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誰かのワルツ
母親からの電話というものは、いつだって憂鬱だ。
ここ最近、めっきり春めいた陽気にあてられて、私の気分も比較的上向きだった。
特別落ち込むような事があるわけでもないが、浮かれるような事もない。それは通年、冬だろうが夏だろうが変わらないのだけれど、春の空気は別格だ。思わず鼻歌を漏らしそれを聞きつけられる度に、『石頭のクレマンも春の陽気には敵わない』と客たちに笑われる。
急に暖かくなる気候に合わせるかのように、浮かれた催し物も多くなる。オペラだのミュージカルだの、そんなものは室内で嗜むものなのだから、特別気候など関係ないだろうに。暖かくなると、人は家の外に目を向けるからかもしれない。
そんなわけで他の人間と同じように些細な春の予感にあてられていた気分も、電話を切る頃にはすっかり平坦に落ちついていた。
結婚はどうしたのか。相手はいないのか。パン屋の売り上げはどうなのか。帰って家業を手伝う気はないのか。いい加減家に帰ってきたらどうだ。そんなお決まりの文句ばかりの電話は、毎月掛ってくる。そして半年に一回くらいは、うっかり取ってしまって頭の痛い言葉の羅列にただただ頷く羽目になる。
私の返答はここ五年ずっと変わっていないというのに、それでも諦めず壊れたラジオのように同じ問いかけを繰り返すのだから、呆れてしまう。
帰るつもりはない。家業は兄が継いでいる。結婚の予定はない。店は残念ながらここ数年は盛況だ。金にも住まいにも不自由はしていない。冠婚葬祭のときだけ呼んでくれたらいい。
親不孝で申し訳ないという気持ちは最早ない。そもそも、一緒に暮らしていた十代の頃は、過干渉な親ではなかった。十年前に病気になり、そこからどうも弱気になったらしい。兄の嫁との折り合いも悪いようで、そこに私を引きずり込もうとしている意図も見えた。
私は今の人生に満足している。これ以上の何かは要らないし、これ以外の何かも要らない。そう言っても、どうも母親は納得しない。
それこそ結婚をしてしまえば彼女も諦めるのかもしれないが、生憎と二度目のそれを経験する気もなかった。
フランスに来た当初、私はパン屋では無かった。会社に勤め、そして結婚した。
彼女は今何をしているのか分からない。簡単に行き違い、さっぱりと離婚した。お互い傷になる前に別れられて良かったと最後に笑った記憶がある。実際わたしは彼女の顔をうまく思い出せない。
大人になったら結婚するものだと思っていた。だから私は結婚した。しかしうまくいかなかった。その程度の事だったし、この認識が非常に冷めているという自覚くらいはあったので、あまり他言はしていない。
私がどんな人間とどのように結婚して別れようと、私の焼くパンには関係ない。私は日々粛々とパンを焼き、そして売り、売れ残った固いパンを夕食にして、次の日またパンを焼く。
ここ最近は妙に騒がしい住人が上に増えたもので、私もそれに巻き込まれる事もあったが、基本的な生活に変化があることはなかった。
私はパンを焼く。私はパンを売る。パン屋になろう、と思ったきっかけは忘れたが、最早動機など関係ない。私はパンを焼いて売る生活が気に入っている。この街の口うるさい住人にからかわれながら、一人で店番をする日々が嫌いではない。
ただ、母親の声を聞くと、どうも、生活リズムが崩れた。私はこの生活を変えるつもりはないのだから、彼女が結婚をしろと言っても否と答えるしかない。けれど、気分はじっとりと低い位置を漂い浮上する兆しがない。
外は春めいた日差しだというのに。
憂鬱な溜息をついて、店のブラインドを閉めて施錠した。
月曜は定休日と決めていたが、復活祭の今日は祝日だった。他人が休んでいる日には働こうと思い、午前中だけ店をあけていたが、パンもほとんどはけてしまったので店じまいしても問題はない。
午後は休みにしよう。クローズの看板を掛けると、私は厨房に戻り、今日も最後まで売れ残ったドイツパンにクリームチーズとはちみつを塗った。
それをペーパーナプキンに包み、厨房に施錠して外に出る。
元々はパン屋の二階に住んでいたが、今は絵本作家とシェフ見習いの住まいとなっている。私は裏のあばら家に住んでいる。今はそこを通過して裏路地を進んだ。
暖かいと言ってもまだ三月だ。日差しは明るいが風は冷たい。外で遊ぶ子供もまばらで、老人たちの姿も見えない。祝日とはいえ、まあ、三月ならばこんなものだろう。
そう思いながらいつも小休憩をするベンチがある、ちょっとした広場に差し掛かった時、私は先客を見つけた。
