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恋の鳥とハニーサンド

 甘い声が耳に届いた。  それはイヤフォンから伝わる音楽の切れ目にかすかに聞こえた。何も考えずにイヤフォンを抜き取り、耳を澄ませる。  急に動くのをやめたせいで、心臓がどくどくと煩い。人の体温も鼓動も苦手だ。勿論、自分のものだって。  しん、と静まり返った朝の空気に、確かにかすかな歌声が混じっている。男の声だ。鼻に抜けた、奇麗な甘い声が、どこからか漂うように聞こえてくる。  音に色が付いていたらいいのに、と思ったのはこの時だけだ。どこから聞こえてくるのか分からなくて、目を閉じて煩い呼吸を落ちつかせる。冷たい空気の中、歌声は緩やかに近づいてくる。  ぼくがいるのは大通りから少し離れた裏路地の小さな広場だった。元は何があったのかはわからない。公園と呼ぶには寂れすぎているし、ただの空間の割には端にベンチが据え置かれている。  昼間は年寄り達が集まってだらだらしてるのかもしれない。ぼくがこの辺に来るのは水曜夜のダンス教室か、それとも通学前の早朝だったから、昼間のことなんてわからないけれど。  この不思議な広場を見つけたのは数日前のことだ。  ダンス教室から帰る際の、さいな寄り道で見つけたこの空間は、ぼくの早朝の練習場所になっている。  ……別に、その練習が何になるわけじゃないけど。  煩い家に引きこもるよりも、通学途中に少し踊った方が、たぶんいろいろマシだ。  気がつけば、歌声は酷く近い。  全力で歌うような声じゃない。鼻歌のような、かすかな声だ。妙に訊き覚えがあるフレーズはなんだったかと考えていると、その歌声の主は唐突に僕の目の前に現れた。  背の高い男だった。歳はいくつくらいだろう。正直、二十代ならまだしもそれ以上だと、ぼくにはみんな同じに見える。オジサンという程でもないけれど、若くもないかな、という微妙な感じだった。眠そうな目をした背の高い男は、紙袋を抱えたままぼくを見て、無表情に何度か瞬きをした。 「……ああ、失礼。こんな時間にまさか先約が居るなんて思わなくてね」 「…………あんた、この土地の人?」 「いや、ご近所の人だね。この微妙な空間は、誰の持ち物だったかな……今はすっかり、ご近所さんの団らんの場だよ。そして時折僕の朝食の場としても活用させていただいている」  座っても? と声を掛けられたので、断る理由もなくベンチに置いていた荷物を寄せた。  じっと窺うと、腰を落ちつけた男が見上げてくる。 「何だい。ああ、もしかして、お邪魔だったかな。いやそうか、邪魔か」 「……べつに、邪魔ってわけでもないけどさ。さっきの歌、なんだったかなって……」 「僕の鼻歌の曲名ならばハバネラだ。オペラ『カルメン』の名曲だね。テレビ番組でもたまに流れたりするから、若い世代も比較的知っているんじゃないかとは思うけど」 「それ、最初から歌ってもらうことってできる?」 「人に聴かせる程のものでもないけれど、それでもいいなら一番だけ」  初めて会った人間に、早朝からいきなり歌を歌え、だなんて自分でも馬鹿かと思う。それでも、驚くほどあっさり了解した男は、座ったまま姿勢を正してすうっと声を出した。  張りあげるような声じゃない。鼻歌よりは少し大きい。喋るよりは少し小さい。そのくらいのささやかな歌は甘く陰気なメロディでぼくの耳に吸い込まれる。  何語かわからない。カルメンって闘牛士の話だっけ? そうすると、フランスじゃなくてスペイン語なのかもしれない。外国語は、英語くらいしか勉強していないからわからない。  ただ、押さえた声で奏でられる歌の美しさしかわからない。  歌い終わったその人に、どんな歌なのと問えば、すました顔で恋の気難しさを歌った歌さと答えた。 「カルメンが登場する時の歌だ。恋は気ままな鳥さ、あんたが愛してくれなくたって、わたしがあんたを愛してやるよ、という訳が僕は好きだ。本来の歌よりはすこし、柔らかい翻訳だけどね。ところで、僕が歌った対価に、きみは踊ってくれないの?」 「え、なに、」 「まさかトゥーシューズが通学靴じゃないだろう。きみは、バレエの練習をしていたんじゃないかな」  正解だ。正解だったけれど、ぼくはこんな風に他人と喋ることが稀だったから、どう対応していいか考えることで精一杯で、うまく口が開かない。  別に、人間が嫌いなわけじゃない。喋るのも、嫌いじゃない。友達となら何時間だってどうでもいい話をしていられる。