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真夜中ミュージアム
なんだかとても賑やかだな、と、ほんのちょっと気にはなっていた。
週末といってもクレマンのパン屋は毎日営業していたし、アンリのレストランも休日は忙しい筈だから基本は休みってことはない。自宅を仕事場としているオーレリーはアンリの休日に合わせて休みを取っていることが多いので、結局メゾン・ブーランジェの住人は僕を覗いて土曜日は仕事をしている。
金曜日の解放感とは無縁の筈だし、今日は別に何もなかったと思うけれど。オーレリーの新しい本が出来たんだろうか。アンリのレストランで何か素敵な事があったんだろうか。
そんな事を想像しながら、薄いピンクのマカロンを焼きあげた僕を迎えにきたアンリは、珍しくお客さんが来ている事を教えてくれた。
そしてどうやら、そのお客さんは二階に泊まるという事も。
「それでくじをつくって引いたんだけど、オーレリーのベッドでリュカが、俺のベッドでオーレリーと俺が寝る事になっちゃったんだよね。まあ、別に、いいけどさ。こっちは床に布団敷いて寝るってわけにいかないから不便だよな。日本なら、もう床で寝ろよって言うのに。勿論オーレリーにだけど」
「アンリが、オーレリーと」
「あ、勿論お互い何もないよ。何もないって当たり前だけど。あいつはノンケだし俺の好みじゃないしっていうか友達だし、変な事はないない。ないけどもしシュクレさんがキッチンでリュカといきなり出くわしたらお互いパニックになるかなと思って、一応報告に――」
「僕の、ベッドなら、」
狭くてもいいならば半分あけることはできるけれど、と呟いた言葉は小さすぎて僕の被り物の綿が全部吸収したんじゃないかと思ったけれど、アンリには聞こえてしまったらしい。
随分と固まったアンリは、僕が不安になっておろおろとする程真っ赤になり、そのまま一回厨房の机に倒れ込んで、ずるりと床にまで落ちた。
慌ててしゃがむと、アンリの赤い耳が見える。かわいい。でもきっと、今の僕も赤い。誰にも見えないだろうし、自分でも確認はできないけれど、なんとなく熱くて息が苦しい気がする。
「……しぬ……しんじゃう……」
「ええと、ごめん……?」
「もう、ほんといきなり爆弾打ち込んでくるの勘弁してよかわいいしんどい息が苦しい……ていうかシュクレさん、寝る時はソレ取ってるんじゃないんだ? 俺、一緒に寝てもいいの?」
「……付けたままでも寝られないことはない……」
「嘘つくのやめなよ、首痛めちゃうよ。わかった、じゃあ俺目隠しして寝るから。そしたら、シュクレさんのベッドの半分を使っても大丈夫でしょ?」
アンリはいまだに、僕の顔を見ようとか、僕の過去を知ろうとかしない。興味がないわけじゃないらしいけれど、なんだかもうそのぬいぐるみの顔がシュクレさんっていう気がしてきた、なんてちょっと怖い事を言っていた。
僕は相変わらず他人の前に姿を現す事ができない。部屋から出る時は必ず人形の被り物を欠かさなかったし、誰かと食事を共にすることもなかった。そんな僕でも、アンリは手を握って好きだと言ってくれるから、申し訳ないような、切ないような気持ちになる。
ほとんどの人間は、僕のこの状態がよくないものだと言う。確かに、人とまともに喋る事も出来ないし、被り物をしなければ外に出る事もできないし、実際外に出ることなんて金曜の夜にマカロンを焼くために一階のキッチンに降りる時がせいぜいという生活だ。
クレマンのパン屋から出た記憶は、もう随分と昔の事だ。動かないと弱気になるぞとオーレリーがくれたウォーキングマシーンをたまに活用しているくらいで、外を歩いた記憶はうすぼんやりとしている。
人としてよくない生活は、改善されるべきだと言われる。そうなのだろうなぁと思うし、そういう風に言われることもなんとなく、納得はしている。でも僕は実際にそれを行動に移すことはできない。外に出ようとは思えないし、誰かと食事を一緒にしようとも思えない。
それでもいいんじゃないかなと笑ってくれるのは、この建物に住む人達だった。
クレマンは言う。
「きみが外に出ようだなんて頑張り始めた日には、心配で後ろから付いていかなきゃいけないから勘弁してほしいよ。陽の光と人間の視線にやられて卒倒しかねない。救急車を呼ぶ準備をしながら大の男をストーカーしなきゃいけないなんてまっぴらだから、どうかそのまま屋根裏でウォーキングしててくれ」
オーレリーは言う。
「外の世界は素晴らしいということは否定しないさ! 出会いと驚きと、陽の光で満ちている。だがその分、予期せぬ悲劇だって沢山ある。なあ、俺は外が好きだ。でも、あんたは屋根裏部屋が好きだ。それならそれでいいじゃないか。マカロン職人の変人が屋根裏部屋に引きこもったからって、誰が困るっていうんだ。出会いと驚きと太陽の光が無くたって幸せなら、何も望む必要なんてないじゃないか」
