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水の踊りとブリオッシュ
「あら、今日はかわいい子が店番なの?」
入ってくるなりそんな声を上げる人を数えるのは、最初の三人で諦めた。主が言う程寂れてはいないパン屋『シュミネ』の午後は盛況で、入れ替わり立ち替わり御近所の主婦が訪れる。朝が一番忙しいけれど、主食がパンであるフランスでは夕方の買い出しでもやっぱりパン屋に寄るようだ。そのほとんど全員に、今日の店番はアンリなのかと言われる。余所余所しい目で遠くから見られていた頃に比べたら、俺も溶け込んだもんだなって思うから、別にいいんだけど。
いつもだったらレジに居る筈のクレマンさんは居ない。代わりにスツールに座るのは休日の午後を怠慢に過ごしていたシェフ見習いの日本人である俺だった。
「かわいくないでしょ、二十六歳だよ俺。看板娘になるにはちょっと歳取ってるかなぁ」
「石のクレマンさんよりはマシじゃない? まあ、彼は見た目ほど怖い人じゃないって、皆知っているけれど。その石頭さんはお出かけ中なのかしら」
「もうすぐ戻ってくるよ。ちょっとオペラのチケット買いに出てるだけ。なんとかって団体のなんとかっていうなんかいめかのオペラでどうしても見たいんだって珍しく頭を下げてくるもんだから、暇な非番のシェフはブリオッシュ三個で買収されたの」
「それは仕方ないわ。クレマンさんの趣味と、シュミネのブリオッシュの為なら私だってその椅子に座りたい」
上機嫌にくすくすと笑うマヌエラさんは、隣の社交ダンス教室の講師だ。
すっと奇麗な姿勢を保つ長身のご婦人で、指先まできっちりと伸びている感じがする。歩き姿は一片の隙もない。それなのに笑うとチャーミングでとても陽気な人だから、彼女を知る人はみんなマヌエラさんを愛していた。
なんでも昔はバレエをやっていたらしい。端役がせいぜいよと笑う彼女は今でも時々、旦那さんとバレエを観たりしているようだ。俺は芸術って言っても映画が精々だし、それもハリウッド映画とかばっかりだから、オペラのチケットを買いに走るクレマンさんや、バレエ鑑賞が趣味のマヌエラさんは別次元の人間だと思ってしまう。
たぶん、このメゾン・ブーランジェに住む人間の中で、一番芸術に無頓着なのが俺じゃないかなぁと思う。
一階のパン屋のクレマンさんは頭が固いと言われるけれど、趣味はオペラ鑑賞と読書だ。詩集なんかも読んでるし、時折結構いい声の歌声が聞こえてきたりする。
二階の住人、つまり俺の同居人であるオーレリーは絵本作家だ。絵本というけれど、その絵は結構独特なタッチで、系統的には大人の絵本ってやつに近い気がする。時折窓の外の風景や道行く人達をスケッチしているのを見かける。オーレリーのスケッチブックは写実的で、美術学校の生徒のデッサン帳みたいだった。本棚には油絵のポストカード集が収まっていたりする。話をつくる事も好きらしいが、やっぱり絵が好きなんだろう。
そして屋根裏部屋に住む、というか最早引きこもっていると表現した方がいいようなジャン=クロード・サレ氏ことシュクレさんの作るマカロンは、それこそ芸術そのものだ。
味は勿論、見た目も素晴らしく美しい。お菓子作りだって、料理だって、美的センスは必要だ。いくらうまい飯が作れても、盛り付けがひどければうまそうな気分も台無しになる。
三年前にフランスに渡って来た俺も、一応はシェフのはしくれだけど。どうも、芸術的なセンスがアヤシイことに気が付きはじめた。
家庭料理レベルなら最低限それっぽく見せることはできても、独創的で美しい、みたいな感じのアートが出来ない。
比較的よく指導してくれる上司のナタリーは、魔法のように奇麗な料理を作る。勿論同じものを同じように作れ、と言われたら俺にだって再現できる。でも、一から作れと言われるとてんで駄目で、オーナーには苦笑いされるくらいだった。
