13 / 34

休日のプチ・デジュネ

「あら、今日の店番は、随分とかわいらしいのね。クレマンさんは引退?」  私が思わず声をかけると、退屈そうな男の子はぱっと顔を上げてイヤホンを取った。 「クレマンさんに用事? 裏に居るから、呼べば来るけど」 「用事というわけじゃないから、大丈夫。また寄った時に声をかけるわ。今日の目的は買い物だから」  高校生くらいだろうか。愛想の良い雰囲気ではないけれど、少し奇麗な子で目が惹きつけられてしまう。  異性として、では勿論、無い。五歳下の男性だって歳が離れすぎていると思って踏みとどまったというのに、まさか高校生相手にどきりとすることなんてない。パン屋のレジに座る彼の魅力は、男性的というよりも、絵画の美しさのような芸術的な空気を感じる。  美術館に、一緒に行く男性は居ないけれど。……そんな風に一々自虐的になってしまって、ここ最近は固い表情が更に強張るような気持ちだった。  休日に、引きこもって料理ばかりしているのは良くない。かといって、出かける用事もなければ、一緒にお茶をしてくれるような友人達は大概結婚していて、子守りで忙しい。興味を引かれる映画はなくて、舞台のチケットは売り切ればかりだった。  それでもどうにか外に出ようと思い、暖かい日差しの中を歩き、その途中でクロワッサンとカフェオレで遅い優雅な朝食を取ろうと決めた。  公園近くのパン屋『シュミネ』は私の家からはかなり歩く。それでもここに来るのは、パン屋の主と共通の友人がいる気さくさと、単にこの店の柔らかいパンがおいしいからだ。  慣れた様子でパンを紙袋に入れてくれる彼を眺めながら、学生たちは春休みに入っている事に気がついた。四月も半ばを過ぎているのだ。だからこんなに世界は暖かいし、浮かれている。  そういえば先月末くらいからアンリも浮かれていた。浮かれていた、というか、落ち着きがなくぼんやりする事が多かった。同僚の女の子達は『ついにアンリも誰かに恋をしたんじゃないか』と浮足立っていたが、私は恋が実ったのだと思っている。  世界は幸福に溢れている。その幸福を、私にも分けてほしいだなんて、我儘だと知っている。だから私は、一人でベランダの見える部屋でクロワッサンを齧るのだ。 「……やあ、ナタリーじゃないか」  お会計を終えた所で、レジの後ろの扉からクレマンさんが顔を出した。相変わらず眠そうで、とても固い表情をしている。けれど私は彼がとても紳士的で思いもよらず柔らかい、という話をアンリに聞いているせいで、妙な親しみがわいてしまう。  石頭のようなクレマンと、笑わないナタリー・マルタンは、ちょっと似ていないだろうか。そんな事を言うとクレマンさんにも失礼な気がするから、私は黙って口の端を上げる努力をした。 「今日のレストランは休みか。そういえば、アンリも出勤しなかったみたいだね。こんなところまで、散歩かい?」 「休日の運動にね。いい天気だけれど、行くところがない寂しい女だわ。おいしいクロワッサンを食べて、カフェオレを飲んで、一息つこうかと思って」 「休日をゆっくりと謳歌するのは大切だよ。素晴らしいことじゃないか。一人が寂しいことだなんて、そんなことはないだろうがね。まあ、時々、妙に物足りない気分になる事もあるさ」 「……クレマンさんも?」 「残念ながら、今はそんな暇もないけれどね。煩いアルバイトのおかげで賑やかさだけは事欠かない」 「静かにしてんじゃん。おれじゃなくて旦那に話かけてくる客がうっさいくらいだよ」 「……リュカ、その呼び方どうにかならないのかいって、毎回……」 「じゃあメートル?」 「僕は君のご主人さまでもないよ。普通に名前で呼んだらどうだい」 「だってみんなクレマンさんって呼ぶのにおもしろくないじゃんか。石頭以外の愛称があってもいいじゃん」  ずばりと言葉を放つ子だ。驚いて瞬きをすると、クレマンさんが溜息を零す。けれど、呆れたようなその息の中に、愛情はあれど嫌悪はない。 「ご覧のとおりの口達者だ。見た目はひねくれた若者なのに、中身は元気な犬だよ。すっかりオーレリーのいいカモだ」 「ああ……彼の演説を素直に聞いてくれる良い子ってことね。