それは、いつか早朝に出会った少年だ。
彼の名前はリュカで、そしてバレエに憧れて、パン屋の隣のダンス教室でご婦人に囲まれながらダンスを教わっている。そこまで思い出してから、そういえば時々店のガラス戸の向こうにその姿がちらりと見えた事を思い出した。結局中を覗いた彼は、私の店の扉をくぐる事はなかったけれど。
一度オーレリーと話してから、どうやら彼らは友人になったらしい、とアンリから聞いている。私のような石頭な大人よりは、良く笑うフランス人の方が、確かに話やすいだろう。時折オーレリーからもリュカの名前が出る。そのせいか、一度しか会った事がない彼の事を、随分と知っている気分になっている。
彼は私に気がつかず、優雅にその細い身体を動かしていた。
くるくると回る。軽やかに跳ぶ。着地は軽く、体重を感じさせない。
草食動物のようだと思う。軽やかに走るガゼルが頭に浮かぶ。ドキュメンタリー番組で、チーターから逃げるガゼルは、酷く軽やかで風のようだった事を思い出した。
暫くそのまま見ていたが、覗き見のような気分になってきたので、わざと靴音を立てて近づき、彼と目があうと手を上げた。
「……僕はいつも、きみの邪魔ばかりしている気がするね」
それでも通り過ぎず、古びたベンチの彼の荷物の隣に腰を下ろした。
普段なら踵を返して帰っていたかもしれない。けれど今は、電話越しの母親の声が私の気分を乱していた。誰かと言葉を交わせば、少しはこのじっとりと重い憂鬱は晴れるかもしれない。
それは出来れば普段の私を知らない人間で、あまり優しい人間では無い方がいい。行きずりの言葉ベタな学生は、その役目にぴったりはまっているような気がした。それはもしかしたら、私が彼に話かける為の言い訳だったのかもしれない。私はいつも、すべからく言い訳ばかりをして自分の行動を正当化している。
息を乱したままのリュカ少年は、耳に入っていたイヤホンを抜き、汗を拭う。私は運動をしないから、そんな風に汗を流す事も、息を荒げることも無い。パンを捏ねているときが一番の運動かもしれない。
やはり邪魔だっただろうか。しかし、じゃあこれでと腰を上げるタイミングは過ぎ去ったように思う。
暫く息をするだけだった少年は、今何時かと私に訊いた。
「昼過ぎだ、という事しか覚えていないね。腕時計は置いてきてしまった。一時過ぎくらいかな」
「うそ。もうそんな? ……昼飯、食い忘れた」
「じゃあ僕のランチを少し分けよう。相変わらず、黒くて固くて発音しにくいドイツパンのサンドイッチだけどね」
座った少年に当たり前のように抱えた紙袋の中身を分けて渡すと、嫌だとも言わずに受け取る。どうやら、不味くは無かったらしい。
「このパン好きなの?」
「好きだね。僕は元々ドイツの生まれだ。ふんわりと柔らかくて白いパンも嫌いじゃないが、ぎっしりと重くて固いドイツパンが故郷の味さ。まあ、いつも売れ残るのはドイツの固いパンだ。だからこうして、僕が食べる事になる」
自分の分を焼いているようなものさ、とパンに齧りつきながら零すと、少年は呆れたように私を見た。
「売れないのに焼くとか、よくわっかんないけど。あのパン屋の人達は、なんていうか、みんな変だ。忠告ばかりしてくるし、その割に、面倒な事は後回しにしてもいいとか言うし。大人ってさ、みんな頭が固くて煩くて、正しい事を強要してくる生き物だと思ってたんだけど」
「普通はそうかもね。うちの建物には、多分大人が一人もいない。みんな、歳を取っただけのただの人間さ。きみは、歳が浅いだけの人間なんだから、別の生き物じゃないだろう?」
「……なんか、言葉がうまいから、はぐらかされてる感じもする」
「きみのその感性は多分正解だね。うさんくさいパン屋の住人達に騙されてはいけない。でも、たまに息抜きをしたくなったら、きっと大歓迎されるね。オーレリーは人間が好きだ。アンリもね」
「クレマンさんは、人間が嫌いなわけ?」
「……どうだろう。好きか嫌いかで考えた事はないな。ワルツを、踊った人はいるけどね」
ドイツの結婚式では、新郎新婦がワルツを踊る。私はそのステップが苦手で、何度も彼女の足を踏んでしまった事を思い出した。
その度に笑う彼女は、愛おしかったような気がするのに、どうして覚えていないのだろうか。
隣人みな狂人だというのが持論だ。隣の人間が、自分とまったく同じ筈はない。モンスターだと思っていれば、大概のことが流せる。そんな風に思っている私こそが怪物かもしれない。結局、他人を遠ざける言い訳だ。
