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風邪除けと下心のジンジャー
自慢じゃないが私は記憶力に関してはそれなりだ、という自負がある。
まあ、だからどうしたという話ではあるけれど、そんな私のそれなりの記憶力をフル活用して思い出してみたが、私の店の上を間借りする住人が揃って風邪になるなんてことは今まで一度もなかった筈だ。
まずオーレリー。
この煩く甚だ面倒な男は、他人を愛している割に基本的に外出しない。仕事は自宅でこなせるのだから、引きこもっていても生活はできるのだろう。時折吐き出し損ねた憂鬱が溜まると真夜中の街に散歩に出るらしいけれど、まあ、基本的には家にいる。よって感染症には縁もなく、その上インドアなわりにやたらと健康だ。
次にアンリ。
真面目な彼は健康管理にも真面目で、食事は勿論睡眠もきっちりととる。仕事で疲れた日は無理をせずに休むという、流石日本人と言わざるを得ない。私は人種で正確を決めつけたりはしないようにと心がけているものの、アンリについては強く国籍を意識してしまう。運動は苦手らしいが、頼めばどんなに面倒な買い物もこなしてくれるし、体力がないわけではないだろう。私達と並べば貧弱なアジア人に見えてしまうとしても、不健康というわけではない。
屋根裏の住人に関しては割愛だ。オーレリーよりも感染症に縁がない。
そんなわけで、今年の二月は異例中の異例だった。
「インフルエンザじゃないって言うけど、ホントかなぁ」
ぐるぐると、鍋をかき混ぜていたアンリは慣れた様子で苦笑を作る。
最初は笑っているのか怒っているのか謙遜しているのかさっぱりわからなかった彼の表情も、今ではすっかりこの街とこの店と、そして私に馴染んでいた。日本人の表情は少しわかりにくいが、アンリは他人を傷つけるような表情の零し方はしないし、何より石のクレマンなんて呼ばれる私よりは確実に表情豊かだ。
クレマンは笑わない。その代わりのように、二階の絵本作家は大いにそして無駄に笑う。そんな風に言われているオーレリーだが、今は笑い声を無理矢理引っ込めて、屋根裏部屋に引きこもっている筈だった。
ムッシュ・シュクレが一人で引きこもっていた屋根裏の城は、最近はすっかり病人の隔離室となってしまっている。
「キミの事を慮ってそんな馬鹿な嘘をついたりはしないだろう。流石に。……あの男は大言壮語も甚だしいし溢れる言葉の大半は真実ではないと思ってるけどね、まあ、少なくとも僕達にはそこまで多くの嘘をつかない筈だ」
「信用ないなぁオーレリーの言葉……まあ、だよな、そうだよな。ちゃんと医者行ってたし、もし感染症だったらもっと大袈裟に俺を孤独の檻にぶち込んでくれ! とか言いそうだし」
「言うね。言うとも。というわけでオーレリーはただの風邪だ」
このところ夜中の散歩に出ている様子はなかったが、ベランダで星でも見ていたのかもしれない。
今年は雪が降らないわりに、空気が乾いて酷く寒い。ココアを片手に星を眺めて憂鬱を吐き出していたに違いない。
ショウガをすりおろしながら私が言葉をたれ流せば、アンリは朗らかに声を上げた。
「確かにあいつ、気温とか気にしないでそのまんまベランダ出るなぁー。でもオーレリーってさ、そうやってじっと黙って星なんか見てると、急に作家っぽい雰囲気になっちゃって、ちょっとびっくりするよ。いつもはあんなにどうでもいいことばっかり喋って、愛だのなんだのうるさいのにね」
「一日の大半は煩いんだから、寝ているときと星を眺めているときと風邪のときくらいは静かにしているべきだと僕は思うさ。アンリ、これはどのタイミングでボウルに?」
「卵と一緒に混ぜていいよ。その後粉をふるって……ベーキングパウダーは粉に混ぜた?」
「混ぜたとも。五分前のキミがそうしろと言ったからね」
「C'est merveilleux! クレマンさんは優秀な生徒なのにさ、なんで料理しようって普段思わないのかなーって不思議になるよ。豆のポタージュ、すごくおいしかったのに」
「それしか作れないんだよ。レンズ豆と玉ねぎをブイヨンで煮て潰すだけさ。コンロが使えればリュカにだって出来る筈だ」
「オーレリーはきっとそれもできないよ。珈琲もうまく淹れられなかったってずいぶんとへこんでいたし、俺は結局お前に何もしてやれなかったってなんか珍しくしょんぼりしてたしさ。たぶん風邪で体調悪いから、弱気になっちゃってんだよなー珍しい」