もっと芸術に触れたらどうだ、なんてオーレリーは適当な事を言う。そんな事言っても美術館に行く金があるなら練習用の食材を買いたいし、一般無料の日は大概仕事場に居る。その余裕の無さが、芸術から遠のく第一歩だとオーレリーが笑うんだと愚痴ると、俺の話をにこにこ聞いていたマヌエラさんはチャーミングに口の端を上げた。
「そうね、確かに美術館は、そこに辿りつくまでの交通費も大変ね。映画みたいにどこでも見れるわけでもないし、こっちから出向かなきゃいけない。芸術の都の美術館は、いつだって世界中の観光客でいっぱいだわ」
「それもなぁ……人は嫌いじゃないけど、できれば一対一がいいよ。大勢いると疲れちゃうし、沢山の人は仕事場だけでお腹いっぱい」
「あら、若いのに消極的じゃないの。好きな子の手を引いて、芸術の都を堪能してくるのもまた素敵だと思うのだけれどね。じゃあミュージカルは?」
「チケット高いでしょ知ってるよー。いやまあ、出せない額じゃないけど。残念ならが俺の好きな子も、人混みは苦手なの」
実際は人混みどころか、人前に出ることすら絶対にしないんだけど。まさか、恋人は覆面を取らないひきこもりでしかも男だなんて告白する気もないので、適当にはにかんで早くパンを選びなよと促した。
この話題に興味を失った振りをしながら、外に出た恋人の様子を想像しようとして三秒で挫折した。
恋人っていうのも恥ずかしい。付き合っているのかって言われたらちょっとよくわからない。お互いに好きだと伝えたけれど、俺はまだ彼の手を握ることくらいしかしていない。キスなんてもってのほか、というか。
(……できるのかな、キス)
恋人の、にっこり笑った布の口にお遊びみたいにキスしたことはあるけど、その中の本人に辿りついた事は無い。
顔の見えない相手に恋をしたって変じゃないだろ? だって、文通とかネットとか、そういうので恋に落ちることだってあるだろ?
なんて、言い訳みたいに考えるけれど、ほとんど一緒に暮らしているようなものなのに素顔を見た事がない恋人っていうのは、やっぱり、かなり変だろう。
別に彼の素顔が観たいとは思わない。ちょっと気にはなるけど。なんかもう、あのにっこり笑った布の被り物が定着しすぎて、そういうもんだと思ってきている。
人前で顔を出すのだってイヤなあの人が、真っ昼間に往来に立つなんて自殺行為だ。俺もオーレリーもクレマンさんも、彼の事が大好きで、本来なら引きこもっていないでちゃんと外にでなきゃって説得とか治療とかしないといけないのかもしれないけれど、なんかもう好きすぎて今のままでいいんじゃないのと思っている節がある。
嫌だって言ってるんだし良いんじゃないの。だって彼は自分の生活費は自分で稼いでいる。誰にも迷惑をかけていない。
金曜日の夜にマカロンを焼いて、土曜日にそれをクレマンさんが売る。その後一週間はひたすら部屋に籠って過ごす。時折二階に降りてきて、俺のフランス語の練習に付き合って一緒にDVDを観たり、絵本を読んでくれたりする。
そんなシュクレさんの生活は一般的には変だろうが、同居している俺達がそれで良いって言ってるんだから、誰にも文句は言わせないと思っていた。
別に、昼間往来で手を繋げなくたっていい。シュクレさんは、少し寒い夜にこっそりと暗い部屋で手を繋いでくれる。金曜の深夜にこっそりと作りたてのマカロンの味見をさせてくれる。その幸福は、たぶん、昼間の美術館の逢瀬よりも特別なものだと思う。
今も彼は屋根裏部屋でぼんやりと世界を見下ろしていることだろう。
四時を過ぎたらクレマンさんが帰ってくる。そうしたら俺は報酬のブリオッシュを三つ持って、少し濃い珈琲と一緒に休憩時間を味わうと決めている。
クレマンさんはドイツ出身で、ドイツパンを好んで食べるし店の隅には必ずドイツパンが並んでいるけれど、この店の一番の売り上げは定番のバケットと、甘く小さいブリオッシュだ。