人間は好きでも嫌いでもないが、怖いのかもしれない。誰かの手をとりワルツを踊る事は、ひどく怖い事のように思える。
もう私は誰かとワルツを踊る事はないだろう。今日も明日も、どこかで誰かがワルツを踊っている。それは素晴らしい事だが、私には関係のないことだ。
それが辛い事だとは思わない。ただ、少しだけ寒いような、すかすかしたような気分にはなる。納得していても感情は勝手に上がり、勝手に下がる。
人間など、所詮動物だ。睡眠と栄養と太陽の光があれば、大概はどうにでもなる。更に幸福になるためには時折のスパイスが必要だ、と喚いていたのは勿論オーレリーだった。
私のパンに満ちた生活にスパイスなど要らない、と思い続けていたけれど。まあ、若干ならば、他の何かを入れてもいいかもしれない。
ムッシュ・シュクレを屋根裏部屋に招いた時も、オーレリーに二階の住居を譲った時も、そういえば母の電話を受けた後だったかもしれない。私はまったく、結局とても単純だ。
「オーレリーに聞いたけれど」
そう切り出した私に、リュカが耳を傾けた気配がした。私もリュカも、パンだけを見ている。
「夢の為に、お金がいるそうだね」
「……夢っていうか。それもまだわかんないんだけど。今更バレエがやりたいなんて言っても、それで食っていけるとは思えないし」
「夢に向かって突き進め、だなんて無関係な人間の言葉だな。僕がきみの親だったら確かに悩む議題さ。でも、やりたい事をやるために資金がいるなら、それを稼ぐ手伝いくらいはできなくもない」
オーレリーから、この提案を受けた時、私はとんでもないと思った。うちのパン屋は赤字ではないし最近は余裕もあるが、金があるなら煙突の空調を新しいものにしたい。何より、私は人間が好きではないと思っていた。
隣人はみな狂人だ。そう断ったが、リュカは隣人ではなく友人さとオーレリーは笑った。あの黒人の言葉を、少々信じても良い気がした。
「――時給は大して出せない。賄いはもれなく黒いパンのサンドイッチになる。他のものは大概売れてしまうからね。売れ残って僕達の口に入るのは大概は固いパンだ。それでもよければ、パン屋『シュミネ』はアルバイトを一人取ってもいい」
「……うっそ」
「嘘の方が良い?」
「嘘、じゃない、と、嬉しい」
そう言う彼の目は驚くほど開いていたし、パンが入ったままの口が開いていてだらしない。だらしないが、礼儀作法はきっとすぐに呑み込むだろう。
挙動不審な少年には気がつかないふりをして、私はパンを齧り続けた。暖かい珈琲でも淹れてくれば良かった。夕飯は、スープかシチューにしよう、と思いながら。
「ところで、ハバネラの踊りは出来たの?」
ふと、隣の彼に問いかけた。
「え。え?」
「なんだいその顔は」
「…………おれのことなんて忘れてるとおもったから」
「忘れないよ。きみのバレエは、軽やかでいい。あの後きちんと歌詞を確認して、最後まで覚えたんだ。スペイン語は流石に知らないから、ちょっと練習までしちゃったよ。僕のへたくそな歌でよければ、いつでも練習の伴奏を引き受けるよ」
私がそう言った時の、彼の感情の起伏を、どう表現したらいいだろう。いや、表現も何も、見たらわかるしそれ以上でもそれ以外でもないくらいに、分かりやすく、単純明快で、私の方が驚き心配になる程だった。
まあつまりは真っ赤だった。
……そんなに分かりやすい顔をされると、私の方こそどうしていいかわからない。ただ褒められて嬉しい、というような変化ではないことくらいは、流石にわかる。
頭が石のようだと言われても、私は自分では比較的普通の人間だと思っているのだから。
「…………大丈夫かい?」
「………………アンタが、きゅうに、ほめるから」
「いや僕のせいじゃ……ああ、まあ、僕のせいか。バイトやめる?」
「やる…………」
真っ赤な顔を放り投げてあったパーカーで隠し、消え入るような声を絞り出す少年が、不思議と私は嫌だと思わなかった。
恋は気ままな鳥すぎて、私の思いもよらない所を飛ぶ。さて、その恋の鳥が私の周りでどう囀るのかはわからないけれど。
あんたが愛してくれなくたって、わたしがあんたを愛してやるよ。そんな風に尊大に歌う移り気な悪女にはあまり近寄りたくはないが、まあ、顔に出やすい少年くらいならば、見守ってもいいかと思う。
誰かのワルツの代わりに、私はハバネラを歌おう。
あんたが愛してくれなくたって、と声高々に、スペインの言葉で、悪女のように。
軽やかに跳ぶ彼のダンスを眺めながら。
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