、とても有名な舞台女優だったの」  彼女の名前は、おそらく芸術に触れない人が聞いても首を傾げるものではあるけれど、ほんの少しでもミュージカルや舞台を覗く人間は『ああ、あの人ね』とすぐに顔を思い浮かべる事ができるものだった。  私も彼女の名前を知っていた。週末に、彼女が主演のミュージカルを見に行く事になっていたからだ。  音楽はお好きですか、と、少し視線を逸らしながら控えめに訊いてくる彼に、私は少女のような気持ちでもちろんと答えた。正直なところ、クラシックミュージックをじっくり聴くような趣味はなかったので、オペラにでも誘われたらどうしようかと思っていたのだけれど、差し出されたのは有名なミュージカルのチラシだった。サウンド・オブ・ミュージックなら、さすがの私も知っている。  好きなものを一つずつあげる、あのかわいい曲が好きだった。  週末を楽しみにしていたのだ。仕事以外で外に出るのは稀で、生で聴く声を、歌を、私は心待ちにしていた。だから朝から猫を追い払わなくてはいけなくなっても、知らない男に昼食の時間をつぶされても、私はこういう日もあるわ、となんでもない風を装えた。  へこんではいた。けれど、泣くほどじゃないわよ、なんて、強がって鮮やかなソースを皿の上に描けたのだ。 「それが今はとても強がる元気もない。……悪口は言いたくないし、正直なところ、誰かに喋る為に思い出すのも嫌だわ。マナーも、口も、とにかくレストラン・リラにふさわしくなかった。お客様を選びたくない。でも、選ばざるを得ない。だって、お客様は彼女だけじゃない。うるさい暴言に眉を寄せていた窓際のご夫婦も、せっかくのワンピースを安物だなんて言われてしまった若い女の子も、大切なお客様なのだから。……嫌ね、珈琲で流してしまおうと思ったのに、とてもじゃないけど無理みたい。彼女が歌うと思っただけで、私はすてきな歌を嫌いになってしまいそう」  歌に罪はない。それは知っている。料理でも同じことだ。どんなに性格の悪いシェフが作ろうが、最高においしい料理だってある。  美しい歌を、美しい人が奏でるとは限らない。優しい歌を、優しい人が奏でるとは限らない。  そういうものだ。理解はしている。けれど頭が固く、決して柔軟ではない私はどうしても、優しい歌の裏に彼女の嫌な言葉の棘がちらついた。  気持ちが冷めていく感覚はとても嫌だ。悪いのは、頭を切り替えられない私なのに、誰かに八つ当たりしたくなる。どうしてもっと、優しくなれないのかと、またため息が出た。  週末のミュージカルにとても行きたくないこの気持ちを、私はどうやってあの、見た目よりも引っ込み思案な花屋の彼に伝えることができるだろう。憂鬱があふれ出し、着々と珈琲を冷ましていくようだ。マイナスの感情は、燃えるように熱く吹き出るのに、どうして重く冷たいイメージがあるのだろう。 「お疲れ様だな、ナタリー。まあ、そういう日もあるさ、なんて簡単な事を言うのは楽だが、キミの重く沈んだ心を引っ張り上げるには力不足だな。キミは俺よりも大人で、アンリよりも大人で、だからきっと憂鬱に対する処置を誰よりも承知しているんだろうな」 「重いため息を吐いてしまうときは、私はカフェに入ってエスプレッソを飲む。そして何もかも忘れて寝てしまう。でも、それができるのは私の人生が私一人だけのものだったから」 「人間関係って奴はいつだって憂鬱を潜ませているのさ。週末のミュージカルの予定が憂鬱か?」 「……どうして知っているの」 「浮かれた花屋が訊かなくても口から垂れ流しているよ。勿論、友人である人間にだけだ。好きな人をやっとミュージカルに誘えたんだと始終だらけた笑顔で浮かれていたアイツの鼻歌は、ドレミの唄だった」 「ああ、もう……アンリは知っているのかしら」 「気が付いていないんじゃないか? フレデリックは恥ずかしがり屋で見栄っ張りで、熱烈な恋の相手がアン・リラのシェフだなんて一言も言わなかったし、なんならあの少々浮かれすぎている花屋は、アンリの勤め先がライラックの名前のついたレストランだなんて気が付いてもいないだろうしな。