10 / 34

ボヌール・パン・ベルジュ

 散歩をしていたら少年を拾った。  と言った俺に、同居人のシェフは玄関先で盛大に眉を寄せた。アンリは基本的には明るく爽やかないい奴だが、仕事に追われた日やなにか嫌な事があった日は酷い顔になる。  今の顔も中々に酷かった。ただし原因は確実に俺と俺の横に居る少年のせいだろう。 「……オーレリー、今何時だと思ってんの? 俺が帰宅する時間だよ? 大概の家は夕飯も終わってるし、早い人は寝てる時間だろ。拾うのは猫と犬と他人の不幸だけにしてくれよもう……」 「そうそれだ、俺は不幸を拾ったんだよアンリ! だからそれを幸福になるべく近づける為に持ち帰って来たんだ。大丈夫誘拐にはならないさ、さっききちんと彼の自宅には連絡をした。俺が直々に頼んだからね、逮捕される心配はない」 「なんて説明したのかは訊かないことにするよ。その言葉信じるからな。で、その子何処の子?」 「一昨日おまえが話してくれたじゃないか。例の、マヌエラ夫人の教え子のバレエ男子さ」  さあリュカ、と促せば、そっぽを向いていた少年は恐る恐るといった仕草で小さな声で名乗る。普通の人間なら礼儀がなってないと怒るような態度でも、アンリは苦笑いで許してくれることを俺は知っている。  アンリは柔らかく軽やかだ。幸い今日は仕事に疲れてもいないようだし、さっきの渋面はリュカではなくこんな時間に非常識な拾いものをしてきた俺に対してのものだ。  まあとにかく入れよと招き入れてくれる彼は、最近は特に他人に優しくなったと思う。恋人の影響かもしれない。  アンリは屋根裏のムッシュと一緒に居る時は妙にそわそわと落ちつかない癖に、彼が側に居ない時はとても落ちついているし、とても世界に対して優しい。まるでムッシュ・シュクレが内に秘めて発散できない優しさを、代わりにばらまいているようだ。  二人の関係がじりじりとしたもどかしいものから、お互いに確認しあえる良好でオープンで素晴らしいものに変わったのは年明けの頃だった。俺の仕掛けた些細な悪戯で感情を取りみだしてしまったムッシュに、アンリは心底やられてしまったようだ。ただし、ムッシュを泣かせた分だと一発殴られたのは解せない。あれは手加減無しだった。とんでもなく痛かった。  クレマンに酷いだろうと同情を求めたが、嘘をつくやつは理由がなんであれ殴られるべきだと言われてしまった。  まあ、俺だってそう思う。でも、ちょっとはちょっかいを出すべきだと思ったんだ、そうだろう? なんてったって、アンリもムッシュもとても愛おしい。その二人がお互いに恋を自覚し愛を告げあったならば、きっととても幸福になれる。と、俺は信じていたんだから。  結果、俺の住むメゾン・ブーランジェの幸福は三割増くらいになった。  アンリは朝薄い日本風珈琲を淹れ、ムッシュ・シュクレは二階まで下りてきてレストランに出勤するアンリを見送る。俺は昼前に起きて、珈琲を温めてクレマンの固いパンを齧る。想像と創造を繰り返し脳味噌に浮かんだ様々な興奮を両手の中に纏める作業をしているうちに、気がつけば夜になる。適当に夕飯を作り、ムッシュに声をかけて時にはそれを分け、そしてアンリが帰ってくるまでムッシュとささやかな会話を続ける。ムッシュ・シュクレは恋人を迎える為に、夜になるといそいそと階段を下りてきた。ベッドにちょこんと座り、俺のどうでもいいような言葉の濁流に相槌を打つムッシュの愛おしさは素晴らしい。アンリでなくとも、抱きしめてしまいたくなる。ムッシュは幸福を手に入れたが、まだ、こぼれ落ちる金平糖のような寂しさを持っていた。  そのムッシュは今、一階のクレマンの厨房に居るのだろう。なんといっても今日は金曜だ。明日の土曜の為に、ムッシュはマカロンを焼いている筈だった。 「さあ少年、好きな所に腰を落ちつけろよ。春とは言ってもまだ寒い。身体も冷えたんじゃないか?」  俺が促すと、リュカは居心地悪そうに首をすくめてから窓の横の椅子に腰を下ろした。いつもは俺が腰かけ、世界を見下ろしてスケッチするための椅子だ。 「残念ながら酒はない。このメゾンの住人は皆酒にはめっぽう弱いからな。ココアか珈琲か、アンリの機嫌がよければ何かしらのスープも頼めるかもしれない」 「素直にお願いしろよ、そういうのはさ。オーレリー、飯食ったの?」 「いやあ、ソレがまだなんだ。夕方から気分転換にと散歩に出ていて、ついうっかり彼を見つけて話し込んでいたらこんな時間だ。いやぁ、こいつのダンスはすごいぞアンリ! 