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過ぎ損ねた二月の祭

「水っ腹の二月だった!」  いつもの午後、いつもの月曜日。すっかりいつも通りに戻ったブーランジェの二階で、すっかり元気を取り戻した絵本作家は大げさに喚く。  三日前まで屍のようだったのだから、元気に喚けるようになって良かったとは思うけど、久しぶりの友人の声のデカさについつい苦笑を漏らしてしまう。 「俺達は己の事を完璧なロボットだと思いがちだな。実際はどうだ、こんなにもろい生き物はない! 肌はむき出しで、毛布にくるまれなきゃ凍えて死んじまうくらいに貧弱だ。そして健康を損ねると、固形の食い物を腹に詰める楽しみを奪われちまう。シェフがダウンした二月も、病人食ばかりの二月ももうこりごりだ。炭酸抜きコーラもだ!」 「ああ、まあ……あれはちょっと甘すぎる飲み物だけど、慣れればそれなりにうまい病院食じゃない?」  軽く笑った俺は、いつものテーブルに黄色いテーブルクロスをかけた。  クレマンさんがどっかから引っ張り出して来た布は、柔らかい色のチェック柄だ。殺風景な部屋が、急に春らしい色になる。インテリア雑貨に興味のない俺とオーレリーが暮らす部屋なんて、殺風景で当たり前だ。たまにみんなでお茶を飲む時だけは、何となく花を飾ったりテーブルクロスを敷いたり、殺風景を誤魔化す抵抗をしてみたりもする。  いつの間にか二月の終わりは、すぐそこに迫っていた。  外はほのかな春を予感させる麗らかな日差しに満ちている。今年はやたらと寒くて空気が乾燥していて、街の人たちは誰しも咳をしていた。  久しぶりにウイルスにやられた俺は、二月の半ばの週を丸々、屋根裏部屋で過ごした。そしてその後オーレリーが風邪にやられてしまったものだから、今度はオーレリーが屋根裏部屋に引きこもる事になった。  シュクレさんにはすごく迷惑をかけた二月だった、と反省する。  自分の部屋から追い出されて二階で生活することを強要された彼には、たぶん俺たちが想像している以上の心労を吹っ掛けたのだと思う。  去年の二月はそういえば、オーレリーの誕生日を祝う会をひらいた。正式には忙しい二月をねぎらう会だったけれど、まあ半分くらいは誕生会が目的だったし、俺の中ではバースデーパーティだったと記憶している。和やかで、穏やかで、涙のせいでちょっとだけ湿った愛おしさに満ちた二月だった。それに比べると、今年のなんと味気ないことか。 「ところで今日は何の会? オーレリーの誕生会?」  テーブルクロスをきっちりと敷き終えた俺は、カーテンもきっちりと開ける。言われたとおりにケトルには湯を満たしてあるし、カップも五つ並べた。俺に任された準備は完璧だ。 「馬鹿を言うな、毎年わざわざパーティを開く程の大物じゃない。俺はただの口うるさい絵本作家であって、おまえたちの時間を自分の記念日の為に奪ったりはしないさ」 「おめでたい事は積極的に祝ったらいいと思うけど。何でもない日万歳じゃない?」 「なんでもない日はいっそめでたいとは思うが、残念ながら今日のお茶会は俺のバースデイとは無関係だ。無関係という事にしてくれ。あんな涙で枯れるサプライズ、あと十年はごめんだ。俺は祝われるよりは祝いたい。どうしても午後のお茶会に名目がほしいというのなら、そうだな……過ぎ損ねた二月の祭りなんてどうだ?」 「過ぎ損ねた二月?」 「だって俺達は今月一体何をしていた? ヴァロンタンも騒がず、カーニヴァルにも出かけず、静かに引きこもっていただけじゃないか! 世間はすっかり二月を満喫しているっていうのに、俺達は気がついたら三月が目の前だ」  確かに、今年の二月はいつの間にか過ぎてしまった。  サン・ヴァロンタン中の多忙さまでは記憶がある。けれどその後俺もオーレリーも寝込んでしまって、気が付いたらもう二月なんて数日しかない。  二月の行事って、ヴァロンタン以外に何があったっけ?  日本ではバレンタインと節分くらいしか行事はないような気がする。でも春が早い南フランスでは結構祭が多い筈だ。ニースのカーニヴァルも二月だし、どこかの映画祭も二月だった気がする。