「……それは確かに珍しい」
あの陽気な男が心底ただの陽気な馬鹿ではない、ということを彼と親しい人間は知っている。知っているがしかし、陽気な男は陽気な馬鹿を演じたがるので、まあそれならそれでいいかと思い、日々陽気で煩い言葉を聞き流しているだけだ。
オーレリーは言葉を愛している。オーレリーは人間を愛している。懐の深いあの男の言葉がただ煩いだけではないということくらい、勿論承知している。どんな悲しみも傲慢な柔軟さで陽気に変えてしまう男の頭が、私のように固いわけがない。
柔軟な心は私とは違い、些細な事でも思いもよらず大きくへこんでしまう事がある。硬い石はどんなに殴っても凹まないが、柔らかいパンの生地は少し押せば容易に形を変えてしまう。要するにあの男は、口は達者だが小心者なのだ。
「僕だってただスープとパンを用意しただけさ。ムッシュはコーラの炭酸を抜いただけだし、リュカに至っては何も……彼、キミに何かした?」
「リュカ? いや別に、だって俺自主的に面会謝絶環境貫いてたし……あ、でも、暇なとき携帯で連絡とりあってたよ。いつもは仕事してるからあんまり返せないんだけど、昼間結構暇だったからありがたかったかな」
「へえ。それは初耳だ。アンリはあれだね、こう、いつの間にか隣人と距離を詰めているね。なんというか、垂らしこむのが上手い」
「……そうかな……? 俺外国人だし、とっつきにくくない?」
「最初はね。東洋人はやっぱりこの国でも珍しいし、日本人はやたらと英語を使うってイメージもあるし。でもキミは、やっぱり、いつのまにか隣にいるのが当たり前になるから不思議な人だと思う。あのムッシュ・シュクレの心を鷲掴んだだけでは飽き足らず、オーレリーが滅多に晒さない孤独を垣間見て、その上大人なんてみんな敵だと思い込んでいる少年の信頼も勝ち取った」
「え。待って待って。待って、クレマンさん、もしかしてあのー……バイトの話以外の、個人的にどうでもいいメッセージとか、リュカはしない……の?」
「すると思うかい?」
「…………………あー」
しないだろうな、とアンリは呟く。
しないだろうよ、と私も呟く。
リュカはオーレリーに次ぐ見栄っ張りだ。そしてどうやら、恋に悩んでいるらしい。
後者に関しては私がさっさとどうにか結論を出せばいいだけの話なので、正直私が悪いのだけれど。私はよろしくない大人なので、己の愚行は棚上げして息を吐く。
「まあ、僕から個人的な日記を送ることもないしね。元々他人と連絡を取る事自体が苦手だ。逐一どうでもいいような連絡が来たら来たで、人間の交流ってやつはなんて面倒なんだ、と思うだろうし。リュカの判断は正解だ」
「……クレマンさん、怒ってる?」
「いや全然。本当に、全く。怒ってはいない。怒っていないが教えてほしい。リュカのどうでもいいような言葉の内、恋の悩み相談は何割?」
「え。えー……三割?」
「思ったより多いな……。怒っちゃいないが、あー……いや待ってくれアンリ、よくよく考えたら急に恥ずかしくなってきた」
「まあそうだろうねごめん。でもほら、俺も暇でさ。他にやる事なかったしリュカって文面だとわりと素直で可愛くてさ。つい、こう、楽しく大人ぶっちゃって……俺だって、恋なんて初心者みたいなもんなのに」
「キミは十分玄人だよ。少なくとも僕やオーレリーよりはね」
卵とバターの混合液に、白い粉をぱたぱたとふるい入れる。扱っているものはパンと一緒なのに、何故か手元がおぼつかない。
そんな私の向かいで鍋に豆を投入したアンリは、恥ずかしそうに首を竦めて苦笑した。
「リュカはちょっと、考え方が大人すぎるんじゃないかな。俺が学生の時なんて、もっとこう、当たって砕ける感じだったから、今の子はちゃんと考えててえらいなって思う。でもなぁ、リュカはなぁー……考えすぎっていうか、なんていうか。もっとこう、押したらいいのにって俺は思うんだよね。そしたらちょっとは倒れそうなもんなのにって」
「…………倒れてしまったら色々問題だろうに」
「まあね、大人の方は色々考えることもあるけど。だって別に、倒れてあげてもいいんでしょ?」
「かわいい、とは、思うけどね……珍しいね、アンリが、こういう話をするのは」