踊りに関しては全く素人だし、オペラもバレエもミュージカルもとんと無知だが、そんなことは置いといてもすごいもんはわかる!」 「わかったわかった、後で聞くから、落ち着けって。……災難だったねリュカ、この調子で逃がして貰えなかったんだろ。オーレリーに気に入られると人生丸々把握されて最終的に幸せのきっかけをつかめるまで離してもらえないよ。まあ、夜食に何か作るから、ちょっと煩いの我慢して、星でも見てたらいいんじゃない?」  軽やかな笑顔で失礼な事を言い捨てて、アンリはキッチンに姿を消した。 「なあ、アイツは、見た目は好青年を絵にかいたような奴なのに、まったく俺に対しては毒ばかりだろ! 確かに俺は煩い人間だが、他人を不幸にするほど自分の言葉を優先させちゃいないさ。そんなのは本末転倒だ。でも、まあ、あの外見を裏切るすっぱりとした言葉の気持ちよさが、アンリの魅力ではある」  人間の魅力は内面がすべてである、などというのは嘘だ。というか、俺はそうは思っていない。  見た目の印象と、そして中身全てが魅力だ。そしてその差があればある程、俺個人はその人間を好きになる。だって面白いじゃないか。あっと驚くギャップは、好奇心を湧き立たせる。 「例えばアンリは今見たように気の弱い青年然としている癖に、とんでもないしっかり者だ。自分の事はちゃんと自分でする。責任感が強い。そうかと思えば世界に対して異常に柔らかい。例えば一階のパン屋のクレマンは頑固に見えてそうでもない。他人の言葉を受け止めていつの間にか反映させる懐の深さがある。石頭の癖にその石は決して固くはないんだな。それが俺にはとても面白い。あとはここの住人だと、屋根裏に変人が住んでいるが……アレはまあ、色々と規格外であっと驚くことしかないから割愛する」  俺の滔々と語ると、リュカは窓に頬づえをついて唸った。 「……でも、おれはただの生意気なガキでしょ?」 「見た目はな。目つきも悪いし、姿勢も悪い。歩き方もどうにかした方がいいぞ、だらだら歩く人間はだらしないと思われがちだ。どうしたって世間ってやつはまず外見に目を向ける。だがおまえさんの踊りは素晴らしい。そしておまえさんの中身も、俺は好きさ。なんだ、ただのダンスが好きなだけの悩めるガキじゃないか!」 「悩んでなんかないよ。どうしようもないものは、どうしようもない。そうやってさ、勝手に諦めてきたから金だってないし、誇れる学歴もない。今更バレエを勉強し始める度胸だってない」 「その諦めの良さもギャップではあるな。なあ少年、そうやってうだうだとネガティブな言葉を連ねる事を、人は悩んでいると表現するんだ。悩めばいいじゃないか。答えが出ない事を考えることはすべからく無駄ってわけじゃない。人生、何が糧になるかわからない。ただ努力したって報われない事もあるし、ただ失敗しただけなのに思いもよらない教訓を得る事もある」 「つまり、どういうこと」 「思い悩む事を諦めるなということだ。口から出すという事は脳味噌にも精神にも良いと聞くぞ。思った事を諦めて無かった事にするよりも、誰かにぶちまけた方が良い」 「ぶちまける相手がいないよ。学校の奴らは嫌いじゃないけどバカばっかりだし、おれがバレエに興味あるなんて死んでも言えない。あんなチンコがもっこりする衣装が好きなのかって、ゲイ扱いされるに決まってる。毎日下ネタばっかりだ。親はおれに興味がない。話せばわかるなんて次元じゃないんだ。普通に生活して、普通に就職して、普通に生きてくれたら後はどうでもいいってカンジ。それ以外の話題には興味ないんだよ。一緒に住んでいるだけの他人ってカンジだからさ。悩んだってぶちまける人がいない」 「今ぶちまけているじゃないか。なんだい、売れない絵本作家じゃ不満か少年!」  俺が両手を広げると、リュカは微妙な顔をした。この子供はよくその顔をする。どうしていいかわからない、というような。何を言ってるんだこいつは、というような。不躾で不器用な表情だ。  器用に生きているような少年なのに、その実あまりにも不器用で、俺はそのギャップを愛さずにはいられない。これこそがリュカの魅力なのだろう。そしてそれを知る人間は、今のところ隣のダンス教室のマヌエラ夫人と、このメゾン・ブラージェの面々だけなのだ。 「話を聞く耳とそれに相槌を打つ口もある。あとは理解し対策を協議するための脳味噌だが、そうだな、まあ、ポンコツじゃない筈さ。俺は少し楽天家すぎる。アンリは少し臆病すぎる。クレマンは客観的過ぎる。