そしてアンリは、いつも笑ってこう言う。
「俺、シュクレさんが生きててくれてお帰りって言ってくれるなら、別に、シュクレさんがどこに居ても良いよ」
この過保護な大人達のお陰で、僕の世間に対する後ろめたい気持ちは砂時計の砂程のささやかさに抑えられている、と思う。本当は砂漠程もある憂鬱なのに、だって君達が僕はそのままで言いなんて、甘えた事を言うから、一週間に一度はこの人達が幸せでありますようにと祈ってしまう程だ。
僕は甘やかされている。でも、それでいいんじゃないかと言ってくれる。いいんじゃないかなと、思えるようになってきた。
幸福だと思う事は悪じゃない。胡坐をかくのは、驕りだけど。そんな事を言ったのはクレマンかオーレリーか、多分どちらかだ。
僕は毎回アンリが僕を好いてくれる幸福に感謝しながら、彼にこの幸せをどう返したらいいのかと、ずっと悩んでいた。
これを相談したオーレリーにもクレマンにも、実は、同じ事を言われていた。
「別に素顔を見せて全てを告白する必要なんかないさ。そんなものは愛とは無縁だ。アンリが貰って嬉しいのは君の過去じゃなくて、素直な愛の言葉と甘いキスだ」
――確かに、そうかもしれない。
アンリはいつも僕のことを好きだと言ってくれる。その度に僕は走りだしたいような幸福を感じる。手を握って寄り添ってくれると、嬉しくて困る程だ。困る。可愛くて嬉しくて僕は困ってしまう。
言葉が下手な僕が彼に向けてできる愛情表現は、キスなのかもしれない。勿論、ぬいぐるみの口をくっつけても意味はないことくらいは承知している。
映画でも、小説でも、恋人達はキスをする。その行為を僕はしたことがないので、実際どのようなものなのかは実のところ分かっていない。でも、アンリが誰かとキスをしたと聞いたらきっと真っ黒な感情が涙になって零れると思う。
手を握っただけで赤くなるアンリに、キスをしたい。でも、どうしていいかわからない。
そもそも僕は、このぬいぐるみを彼の前で取る勇気がない。どんなにアンリの事が好きでも、そのきっかけはいまだに見いだせない。
そんな僕に『目隠しをするから』と笑うアンリの、気づかいと優しさが切ない。僕は彼に、譲ってもらってばっかりだ。
先に二階に戻ったアンリに出来たてのマカロンを持たせて、僕は足音をさせないように階段を上った。相手が誰であれ、やっぱり、アンリとオーレリーとクレマン以外の人間は怖い。
そっと扉を開けて、逃げるように屋根裏への階段を上る。その後に追いかけてきたアンリは、ラフな格好で枕を抱えていた。
「……盛大にオーレリーに冷やかされてきた。明日の朝は、覚悟しといたほうがいいかも。アイツほんと、異常なくらいに俺達のことが好きだから」
それは勿論知っている。オーレリーが僕達の事を冷やかすのは、とても愛しているからだとわかっている。意地悪ではなく、好きだからだ。それがわかるから余計にたちが悪いんだと、ベッドに腰掛けながらアンリは言った。
「オーレリーはさ、幸せを食って生きてんのかなって思ってたけど。なんか違うのかも。憂鬱を食って、幸せを吐いて生きてんだなきっと。今日だって憂鬱な少年を一人拾って来やがって、気が付いたらすっかり仲良くなってカードゲームに夢中。あれはさ、多分、オーレリーが憂鬱を食ったんだよ」
「……悪夢を食べる、動物の話を、アンリはしたことあるよね」
「バク? そう、あれ中国発祥なんだってね。こっちでは全然聞かないから、なんかそういう小さな認識とか知ってる事の違いって面白いって思うなぁ。――ああ、オーレリーってバクか。バクかな? なんかそんな、可愛らしいもんじゃないような気がしないでもないけど。悪夢食べてくれるっていうか、憂鬱を食い散らかして幸福をいらないくらい吐きだして埋もれさせる感じする」
「……今日のお客さんは、幸せになった?」
「どうかなぁ。でも、悩みは打ち明けられたみたいだよ。家庭環境とか、夢とか、そういうのもあるみたいだけど、目下少年が悩んでいたのはそれよりも、耳について離れない歌があるんだって」
恋の鳥の歌が耳に付いて離れない。そう言ったアンリはにやりと笑う。
「カルメンのハバネラを歌うクレマンさんの声が離れないんだってさ。もう、オーレリーは大喜びだ。アイツは友人の人生の幸福の匂いに敏感すぎる。あの石頭のパン屋にもむず痒い幸福を押しつけるべきだって煩い。まあ、なんだかんだいっても、無茶なアドバイスしたり、無理な事やらせたりはしない筈だから、痒い話はオーレリーに任せて逃げてきたよ」
「アンリは、恋の話は苦手?」
「うーん、どうかなぁ。他人の事にはあんまり興味無い方だけど、友達の相談だったら乗るし、幸せな惚気も悪くはないかもしれないけれど。俺今自分の事で結構手いっぱいだから」