別に逃げるつもりはないのだけれど、素直に気になってつい、そんなことを口にする。私の疑問に軽やかな笑いを零し、アンリはコンロの火を止めた。
「みんなの前でこういう話すんのは得意じゃないよ。恥ずかしいし。でもクレマンさんは、すごくスッと流してくれるからさ、わりと何でも話しやすい」
「…………キミは本当に人を垂らしこむのが上手くてあれだね、ムッシュの事が少し心配になるよ」
アンリの軽やかな笑い声が、二人きりの厨房に軽く響く。
アンリはとても柔らかい頭の持ち主で、そして声は軽くて気持ちよく耳にこだまする。
私は彼の軽い声を聞きながら、ボウルの中で丸く纏まったクリーム色のクッキー生地にラップを被せ、さて、とケトルに水を入れてコンロにかけた。
「キミの方は粗熱を取らなければいけない。僕は面倒で手でどうにか無理矢理こしてしまったけれど、ミキサーを使った方が圧倒的に簡単だし滑らかだ。そして僕もなんとなく形になってきた。というわけで休憩にしよう」
「うわ、もう四時? オーレリー腹減って憂鬱加速してないかなぁ」
「たまにはとことん後ろ向きになるくらいがいいさ。どうせ体調が戻ればまた煩く愛を吐く生き物になるんだから。ああ、そこの、はちみつを取って」
「……ジンジャーティー?」
「冬の終わりの午後の休憩にはぴったりだろう?」
すりおろしたショウガの残りとはちみつをカップに垂らし、ティーポットには適当に紅茶を放り込む。蒸らす時間や量なんて気にはしない。私とアンリが何となく息を吐ける程度の味になればいいし、私とアンリはパン屋とシェフにあるまじき柔軟な舌を持っていた。
吐き出すような味でなければ、大体のものがうまいと思う。
適当な残り物をつっこんだ、適当な紅茶は、パン屋の厨房で立ったまま飲むものとしては最適だ。
暖かな香りが満ちる。特別紅茶が好きというわけではないけれど、午後の休息に蒸らすお茶の葉の匂いは、妙に贅沢に思える。
「休憩が終わったら仕上げだな。キミはレンズ豆と玉ねぎを煮たスープを文明の利器で粉々にすりつぶす。レンズ豆のポタージュの出来上がりだ。すでに僕が作るものよりもうまそうだからシェフって奴は本当にすごいと思うよ。キミの魔法は、本当に素晴らしい」
「大袈裟だよって言いたいけど、こういう時はまず感謝だってオーレリーなら言うよな。ありがとう、くすぐったいけど嬉しいよ。クレマンさんだってやればできるじゃんお菓子作り。あとは伸ばして型で抜いてオーブンにぶちこむだけ。……でもジンジャークッキーなんてどうすんの? クリスマスでもないのに」
「これは、あー……そうだね、言ってみれば賄賂のようなものかな」
「賄賂? 誰かに贈るもの?」
「うん。ムッシュに、ちょっと僕の印象を良くしておくと、後々有利かなと思って大変打算的な贈り物をしようと思いついただけなんだが……僕はどうやら、アンリにもこのクッキーを贈らなきゃいけないらしい」
恋の相談ならムッシュにしたらいい、とたきつけたのは私自身だったのだけれど。まさか、アンリにまで飛び火しているとは思わなかった。
さっさと私が自分で結論を出したらいい。そうは思うものの、やはり私の自我は宙ぶらりんで、どこが着地点なのかわからない。まだ時間はあるさと言い訳して、私はムッシュとアンリにジンジャークッキーを押し付けるつもりだ。
私の言いたいことをすぐに悟ったアンリは、軽く笑ってから息を吐く。
「俺別に、賄賂もらわなくてもクレマンさんのこと悪く言ったり、邪魔したりしないよ?」
「勿論わかっているとも。まあでも、先んじて投資しておけば後々便利な事もあるだろうさ。キミは何も考えずにもらってくれ。そしていざという時にはパン屋から押し付けられたジンジャークッキーを思い出してほしい」
「……悪い大人だなーほんと。クレマンさんって世間に微塵も興味ない、みたいな顔してるのにそうやって結構俗世的だから、あなたに恋をする人は大変だなって思うよ」
「そんな奇抜な人間は今のところうちのバイトくらいしかいないけどね。日本だとジンジャーは風邪除けなんだろう? 今年の二月は、ブーランジェは風邪とウイルスまみれだ。ジンジャーで避けられるものならば、それにこしたことはない」
舌にぴりりと刺激を残す甘い紅茶を一口含む。吐き出した息は暖かく冷えた空気に混じって消えた。
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