つっけんどんで腐っているよりは素敵な事だわ。アンリともうまくやってそう。噂のシュクレさんとは?」 「残念ながらまだ対面前でね。そもそもムッシュ・シュクレが他人の前に姿を現す事が奇跡だ。それに最近ムッシュはどうもぼうっとしていて、前以上に部屋からあまり出てこない。春の陽気に、参っているのかもしれないよ」  そう言うクレマンさんも、どことなく春めいた雰囲気が漂っていた。いつものように眠そうな顔で滔々と言葉を連ねていたけれど、口調が軽く思える。アルバイトの彼の存在が、新しい刺激となっているのかもしれない。  世界は春だ。皆、その陽気と同じように浮かれている。  私一人だけ取り残されたような、焦燥感に急き立てられる。でも、そんな身勝手な寂しさで、年下の彼を巻き込むのは、やはり間違った事のように思える。  寂しさで、焦りで、人恋しさで、差し出された手を取りそうになった。けれど私は臆病で、その先にある未来を覗くのが怖くなった。  言い訳ばかり。後悔ばかり。だから私の溜息は重い。クレマンさんの軽やかな溜息とは別ものだ。  早く帰って、暖かいカフェオレを淹れよう。そう思いクレマンさんのパン屋を出た。  外は相変わらずの暖かさだ。柔らかい日差しに、私は溶けてしまいそうになる。 「おねーさん、待って、ちょ、速い、待って!」  その声が、俯いてすたすたと歩く私を呼びとめる声だと気がつかず、肘を掴まれるまで歩き続けてしまった。  追いかけてきたのは、先ほどのクレマンさんのパン屋に居た、アルバイトの男の子だ。私の横に並ぶと割合背が高い。高校生ならば、もう成長も止まっているのかもしれない。 「……っはー……速……あの、これ、サービスだって、旦那が、っていうか旦那に言付けたシュクレさん? って人だ」 「――マカロン」 「そうそう。うちの土曜の目玉商品。今日は、土曜じゃないけど。非売品だよって旦那が言ってた。ええと、なんだっけ。その、おれも見た事無い屋根裏に居るっていう噂の変人から、言付けで……『あなたの溜息が、どうか軽やかになりますように』……だっけな……?」  アンリだ、と思った。私が重い溜息ばかりつく様を、きっとアンリが見ていたのだろう。屋根裏のシュクレさんと懇意にしているらしいアンリは、私の話を彼にしたのだ。  簡易な小さな紙袋の中には、薄桃色のマカロンが二つと、緑色のマカロンが四つ入っていた。  幸運担ぎの四つ葉のクローバーだ、とすぐに気がついた。ただ、ピスタチオ味にしては色が濃い。  私の怪訝そうな顔に気が付き、リュカが袋を覗きこむ。 「ソレ、おれも食ったけど、日本の茶の味なんだって。ピンクの方はサクラっつってたかな。春の代表的な花だってアンリが言ってた」 「ああ、抹茶ね。抹茶の、四つ葉のクローバーと、日本の春の花のマカロン」 「そう。おれ、日本の味なんてよくしらねーけど、わりとうまいよ。まあ、旦那のサンドイッチの方がうまいけど。あ、でも効果は結構あると思う」 「効果って?」 「『シュクレさんの恋マカロン』。……まあ、実るまでは行かないかもしんないけど、わりと幸運めぐってくると思うよ」  おねーさんもがんばって、と生意気に笑う少年は、一体誰にどんな恋をしているのだろう。  紙袋のパンと、シュクレさんの恋マカロンを抱き締めるように抱えたまま、しばらく私は逡巡していたが、踵を返す少年を追いかけて声をかけた。 「……待って。クロワッサンとブリオッシュをもう一つずつ、もらえるかしら?」  最初に勇気を出してくれたのは彼だった。私は戸惑い一歩下がってしまった。彼の事が、嫌いだなんて事はないのに。こんなつまらない女に声を掛けてくれるだなんて、暇つぶしかなにかよと、そんなくだらない予防線ばかり貼って。  今度は私が勇気を出す番だ。  少し遅いプチ・デジュネは、公園のピクニックに変更しよう。テイクアウトのカフェオレを売っている店なんて、どこにでもある。  私の言葉を聞いたリュカは、にやりと笑って、まるで踊るようにくるりとステップを踏んだ。  それは軽やかで、とても奇麗な踊りのようだった。 end 【幸福とパンとダンス】 2016.3.21発行の同人誌のログでした

ともだちにシェアしよう!