三人で足して割ったら丁度いい結末だって出そうだ」 「いや、つか、なんでそんなにおれに関わるの。おれなんて、ただのガキなのに」 「俺がおまえさんに出会ったからだ。そりゃ、世界人類みなの人生を憂いではいられない。しかしだな、俺はリュカの通うダンス教室の隣のパン屋の住人だ。そして夜道で踊るおまえさんを見つけた。家に返りたくなくて、うじうじと帰路を遅らせていた少年をだ。残念ながら、俺は運命って奴を信じて崇拝してるんだ。人生を憂いでいる若いガキを見つけたなら、その行く末に口を出したいのが俺だ。諦めろよ、これは運命さ。俺がリュカに出会ったのも、リュカがそこのダンス教室に通い始めたのも、そして早朝のクレマンに出会ったのも全てね」  クレマンの話はリュカに早々に聞いていた。というか、そこのパン屋の上の住人だと自己紹介をすると、真っ先にクレマンの名前が帰って来たのだ。  あの石頭と名高い男が、早朝にピクニックをしていたとは知らなかった。俺は夜遅くまで創作作業をしていて、起きるのは昼ごろだし、アンリも比較的ゆっくりと起きて昼前に出勤する生活だ。早朝のクレマンの散歩に気がつかないのは当たり前の話だ。  オペラをたまに見ている事は知っていても、その歌を口ずさむことは知らなかった、と漏らすと、後ろからアンリの声が掛った。 「俺は知ってたよ。たまに、オペラを観に行った次の日とかは店番をしながら歌ってるからさ、クレマンさん。すごく小さな音だし、お客さんがいない時間帯だけど。わりと良い声だった」  俺の知らない情報を零しながら、アンリはでかい皿を二つ抱えて来た。俺と、そしてリュカにそれぞれ渡された白い皿の上には、湯気をたてる甘そうな黄色い料理が乗っている。甘い卵とバターの匂いが腹の空き具合を刺激する。 「パン・ペルジュじゃないか! どうしたんだアンリ、今は休日の午後じゃないぞ?」 「リュカがいるからサービスだよ。クレマンさんから貰ったパン以外に食材がなかったっていうのもあるけど。オニオングラタンスープの方が良かった?」 「いやいやとんでもない。最高の夜食だ。一口大に切れているのも恐れ入る。さすがおもてなしの国の人間だな。親切すぎて参るね」  アンリのパン・ペルジュは彼の休日の午後のブランチによく登場するメニューだった。俺もクレマンもムッシュ・シュクレも、この甘い卵液に浸して焼いたパンが大好物だ。  簡単だよとアンリは笑うが、料理ができない人間にしてみたら、卵を割るところからが試練だ。卵は割れる筈だがなぜかパン以外のものが作れないクレマンも、アンリは魔法使いの末裔だと褒めていた。  アンリは褒められると照れくさそうに笑う。俺なんてまだまだだよと謙遜しつつも、きちんとありがとうと最後につけたすから、やはりこいつはいい奴だ。 「さあ、憂鬱も何もかも一度忘れて腹を満たそう。夜思い悩むのは人間の習性だ。暗くて寒いと鬱になる。そういう時はあったかくて甘いものを食べるか、それとも一旦悩みを棚上げして寝ちまうに限る」 「……さっきと言ってること矛盾してない? 悩めって言わなかった?」 「朝悩めと言ってるんだ。もしくは腹一杯に食ってから悩め。俺は単純だからな、朝起きて太陽の光を浴びて、暖かくてうまい食事を腹いっぱいに詰め込んだら、妙に前向きになれちまう。悩むことは悪いことじゃないが、そのまま憂鬱に捕らわれちゃいけない。明るく悩め少年」 「…………なにそれ難しくない?」  俺ではなくアンリに顔を向けたリュカに、壁に寄りかかってマグカップを傾けていたアンリは苦笑いを返していた。 「こいつは大概難しそうなことばっかりほざいているけど、大概はテンションだけで喋ってるから纏めると『飯食って寝ろ』だよ。確かに朝起きると、なんで昨日あんなに泣いたのかなぁって不思議になる時あるけどさ。でも俺は、こいつの面倒くさくて気障ったらしい言葉の中で、今でもわりと信じてるもんがある」  ソレは何だとリュカが視線だけで問う。もったいつけるように、俺のまねをしながらアンリはにやりと笑った。 「『糖分は人を甘やかす』。全くその通りだよ、リュカ、とりあえず甘いパンでも食ってぼんやりしたら?」  憂鬱になるのはそれからでいいんじゃないかとアンリは言い、リュカは難しい顔で暫く皿を眺めていた。 「……ここの大人達って、変ってことしか、おれにはわかんない」 「ふはは、全く相違ない!」  俺が笑うと、リュカの固い顔がやっと少し綻んだように見えた。

ともだちにシェアしよう!