でも、大人っていう生き物はいつまでたっても未知で、どういう言葉を選択したらいいのかわからない。  ぼくは無知で、生意気で、敬う他人が居ないから、大人をうまく敬えない。これだから若者は、なんて言われる典型的なガキだ。それくらいの自覚はあるけれど、直そうと思えないから多分ぼくは駄目で馬鹿なガキだ。  大概の大人は、ぼくをそういうものだとして見てくる。腫れものを扱うようにそっと一歩引いている人間がほとんどで、対等に喋れる人なんて周りに居ない。  親は、絵にかいたような放任主義だ。関わりがない、と言ってもいい。ちょっと頭の良い友達が言っていたけれど、この国は子供がいる家庭は色々と得をするシステムらしい。お金とか、そういうの。  子供は多ければ多い程得をする。だから夫婦はどんどん産む。でも、その産んだ子供をちゃんと育てるかっていうとそうでもない家だって勿論ある。まあ、つまりはウチだ。  別に愛してくれなくたっていい。強がりかもしれないし、ちょっとくらいは感心もってくれてもいいんじゃないの? と思う時もあったけれど、今となっては無いモノを欲しがるなんて時間と思考の無駄だと気がついた。  愛はなくていいから少しの金が欲しい。  その金があればぼくは、せめてもう少し品性良好な高校に行けた筈だし、そうしたら学校名だけでバイトの面接に落ちることもなかったかもしれないし、バレエダンススクールに通えたかもしれない。まあこれも、全部たらればの話だからやっぱり時間と思考の無駄だった。  親に対して思う事がそんなくらいしかないぼくはやっぱりクソガキだ。そんなクソガキが、急に見ず知らずの大人に歌を歌ってくれと頼んだだけでも頭がどうかしていると思うのに、対価として踊れなんて言われてどう対応したらいいかなんてわかるわけがない。  からかわれている感じじゃない。  眠そうな顔をした男は、口ごもるぼくを暫く見つめてから、バレエはそういえばあまり見ないんだけどなと呟いた。 「有名作品が精々かな……くるみ割り人形と、白鳥の湖と、あと何が、三大バレエだったかな?」 「……眠れる森の美女。チャイコフスキーの三大バレエ」 「そう、それだ。でもやっぱり僕は、その中ならくるみ割り人形が好きだよ。金平糖の踊りなんか、静かで奇麗な曲じゃないか。トレパークもかっこいい」 「コサックダンスは流石にできないし、ていうか、おれはそもそも、ちゃんとバレエ習ってるわけじゃないし」 「でも、きみはバレエが好きだ。そうでなければ、こんな朝早くから肌寒い道端で、一人でダンスの練習をしたりはしないさ。自ら望んで踊っていないのなら、変人か狂人か、新手の自虐か苛めだろうね」 「……好きだからうまくなるってもんでもないんじゃない?」 「それはそうだ。感情に技術がすぐに付いてきたら、人は練習なんてしなくなる。好きだから練習をするんだろう。僕はスポーツの趣味もないし、芸術も観劇するばかりで自分で何かを創ったりはしないけれど、何かを成す人は、とてもその対象の事が好きか、それともただのマゾヒストかと思っている」  好きかマゾか。その言葉の響きがとんでもなくて、思わず吹き出しそうになり、慌ててこらえたのを誤魔化す為に顔をそむけてしまった。こんなの、笑ったのがばればれだ。  それを更に誤魔化す為に、ベンチから距離を取って足を揃えて立つ。かかとを引いて、腰を落とすように頭を下げてから、身体を引っ張るようにつま先で立った。  まだ本当に基礎しか知らない。世代が二周りくらい上の人間ばかりのダンス教室の片隅では、これでもきちんと教えてくれている方なんだろうと思う。あとは全部独学だ。  ロースクールの頃に初めて見たバレエは、くるみ割り人形だった。  きらきらしていて奇麗で、それなのに力強くて、テンポと調子ががらりと変わる曲と踊りに興奮した。一瞬で魅せられた僕は、すっかりバレエの虜になった。  何度か掛けあってみたけれど、バレエダンサーになんてなれるわけがないと両親は興味無さそうに言うばかりだった。まあ、確かに。学んだからといって成功するものでもないのはわかるし、正直そういうものを職にするのは勇気がいる。  それでもバレエの魔力から逃れられず、ネットや本の知識からほとんど独学でバレエを学んだ。趣味の教室とはいえ、今回バレエ教室に通えることになったのは、同じ社交ダンス教室に通う隣の家の奥さんの口添えがあってのことだった。  指導されたばかりのターンをして、ステップを踏む。身体は柔らかくていいけれど、軸が少しずれるねと、毎回注意される。