クレマンさんのドイツパンは固くて酸っぱいけれど、クレマンさんのブリオッシュは甘くて柔らかくて幸せの味がする。それはこの辺の常連がからかうように言う言葉だった。
俺もその言葉に頷かざるを得ない。ドイツパンはドイツパンで面白くて好きだし、あれにクリームチーズとはちみつをサンドしたクレマンさん特製サンドイッチは一度食べたら忘れられない味だけど、ブリオッシュだって中々のものだ。
売れるから仕方なく作っている、だなんてクレマンさんは顔を顰める。それがなんだか面白いから、街の人達はクレマンさんをからかうようにブリオッシュをこぞって買う。本当においしいっていう理由もあるけれど。彼が愛されて弄られているから、という要因もあるんだろう。
そんな俺の内心を知らない筈のマヌエラさんは、暫く迷った後に小さなブリオッシュとバタールを持ってレジに戻って来た。
「やっぱい、シュミネに来たらブリオッシュを買わないと」
「……それ、今日の最後のブリオッシュだよ。また一番先に無くなったのはブリオッシュだってクレマンさんが眉をしかめる」
「それを実際に見れないのが残念。でもそういうちょっと可愛いところが、石のクレマンさんが愛されてるポイントなのよね、きっと。ねえアンリ、彼、結構モテるのよ? うちの生徒さんも、何人か常連になってるくらい」
「え、初耳。それはパンの味の常連じゃなくて、クレマンさんの常連ってこと?」
「お店の店員さんに恋をしたら、買いものをしに通い詰めるのが一番早いじゃない」
「それは、確かに」
俺だってシュクレさんがマカロン屋の店員だったら、毎日マカロンを買っていただろう。
確かに、クレマンさんは背も高いし、姿勢も良い。細いからシルエットもかっこいい。歳は三十いくつだって言ってたかなという感じだから、妙齢の女性達にしてみれば、わりとアリなのかもしれない。
クレマンさんは表情も変わらないし同じテンションで滔々と喋るから、ちょっと初見は怖いと思ってしまう。けれどあの人は真面目できっちりしていて、ジョークも通じる素敵な大人だ。それに気がついた人は、案外ころっと恋に落ちてしまったりするのかも。
「面白い話聞いちゃったな。今度店番のバイトをする時は、クレマンさんの代わりにいる俺を見てがっかりする女性が何人いるか、ちゃんと目を凝らして見てなくちゃ」
「片手で数えられるかしらね? うちの教室に直に見に来てもいいのよ?」
「……それ、勧誘? 俺、芸術も駄目だけどスポーツはもっと駄目だよ? 社交ダンスってこう……すごく姿勢が大切って聞いたし。わりとしんどいって話だし。俺、マイムマイムだってやっと踊れるかどうかってカンジなんだけど」
「マイムマイム?」
「……あ。あれってこっちの方の曲じゃないの? え、どこの民謡だったかな。ええと、日本でよく子供たちが踊ってるフォークダンスだよ。俺が踊れるのはせいぜいそのくらい」
「フォークダンスは教えないけど、去年から社交ダンス以外も教える事になったの。勿論、講師の得意分野しかカバーできないし、真剣な教室程本格的じゃないけれど。趣味で嗜むくらいなら、っていうコンセプト」
「へー。マヌエラさんはバレエ?」
「あたり。もう身体が忘れちゃっててね、慌てて夫と眠れる森の美女を観に行ったわ。まだ生徒は二人だけど――。そう、そういえばね、その内の一人が、ちょっと、気になる子で」
教えられたようにパンを紙袋に包み、会計をこなしながら首を傾げる。マヌエラさんは少しだけ視線を下げて、憂いを帯びた顔で言葉を選んでいた。
「高校生くらいなのだけれど、男の子で……いえ、男でバレエがっていうのが変ではないの。沢山いるわ。そういう芸術だもの」
「何、ちょっとやんちゃなの?」