俺は基本的に遠出をしないから、南フランスには詳しくないけれど。  そういえば、フレデリックは今南フランスに居るんだっけ。久しぶりに通りかかった花屋の扉には、しばらくお休みしますという旨のメモが貼りつけてあったけど。  そうこうしているうちに、二階の外付けのドアが軽くノックされた。軽く静かな足音はクレマンさんで、何度注意しても馬鹿みたいに煩い足音はリュカに違いない。  招き入れた二人は両手いっぱいに黄色い花を抱えていて、ちょっとだけ甘い匂いを纏っていた。 「やあ、待たせたねアンリ。テーブルの準備は出来ている?」 「勿論。なにそれ……ミモザ?」 「そう。麗しい二月の花だ。フレデリックから山ほど届いた。土産はいらないから、店に飾る花でも送ってくれと言ったらこの有様だよ。彼は今マンドリュー・ラナープルにいるらしい」  黄色い花をどっさりと渡されて慌てる俺の後ろから、オーレリーが馬鹿でかい声を上げる。 「マンドリュー・ラナープルのミモザ祭か! ああ、確かにこの時期だった気がするな。花の祭りだなんて地味だなんて思っていたが、この鮮やかな黄色は圧巻だ! 確かに、浮かれて騒ぎたくなる」  芸術とか伝統とか、実は無関心な俺はこの時初めてマンドリュー・ラナープルのミモザ祭の事を知った。イルミネーションパレードから始まる黄色い花に満ちた祭は、一週間近く続き、田舎町はミモザとハチミツの香りに満たされるらしい。  丸い飾りのような黄色い花と、ハチミツのお祭り。それは想像するだけで甘く、明るい春を連想させる。  二月なんて言ったら日本じゃ豪雪の時期だけど、フランスではもう春の祭りが始まる時期なんだなーと思うと、地球の広さを地味に実感してしまう。 「ここは南フランスじゃないし、まだかなり寒いけれど、まあ春ぶってミモザを祝ったらいいじゃないかと思うよ、僕はね。さあリュカ、思う存分ミモザを飾ってくれ。相変わらずキミたちの部屋は殺風景だな、まるで男の二人暮らしじゃないか」 「男の二人暮らしで相違ないだろう。いや、三人か。三人暮らしだとしても俺達は見目麗しい季節の花を飾らなくても、心は満たされているからインテリアの色なんてどうでもいいのさ。散らかるよりは閑散としていた方がマシだ。おい待てリュカそっちは俺のベッドだ、枕元に花を散らすんじゃない! 俺の寝床がフローラルになっちまう!」 「新作絵本はミモザに囲まれた煩い男の話にしたらいいよ。アンリはハチミツ入りのヴァン・ジョーを……と思ったけれど、ワインは僕が暖めようか。料理が出来なくても、飲み物くらいは用意出来る。キミはもう一人の同居人を呼んできて。ワインがうまく温まるまでに降りてきてくれたらいいよ」  ついでに屋根裏も黄色く彩ってやれ、とミモザを一束持たされる。明るい色の花咲く枝を手に、俺はすっかり慣れた梯子の上に送り出された。  今日は午後からクレマンさんとリュカが来るよ、と伝えた時、シュクレさんはいつも通り、のっぺりとした笑顔の張りつくぬいぐるみの頭を被っていた。  被っていたから、とっさに笑ったのか、顔を顰めたのか、正直俺にはわからない。  でも少し言葉を探した後に、『みんなと一緒にお茶を飲むのは、楽しいから好きだ』と言った言葉に嘘はない筈だと俺は信じることにした。 「シュクレさん?」  屋根裏部屋は暗い。屋根裏部屋は寒い。でも、少し寂しいこの部屋が、実のところ結構好きだ。シュクレさんの静かでちょっと寂しい性格そのままの、落ち着いた空間だ。  俺の声に反応して、ベッドに腰掛けていたシュクレさんは顔を上げた。いつもどおりの、何を考えているかなんてさっぱりわからないぬいぐるみの顔が笑っている。大きな目と、にっこりと笑った口。 「……みんな揃ったね」  屋根裏部屋は二階の音がよく聞こえる。いつもシュクレさんは一人で静かに過ごしていると思っていたけど、実は結構騒々しい世界に居たということを、この寝込んでばかりの二月に知った。  ブーランジェの二階は、俺達が思っていた以上に騒がしい。 「今からクレマンさんがヴァン・ショーを作るって言うけど、シュクレさんも飲む? ちょっとストローでは辛いかもしれないけど……」 「飲みたい。……けど、冷めちゃうと、おいしくない?」 