それを意識すると今度は手先がおろそかになる。  何度もやれば自然と慣れるわと先生は笑うが、あと何度教室に通えるのか分からない。その内に、せめて、一曲くらいは踊れるようになりたい。  なんとなくなら、踊れないことはないんだけど。人に見せるレベルじゃない。  数秒間の簡単なステップを披露した後、お辞儀をしたぼくに、ベンチに座った人は手を叩いてくれた。 「きみは、とても軽く跳ぶものだね。素人だなんて、まったく嘘だと思う」  お世辞でもその言葉は悪くない。ありがとうと言えないぼくは、生意気に『まあね』なんて言葉を吐きだす。 「本場の人達が見たら、火を吐いて怒りそうな独学の踊りしかできないけどさ」 「バレエとは違っても、踊りには違いない。今のは何の曲の振り付け?」 「……適当に。さっきのハバネラっぽい感じで」 「それは素晴らしいね。じゃあ僕は、歌えばよかったな」  きみの素晴らしい踊りを邪魔しない程度に、と、零したその人はちらりと腕時計を見る。ぼくもこの後学校がある。いてもいなくても別に変わらないだろうし、授業なんてあってないようなものだけど、一応顔を出さないとまずい。家に連絡が行くのは面倒くさい。  荷物をまとめて上着を羽織るぼくに、ベンチに座った彼は抱えた紙袋から一つのパンを出して差し出してきた。  黒っぽいパンのスライスに、白いものが挟まれている。ペーパーナプキンに包まれたソレを思わず受け取ってから首を傾げると、眠そうな人はすこしだけ笑った。 「実は僕はパン屋でね。開店前に店から離れた場所でゆっくりと朝食を齧るのが、ささやかな日課なんだ。そのおすそ分けと言ったらおこがましいが、そうだね、きみの練習を邪魔したお詫びのようなものかな」 「バケット、じゃない? なにこれ」 「ドイツパンだよ。皆は僕のパンを固くて酸っぱくてまずいと言うけどね、僕に言わせれば食べ方が悪い。きっちり焼けたロッゲンフォルコンブロートは、スライスしてクリームチーズとはちみつをサンドするのが最高だ。休日のクロワッサンなんて目じゃない味になる」 「…………このパン、黒いけど」 「いいかい、これはそういうパンだ。もう一度言う、そういうパンだ。固くて黒くて酸っぱいドイツのパンだ。ロッゲンフォルコンブロートのクリームチーズハニーサンドイッチ」 「ロッゲン、フォ……」 「ロッゲンフォルコンブロート。同じ生地のバケットばかりのパン屋じゃ買えないからね。もしこれを気に入ったら、きみはそこの角のパン屋に通わなくちゃならない」  そんな所にパン屋なんてあっただろうか。ぼくはあんまり周りを見ないから、たぶん、本当にあるんだろう。地面と空とすれ違う人達ばかりを気にしてしまって、道の端の店なんてほとんどわからない。 「まあ、場所が分からずともこの辺で、固いパンを売っている所はどこかと訊けば一発だ。もしくはムッシュ・シュクレのマカロンを売っている店、の方が確実かもしれないけどね」 「シュクレさんのマカロン?」 「きみは、ガールフレンドは少ないのかな? 若い子の間でも彼のちょっと頭のゆるい評判付きのマカロンは、有名だと思っていたよ。機会があれば土曜の朝に顔を出してみたらいいさ。あのマカロンに変なジンクスはないと信じているが、人を幸福にする食べ物だという事は確かだから。ああ、あと一つ、言い忘れていた」  そして背の高い眠そうな人は、骨ばった手を差し出した。 「僕はクレマンだ。マロンクリームの有名な会社と同じ名前だから、忘れそうになったら栗のペーストを思い出せばいい」 「……リュカだよ。うちのマロンクリームは、瓶の蓋がチェックの奴だった気がする」 「残念だな、それはボンヌ・ママンだよ」  恐る恐る握ったクレマンさんの手は見た目通り骨っぽくて、見た目よりもずっと暖かくて、甘い歌声を思い出したぼくは何とも言い難い羞恥になぜか襲われた。  恋は気ままな鳥さ。  あんたが愛してくれなくたって、わたしがあんたを愛してやるよ。  そんな風に歌う女は、たぶん、自意識過剰で嫌な女だ。でもこの歌は奇麗だし、格好良いし、たしかにこの訳も悪くは無い。  気ままな恋の歌を踊れるようになるまで、何日練習したらいいだろう。まずは、カルメンの曲を探さなくちゃいけない。先生はオペラのCDも持っているんだろうか。カルメンって、バレエでもなかったっけ?  なんて考えている頭の隅で、ずっと、あの甘い声のささやくようなハバネラがうっすらと鳴り響いていた。

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