特に今日は、と視線をさまよわせながらちらり、とこちらを窺ってくるアンリの愛おしさに、僕こそ心がいっぱいになった。
僕の部屋の電球はおんぼろで、小さい。ベッドの上で本を読むのが精いっぱいという明るさは、一人ならば気にならないのに、アンリと要ると何故かどきどきしてしまう。
暗さは夜を意識させる。朝なら、こんなにドキドキしないのだろうか。でも、朝からアンリが僕の部屋に居る光景は、たぶん、とても幸せなものだ。
そっと電気を消して、一気に暗くなった部屋の中でアンリを探す。ベッドの上のアンリはとても熱い。
僕は震える気持ちでぬいぐるみの頭を脱いだ。
「……目隠し、しなくていいの?」
「僕の顔が見える?」
「見えないけど。目が慣れてきたら、ちょっとは見えちゃうかも」
「じゃあ、後で。でも、先に。キス、していいかな」
アンリの身体が固まって、息まで止まった気がした。可愛くて、愛おしくて、僕の息も止まりそうだ。
恥ずかしいのに、怖いのに。そんなことよりも好きでたまらない。恋というのはやっぱり疲れる。こんなに大きな気持ちを抱えるなんて、疲れてしまうし大変だ。それでも好きだからどうしようもなくて、僕は数々の小説で読んだ恋する人達の気持ちを、生まれて初めて実感する日々だった。
アンリは良いと返事をする代わりに、僕の手を握った。
僕の手は緊張で汗ばんでいないだろうか。顔は、蒸れて汗臭くはないだろうか。一応そっと、顔を洗ってきたのだけれど。
僕の不安を口にするのは後にして、アンリの頬を探して手を添えた。きっと真っ赤だとわかるくらいに熱い。何度も言うけれど、かわいくて、僕はどうにかなりそうだ。
初めてしたキスは、とても熱かった。
唇は柔らかく、不思議な感じだ。何度か唇をくっつけていると、アンリが口を開いた。
暖かい舌が触れ合う。キスをしている。その事実がじんわりと、僕の頭に浸透する。
僕はキスをしたことがない。映画でちょっと見るくらいだ。だから、これであっているのかわからない。最後はアンリに任せるようになってしまって、唇が離れた時は息をするのも恥ずかしい気分だった。
慌てて、いつもの被り物をつけてしまう僕の、虫のような心臓も恥ずかしい。でもアンリは僕を笑うでもなく、がっかりするでもなく、僕にぎゅっと抱きついて死んじゃうと言った。
「幸せで死ぬ……シュクレさんとキスしちゃった……死ぬ……しんじゃう……」
「……どうしてきみは、そんなにかわいいの。僕だって、幸せで、どうしていいかわからない」
「シュクレさんは俺をぎゅっとしてくれたらいいよ。ていうかまさかちゅーされるなんて思って無かった歯磨きした後で良かった……あー……あー……どうしよう。むず痒い少年のパン屋への恋を笑えないくらい俺だって青くさいね。今ならダンスだってできそう」
バレエのステップは難しそうだけど、と腕の中のアンリは笑う。
「俺、そういえばバレエは生で見た事ないなぁ。シュクレさん、バレエ詳しい?」
「あんまり。音楽は、そんなにきかないし。バレエっていったら、ドガの絵を、ポストカードで見たことくらいしかないかも」
「あー。バレエの絵を描く人だっけ。美術館で見たような、気が、そういえば。いつ行ったんだっけなぁ美術館。フランスに来たんだから一回は見なきゃって感じで、行った記憶はある」
「僕は、本と、ポストカードでしか見た事はないけれど」
「美術館、行きたい?」
「大きい絵を、見てみたいとは思うな。でもやっぱり人混みは怖いから。いつか、きみと、深夜の美術館でひっそりとドガの絵を見たい」
真夜中に手を繋いで、と言ったら、アンリの息がつまった気がした。
……いつかきみと美術館に行きたい、というのはハードルが高い気がして、嘘をつけなくてそのままの気持ちを正直にさらけ出したのだけれど、僕は何かまずいことを言っただろうか。
不安になってそわそわとする僕の肩に額をつけたアンリは、泣きそうな息を吐いて笑った。
「……想像して、涙出るくらい素敵だと思った」
「…………昼間のカフェで、お茶を飲むなんて想像もできない僕だけど、いいの?」
「そんなのシュクレさんに息を止めて生きろって言ってるようなもんじゃんか。いいんだよ、いつか真夜中の美術館に行けるように、美術館の警備員と仲良くならなくちゃ。もしくは一日レンタルできるくらいのお金持ちになればいいのかな」
明日からも仕事頑張れる、と笑うアンリがかわいくて、僕はもう一度キスをして、死ぬからヤメテと怒られた。
僕も、彼の手を取ってバレエの絵を見れるように。来週も沢山のマカロンを焼こう。ささやかな幸福を街の人に感じてもらえたら、幸運は少しずつ僕の元に集まるんじゃないかな、とか。
そんな、オーレリーのような事を考えた。
暗闇の中で、繋いだ手と触れあった体温の愛おしさを、いつまでも感じたいと思った。
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