「やんちゃといえばやんちゃだけれど……練習中は素直だし、言う事はきちんとやるわ。態度じゃないの、その子ね、素晴らしく才能がある気がするの。私は専門家じゃないし、ちょっと昔バレエをやったことがある素人だから、こんなものは勘以外の何物でもないんだけど。こんな小さな町のおばさんが趣味で教えるダンス教室じゃなくて、もっとちゃんとした所に行った方が良いと思うのよね。でも、学生ならそういうのは保護者の方にも相談しないとだろうし、簡単に部外者がもっとお金をかけた施設に通わせるべきでは、なんて言うのものでもないし、と思って」
「あー……なんとなく、状況はわかったけど。それ、本人はどうしたいって言ってんの?」
「うーん、喋らないのよねぇ、あの子。悪い子ではないんだけど、なんていうか。諦めちゃってる感じ、かしらね」
「あー……」
なんとなく俺の頭の中に、醒めた現代っ子が浮かんだ。世界全部に絶望してるような、ちょっと中二病引きずっているような現代少年。この妄想は、あながち間違っていない気がする。
「周りがおじさんおばさんや女の子ばっかりだから、話相手が居ないだけなのかもしれないと思って。ねえアンリ、無理にとは言わないけど、暇な日があったらちょっとだけ覗いてみてくれないかしら。勿論、貴方が彼の悩みを聞きだして、なんて無茶な事は言わないわ。私、あの子にもっと笑ってほしいのよ」
「え、いや、俺でよければ、まあ顔を出す位は……じゃあ今度、料理の試作品が出来たら教室にお邪魔するよ。マヌエラさんのバレエ教室は何曜日?」
「水曜日の夕方から。ああ、それと、オーレリーはどうかしら、彼、子供の事が好きでしょう?」
「オーレリーは子供と言わず世界人類のことが好きで好きで仕方がない奴だよ。水曜日に俺が非番だったら、オーレリーにも声をかけてみることにするよ。でも、俺で力になるかな? 俺は甘いブリオッシュも焼けないし、恋が実るマカロンも作れないし、愛される絵本も描けないただの見習いシェフだけど」
「誰しも自分の魅力にばかり気がつかないものよ。アンリは、いつだって地面を見据えてちゃんと歩いている感じがいいの。ちゃんと歩いているのに、他の人の手もきちんと取って気づかってくれるから、貴方の周りは居心地がいいんだわ」
「……ありがとう。すごく褒められた気分で照れくさい。俺がここの主人だったら、ブリオッシュ一個おまけしてたくらいだよ」
「まあ、それは残念。褒められ慣れてないのも可愛い所ね。うちの教室の女の子が貴方の事もよく訊いてくるけれど、とても素敵な恋人が居るらしいって断ることにするわ」
それはちょっと有り難い。ゲイの俺は、女の子に告白される度にひどく申し訳ない気持ちで断る口実を探すしかない。それほどモテてはいないけれど、自衛はするに越したことはない。
でも俺なんて本当に役立ちそうにないけれど。これはさっさとオーレリーに相談する案件だなぁと思案していると、マヌエラさんが袋を抱え直して笑った。
「ありがとうアンリ。この街は、優しい貴方が大好きよ」
貴方と貴方の好きな人が、明日も素敵なダンスを踊れますように、と。ダンス講師らしい軽やかな台詞と笑顔を残して、マヌエラさんは店を出た。
「……やあ、アンリ。今そこでマヌエラ夫人と……アンリ、どうかしたの?」
入れ替わりに帰って来たクレマンさんに話かけられてもまだ、妙なむず痒さと暖かにそわそわと落ちつかない気持ちのまま顔を手で覆っていた俺は、おかえりと声を出すのもやっとだった。
「何だい、マカロンの甘さでも思い出して悶えているのかい?」
「…………真剣に愛されるって恥ずかしいなって身を持って実感しているとこ」
「うん、まあ、そうだね。そうかもしれないけれど。マヌエラ夫人お相手に?」
浮気じゃないよと声を絞り出すと、分かっているよときっちりした声がパン屋に響いた。
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