「暖かい飲み物だからね。もしクレマンさん特製のヴァン・ショーじゃなくてもいいなら、夜にでも俺が作って届けるけど」 「……それはアンリの、手間じゃない?」 「手間じゃないよ。どうせ夕飯は作るしさ。じゃあシュクレさんには後で……あ、これ、フレデリックからの土産だってさ。過ぎ損ねた二月の思い出。つっても誰も、ミモザ祭の思い出なんか持ってないんだけど」  遠い街で行われている黄色い花の祭りの事はよく知らない。それでもなんとなく、浮かれた気分をお裾分けしてもらった気分になる。  ミモザの枝をサイドテーブルに置いて、俺はシュクレさんの隣に腰掛ける。クレマンさんがワインを温めている間は、ちょっとゆっくりとしてもいいだろう。 「あっという間に、二月終わっちゃったな。歳を取ると一年がほんと速いけど、最近は一か月もサクサクすぎちゃうよ。……ぼうっとしてたらすぐにじいさんになっちゃいそう」 「……アンリ、あの」 「うん?」  目を瞑って、という声が小さく耳に届く。  急にどうしたの? なんて言う事はなくなった。シュクレさんはちょっと不思議なテンポで生きている。だから俺は別に何の疑問もなく、言われたとおりに目を閉じる。  目を閉じると急に耳から入ってくる音が敏感になる……気がする。  オーレリーの捲し立てるような声。やっぱり煩いリュカの足音。クレマンさんが、かちゃかちゃと食器を探す音。その中に混じって、隣のシュクレさんが何かごそごそ、動いているような衣擦れの音がする。 「目を開けないでね。……ええと、本当は……開けても、いいけど、でも……僕はやっぱりまだ、自信がないし勇気がない」 「……シュクレさん?」 「もうきみは風邪をひいていないから。もう、アンリもオーレリーも、いつもみたいに健康だから。……キスをしてもいい、よね?」  唇に触れたのは、ぬいぐるみの表面じゃない。人間の暖かい唇の感触で、俺はびっくりしてぎゅっと目を瞑ってしまう。  今目を開けたら、シュクレさんの顔が見えてしまう。薄暗いといっても、今は月曜の午後だ。いつもみたいに暗闇の中じゃない。  きっとシュクレさんは、俺が目を開けても怒らないんだろう。そう思うけど、俺は結局ぎゅっと目を瞑ったまま、薄く口を開いてシュクレさんの洋服を掴んだ。  キスは昔からちょっと苦手だった。嫌いじゃないけど、うまくできてる自信がない。けれどシュクレさんとするキスは、苦手とか得意とかじゃなくてなんかもう、うわーってなるから駄目だ。熱い。気持ちよくて嬉しくて恥ずかしくて、熱くてぼんやりしてしまう。 「………………、ん………あ、あの……シュクレさ、……」 「……アンリ、かわいい……」 「あの、それはこっちの台詞……あの、ええと、ほら、下行かないと……」 「うん。……あのね、アンリ」 「は、はい」 「…………たまには、別に何もなくても。誰かが風邪をひいてなくても、リュカが泊りにきてなくても。僕の部屋に、泊って行ってくれる?」  そんなかわいくて俺がうわーってなっちゃうようなお願い事をされるとは思っていなかった。  思っていなかったらびっくりして、思わず目を開けてしまいそうになって、慌ててぎゅっと瞑る。シュクレさんは俺をぎゅっと抱きしめたままだ。 「…………ええと、もちろん、そりゃ……シュクレさんがいいなら、俺はいつでも、そのー……遊びに、来ちゃうけど」 「ほんと?」 「ほんとだよ。だって俺、あなたの事が好きだし。……この部屋も、結構好きだしさ。シュクレさんのベッドの寝心地も、ぎゅってされて寝るのも幸せで好きだよ」  目をぎゅっとつぶったままだと、どこに何があるのかさっぱりわからない。わからないけどわからないなりにがんばって、目の前の人の顔にあたりをつけると思い切ってキスをした。 「……みんなと一緒に、二月にサヨナラしようか」  麗しく、喉越しの良い飲み物ばかりだった二月にさようならを。そして花香る三月を迎える為に。  シュクレさんがいつもの頭を身に着けたのを確認してから目を開けて、ぬいぐるみの頬に小さくキスをした。

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