そうだ、あの浮かれた花屋に、キミの憂鬱をぶつけてみたらいいんじゃないか?」 「フレデリックに?」  思わず、裏返ったような声が出てしまう。私の声は少し大きすぎたようで、端の席の女性が振り返ってこちらを見たので、慌てて私は何食わぬ顔を装いカフェ・クレムを口元に運んだ。  ぬるくなりかけた甘い液体は、喉に少しつまるような気がする。暖かいうちは、あんなにするりと飲み込めるのに。 「そうだ、今日の朝からのキミの一連の不幸と憤りを、珈琲一杯分の時間でぶつけてみたらいいんじゃないか。キミの怒りは理不尽じゃない。キミの感情はひどく正当だ。そしてあの花屋は少々浮かれてはいるが、勿論良い奴だ。飾る事も忘れた精いっぱいの言葉で、キミを大いに慰めてくれるに違いない! と俺は思うんだが」 「…………でも、こんな愚痴、とてもかわいい女じゃ無い」  言葉尻をすぼめる私に、オーレリーは高らかに苦笑した。  威勢のいい、堂々とした苦笑だった。その声で、またも周りの視線が突き刺さったが、そんな事などどうでもよくなるような軽やかさがあたりに満ちた。  ああ、彼の笑いは、確かにとても気持ちがいい。喉につかえるようなもどかしさが消える、さっぱりした笑い声だ。 「ナタリー、キミって人はなんてかわいいんだ。不安はかわいい。悲しみは美しい。勝手な外野からの意見を言わせてもらえば、最高にかわいいカップルでぜひ世話を焼きたくなる! だがキミもフレデリックもいい大人だし、分別をわきまえた良い奴らだ。俺が騒ぎ立て囃し立て、おせっかいに喚かなくてもきっとうまくいくに違いない。なあ、フレデリックは多少馬鹿で打たれ弱いが、良い奴さ。そうだ、あいつは良い奴だ。他に表現のしようがないくらいに良い奴だ。そしてキミは最高にかわいいひとだよ」 「夜のカフェで、お客様の愚痴を言うような女は、かわいいかしら」 「カフェ・クレムを飲みながら憂鬱を隠そうと必死なキミは、かわいいさ。このセリフはそうだな、本来なら俺じゃなくてフレデリックが言うべきだ。何も、あれもこれも全部話す必要なんてない。世界人類すべてに正直でなくとも、誰の涙も見ずに笑顔で過ごせたら上々じゃないか。ただ声を聞くだけでもいいさ。慰めの言葉でなくとも、きっとあいつの声はキミの力になる」  何なら歌でも歌ってもらえ、とオーレリーは笑い、からりとしたその言葉に私は、呆れるような感心したような、不思議な思いだった。  なんと前向きなのだろう。なんと軽やかなのだろう、この人は。アンリはとても柔らかいが、オーレリーはとても軽やかで、そういえば彼らの下の階のパン屋の主人は頭が固いと有名な事を思い出し、なんとも不思議な男たちだと苦笑した。  ほんの少しでも、私は笑えている事に驚く。表情の一つも動かすのは嫌だと思っていたのに。あれほど疲れていたのに。  内臓にどっしりとたまったような憂鬱は、まだ晴れたのかわからないし、この数分で解決したことなど何もない。けれど、オーレリーの軽やかな言葉を聞いていると、些細な事に拘って怯えている必要なんてないのではないかと、思えてくる。不思議だ。彼がとても、簡単に言葉を放つからかもしれない。 「ただしあいつは音痴だぞ、覚悟した方がいい。俺の歌も聴けたもんじゃないって言われるんだが、この街で歌のコンクールを開いたら、奴と俺でビリを争うライバルになるに違いない、それ程酷い。だから簡単な歌がいいぞ。上級者向けの悲恋ソングは向いてないからな。あの歌はどうだろう。好きなものを、ひとつずつ羅列するあの有名な曲だ。バラの上に滴る雨粒、子猫の髭、ぴかぴかに磨いた銅のやかん、ふかふかのミトン……」 「マイ・フェイバリット・シングス」 「そう、それだ。俺はミュージカルには疎いし、話もよくわかっていない。けれどあの好きなものを一つずつ挙げていく歌は、とても愛おしいし最高だという事は知っているよ」  悲しい時はひとつずつ、好きなものを思い出すんだ、と彼は笑う。私はいつもつい、嫌なものばかり羅列してしまう。トタンの上を歩く時の音、湿ったタオルのにおい、甲高い子供の声……そのよくない癖は確かに私の憂鬱をより重くしていくようだ。  