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ミモザとショコラ
正直なところぐったりだ、と告白すれば、電話の向こうの彼女はいつものようにささやかに笑った。
『あなたってば、一年の内大半はぐったりしているじゃない。つまりいつも通りってことね』
少し硬い表情にちょっとだけ零すように笑う、彼女の笑い方がとても好きだから、僕は肩と腰にのしかかるような疲労が少し軽減されたような気がしてしまう。
「いつもどおりの訳がないよ、本当にいつもの五倍はぐったりしているんだからね。僕は母がボランティア活動に誘われてちょっと一週間南フランスに行くことになった、なんて聞いたからあわてて休みを作ってバスの予約をしたんだよー。それが着いたらびっくり、親戚の引っ越しの手伝いから始まって、結局ミモザ祭まで付き合わされてほんともう、花なんてしばらくこりごりだ……」
『花屋さんが花なんてもうまっぴら、なんて言うもんじゃないわよ。私もそうね、たまに料理なんてもう見たくもない、と思うときもあるけど。大体二日もすれば恋しくなる』
「きみはなぁ、料理を愛しているからなぁ……僕は実家を継いだだけだし……」
『その割にはいつだって楽しそうに花に囲まれているじゃない。私は確かに料理を愛しているけど、あなたのことだって、そのー……愛している。一日連絡が取れないだけで、びっくりする程恋しくなるのだから不思議。毎日会ってるわけじゃないのにね』
思いもよらず甘い言葉を食らって僕は、うっかり携帯を持ったまま街灯にぶつかりそうになる。
ナタリー・マルタンは笑わない、なんていう噂はきっと嘘だ。確かに彼女はあんまり感情が表に出ない人だけど、ものすごく愛情深くて可愛い。
彼女の思いの外直球な愛の言葉に飛び上がりそうになって前方付中になった僕は、ミモザの花冠を被った女の子たちに思いの外不審な目を向けられ、慌てて笑顔で携帯を持ち直す。
『……どうしたの?』
「え。いや、ええと、別に……いや本当の事を言うと、ナタリーがあまりにも可愛い事を言うからびっくりして、街灯にぶつかりそうになった」
『…………そういうのは目の前でしてちょうだい。ぜひそんなかわいい貴方を見たかった』
「嫌だよ、恥ずかしい。せめてきみの前では格好をつけた男でありたいのにまったく、いつだって僕は残念で嫌だな……。とにかくやっと明日帰れそうだよ。クレマンには土産は花でいいなんて言われたから、嫌味のようにミモザを箱いっぱいに贈ってやったけど、きみは何がいい? ハチミツの小瓶ならどこに行っても山ほど売ってるけど、ハチミツきらいだっけ?」
『調味料はみんな好き。ハチミツを好んで飲むことはないけど、嫌いじゃないわ。でもこの季節なら、クーベルチュールが嬉しいかも』
「あー。きみ、夜のカフェでショコラ・ショー飲んでるものね。あれ、格好良いなぁって思うよ、僕なんかカフェにほとんど寄らない人生だ」
『夜じゃなくてもショコラ・ショーを飲むのは好きよ。新しいお店を開拓するのも好き。ところで今日のあなたは濃紺のジャケット?』
「……そうだけど。どうしてわかったの。エスパー?」
『超能力が使えたなら他人の頭の中を覗くよりも、テレポートが出来るようになりたいわね。そうしたら移動も一瞬。でも、電車の旅も久しぶりで楽しかった』
「…………きみは今どこ?」
『あなたの目の前』
地面を眺めていた目線を上げる。街はどこもかしも黄色い花だらけで、正直ちょっと目に痛い。目に痛い黄色い景色の中で、深い赤色のコートの女性がテイクアウトの紙カップを掲げて、ひらひらと手を振っていた。
それはどうみてもナタリー・マルタンその人で、僕はまた花で飾られた街灯にぶつかってしまいそうになる。
「…………うっそ」
「ほんと。それとも嘘が良かった?」
「え、うそ、いや違う嘘じゃないといい。嘘じゃないと良いけど、だって、きみ、仕事は……」
「アンリが代わってくれたの。しばらく休んだからいいよって。去年まではスープしか任せられなかったのに、もうメイン以外は大体こなせるようになったんだから、とんでもない進歩だって感動しちゃった。……ごめんなさい、ええと、あなたを困らせるつもりは全くなかったのだけれど、ちょっとミモザ祭のついでに、顔でも見れたらなって思っただけで……」
「連絡してくれたらよかったのに! って思ったけど駄目だ、連絡もらったら僕はそわそわして寝れなかったしうちの母さん含めてお祭り騒ぎになるところだった!」
「だと思ったの」
「宿は?」
「日帰りよ。ちょっとした一人旅だもの。ハチミツと、クーベルチュールを買って、あなたの顔を見て帰る旅」
そう言って涼しい顔をした年上の女性は、手に持ったカップを傾げる。きっとその中には、ナタリーお気に入りのショコラ・ショーが入っているんだろう。
「……オーケーナタリー、一人旅のついでにさ、うちの母にぜひ挨拶していって」
「え。……待って、せめてお化粧を直させて」
「今日もきれいだよ! 先週のミモザ女王選挙に出たらきみが絶対に一番だ!」
「相変わらず目が濁ってるわフレデリック……でも、褒められたらありがとうって言わなきゃだめね。パン屋の住人に怒られちゃう」
ありがとう、でもお化粧は直させて、とナタリーは笑う。僕はその冷たい手を取って、彼女を温めるように握り直して笑った。
見上げれば店の看板からミモザが揺れる。
黄色い花の中で、僕はすっかりこの一週間の疲れを忘れて、ミモザってかわいい花だよねなんて都合の良い事を考えた。
麗しい黄色い花は二月の終わりを知らせて咲き誇る。
来月の休日には、仕事帰りのナタリーと落ち合ってカフェでショコラ・ショーを飲むのもいい。カフェは苦手だけど、ナタリーが一緒に居てくれたらきっと僕は何処にだって顔を出せる筈だ。
一口飲む? とナタリーがカップを掲げる。ありがたくほんの少し口に含んだチョコレート味の飲み物は少しだけぬるく、甘く麗しい匂いがした。
END
同人誌『麗しくのど越しの良い二月』より
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