私は軽やかな彼の言葉に従って好きなものを思い浮かべることにした。  真っ白な大きな皿の上にソースを垂らす瞬間。摘んだばかりのハーブのにおい。朝一番に口に入れる珈琲の麗しさ。寒い冬の朝の夜明けの空気。シュクレさんのマカロンを噛み締めるときのほろりとした触感。ほんのすこし眉を下げ、息を漏らすようにお疲れ様ですと笑う彼の声。  あの声で歌ってくれるなら、どんなに下手でも愛おしいことだろう。想像した私は、確かに調子はずれな音程が似合うと思ってしまって、想像の中の彼に謝った。 「好きなものは思い描けた?」  にこり、とにやり、の中間のような笑顔を湛えたオーレリーに、私は頷く。 「それなら上出来だ。心が折れた時は、涙をこらえる前にまず、愛おしいものを数えるんだ。そうすると不思議と世界は愛に満ちている、と錯覚してくる。その愛が、そこにあってもなくてもいいんだ。思い込みでもかまいやしない。涙がひっこめば、真実なんてどうでもいいのさ」  強引な彼の理論に私はひとしきり呆れ、笑い、そしてカフェの席を立った。本当はもう少しゆっくりとしていくつもりだったのだけれど、用事が出来てしまったのだ。ゆったりとしたジャズがかかる静かな店内は、電話には向かない。  調子はずれのマイ・フェイバリット・シングスを歌ってもらう為に、私は仕事以外でほとんど使うことのないタブレットを取り出す。最近入れたばかりの電話番号をタップするのは勇気がいる作業だ。 「オーレリー、あなた、他人によく『頑張れって言ってくれ』と言われない?」  マフラーを巻きなおす私の唐突な問いかけにも、彼は気を悪くした様子もなく笑う。 「キミはシェフじゃなくてエスパーか? 確かに俺はそれをよく要望されるが……ただし、他人相手じゃない。俺が頑張れと言うべきは、愛すべき友人達だ。さすがに全人類を愛す程俺の両手はでかくない。抱えきれるだけの友人は大切にすることにしているんだ。……頑張れナタリー。かわいい人になれるさ」 「ありがとう。――あなたも良い夜が過ごせますように」  私の言ってほしい言葉を軽やかに口にしてくれたオーレリーに、今は何も返せるものがないことがもどかしい。  きっと彼の世界は、本人が思っている以上の愛と友人に満ちているに違いない。他人と関わるのが怖く面倒だと感じてしまう私なのに、今日の夜の出会いにはとても感謝していた。  ボールペンのノック音。グラスにシャンパンを注ぐときの泡立ち。真新しい木のテーブルの匂い。少し寒い夜の道に漏れる灯り。  愛おしいものを羅列する合間に、愛おしい声を聞くために勇気をだす。頑張れ、と言ってくれた彼の言葉が耳の奥で私を励ます。電話口に出た彼にこんばんはと、少しだけ緊張して口を開いた時、私は暗い夜道の中に見知った顔を見かけた。  女の子と二人で歩いている、少年の方に見覚えがある。こんな時間にデートかしらと目を凝らすと、それはパン屋『シュミネ』で時折店番を務める少年のように見えた。名前は、何と言ったかしら。口当たりの良い、素敵な音だったような気がする。 『ナタリー?』 「……ああ、ええと……ごめんなさい、なんでもないの。今から、少しだけお話してもいい?」 『勿論! どんな話でも、大歓迎だよ。今は家?』 「いいえ、これから帰るところで……ねえ、ごめんなさいフレデリック、ほんのちょっとだけ質問いいかしら。シュミネのバイトの男の子を知ってる?」 『クレマンさんのところの? ああ、リュカだろ。リュカ、えーと……なんだったかな、ティオだったかディオだったか……リュカがどうかしたの?』  なんでもないの、と答えながら、私はそっと空気に紛れるようにリュカとすれ違った。  ガールフレンドとデートをする時間でもないし、特別何かがあるような場所でもない。どこかへ出かけた帰り道かもしれない。  あの子も誰かに恋をしているような事を、言っていた。世界がすべて恋や愛ばかりで満ちているとは思わない。けれど、誰かを想う気持ちが少しでも、明るい結末に向かえばいいと、とても無責任に私は祈った。

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