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喉越しの良い甘い水
アンリをベッドに縫い付けた病気は、インフルエンザだった。
この国ではグリップと呼ばれるその病気は、日本でも恐れられているらしい。ぐったりとしたまま咳を繰り返すアンリが、未知の病気じゃなかった事に僕たちが安堵したのは二日前の事だった。
感染力の高い病気だから、と、病院から帰って来たアンリは屋根裏部屋に引きこもってしまった。簡単な衝立でベッドルームを仕切っている二階の部屋に、密封性なんか勿論ない。ルームシェアをしているオーレリーにうつしてしまったら大変だから、とアンリは言う。
確かにその通りだ。僕はどうしても屋根裏でしか生きていけない、ということも、ないのだから、アンリが屋根裏部屋を使って僕が代わりに二階で生活する、という結論になるまでの話し合いなんて二分もかからなかった。
僕は人間が怖い。誰とどんな風に交流を持っても、ほんの少し世界が広がっても、結局僕の根本は変わらない。
人が怖い。外は怖い。世界はそこにあるだけでも恐ろしくて、相変わらず僕は自分の顔を外気に晒す事ができない。
お互いに秘密の少ないアンリにもその調子だったから、勿論、オーレリーに対して素顔を見せた事もない。オーレリーの事を信頼していないわけじゃないし、勿論彼の事は好きだ。煩くて主語の大きいだけの男だ、なんてオーレリーは笑うけれど、僕は彼の言葉は愛で出来ている事を知っている。
アンリ以外の人間と、初めて過ごす夜は、少しだけ恐ろしかった。
最初の夜の僕は三十分迷って、結局えいやっと被り物を取ってからアンリの布団を被って寝る努力をした。
うまく眠れなかったのは、アンリのベッドだったせいなのか、深夜に執筆をするオーレリーの気配が気になったせいなのか、わからない。
それでも急に涙が出たり、悲しくなったりすることはなかった。いつもだったらつい、自分の悲しみを優先させてしまう。どうして世界はこんなに広くて怖いのだろう、と漠然と涙を流してしまって、ぽつんと立った一人で取り残されたような気持ちになってしまう。
けれど今は、一人で悲しんでいる場合ではなかった。それどころではない、という言葉は、きっとこの日の為にあったのだと思う。
僕は悲しみ一人で泣かない代わりに、一時間に五回は天井を見上げ、そわそわと指をすり合わせては立ったり座ったりを繰り返す。そのうちに我慢できなくなって、ぐるぐると部屋の中を回った。
オーレリーは大体窓の近くにいる。僕がそわそわうろうろしていてもあんまり気にしてはいないらしい。それでも、三時間に一回くらいは『落ち着けムッシュ、ココアを淹れてやるから』と苦笑いで声をかけられる。
僕は落ち着きがない。昔から、落ち着いて何かに集中するなんて事ができない。僕がひたすらに集中できるのはマカロンを作る時くらいのものなのだけれど、最近は、アンリが隣にいる時はすごくゆっくりと呼吸ができた。
そのアンリと、もう二日も顔を合わせていない。いつもは一日に一度は顔を合わせて挨拶をするから、こんな事は本当に、アンリがどこかに出かけている時以外で初めてだ。
トイレもキッチンもシャワールームも、屋根裏にはない。ないから都度アンリは降りてくる。
ギシギシと屋根裏から延びる梯子が軋む度に、アンリだ! と扉を開けてキッチンに駆け込みたくなったけど、僕は息を殺して我慢した。
僕は、アンリに会うことを止められている。インフルエンザウイルスはとても怖いから。すぐにうつるし、何より医者に行かなくてはいけなくなるから。
だからシュクレさんは俺に会ったら駄目だよと、咳で掠れた声で告げたアンリに、あと何日会えないのだろうか。
具合が悪くて辛いのはアンリなのに。一人で悲しいのはアンリの方なのに。僕はつい、自分ばかり悲しくなってしまうから駄目だ。
今日は朝からとても寒くて、余計に悲しい気持ちが強くなる。オーレリーはいつも、悲しくなったら暖かいものを飲めと言う。クレマンはいつも辛いと思ったら運動したらいいと言う。
僕は朝から三杯もココアを飲んでいたし、僕が運動するためのウォーキングマシンは屋根裏部屋だ。悲しい気持ちを発散できない僕はうろうろと、部屋の中を回る事しかできない。
そのうちに呆れたオーレリーが、ムッシュはこいつの炭酸でも抜いておけ、とコーラを手渡してきた。
風邪の日にはコーラを飲むのがフランス流、らしい。僕はそういえば、あまり家族との思い出もないし、身近な人も少ないから、風習とかもよくわからない。
手渡されたマグカップにたっぷり注がれた黒い液体は、ぱちぱちと炭酸の音がする。いつもオーレリーがココアを溶いているスプーンで、僕はぐるぐるとマグカップの中身をかき混ぜる。ぐるぐる。ぱちぱち。炭酸がゆっくり抜ける音がする。
強い炭酸がすっかり抜けて、ただの甘くて黒い液体になる頃、オーレリーは笑って僕の背中を押した。
「ほんの一瞬だけなら面会オーケーだ、ムッシュ。そのやる気のなくなったコーラと、熱いスープと、クレマン特製の柔らかいパンを、屋根裏の病人に届けてやってくれ」
「……いいの?」
「アンリはまだ渋っているけどな。あいつだってそろそろ孤独に圧迫されて凍えている筈さ。ああ、くれぐれもそのデカいツラを外すんじゃないぞムッシュ。あんたのその愛おしい顔はきっと何よりも優秀なマスクだ。もし恋人にキスを贈りたくなったら、今日は我慢して手を繋げ」
勿論僕は、寝込んでいるアンリにキスを迫ることなんてできない。彼の額に小さなキスを落とすことだってできない。だってアンリは、僕たちが病気にかからないように、すごく配慮してくれている。
屋根裏部屋は薄暗い。屋根裏部屋は肌寒い。
孤独には慣れた僕にはちょうどいい寂しさだけど、きっと、一人でベッドに沈むアンリには悲しすぎる場所だ。
僕とオーレリーの為にアンリは一人で孤独の真ん中で眠っている。僕の我儘で、彼にキスをするなんてとんでもないことだ。
ぷるぷると小刻みに何度も頭を横に振る。あまりにも真剣に首を振る僕に、オーレリーは珍しく静かな苦笑を零した。
「ムッシュの生真面目さは疑う余地もなく理解しているさ。俺としては孤独の真ん中に放り込まれたあのシェフに、熱い抱擁の一つもぶちかましてしまえ、と思っているが……おまえさんたちはきっちり節度を守るんだろうな。クソ真面目なカップルでまったく最高だ。ほら行けよムッシュ、グリップにやられた恋人が愛に飢えているぞ!」
ばしん、と肩を叩かれる。
オーレリーはあまり部屋から出ないのになぜか体格がよくて、力も強い。
びりびりと痛む肩を摩ってから、僕はトレイの上にたくさんかき混ぜた後のコーラのカップを置いて、オーレリーに急かされながら梯子を上った。
屋根裏部屋は薄暗い。屋根裏部屋は肌寒い。そして今日は、ほんの少し湿ったような空気が、僕の唯一の素肌である指先に纏わりつく。
「……アンリ?」
恐る恐る、出した声は、思っていたよりも響いてしまう。
もぞりと動いたベッドの上の塊は、僕の方に寝返りをうったらしい。毛布からひょっこりと顔を出したアンリは、口元を隠したままぐっと眉を寄せる。
「…………マスクをして行くから問題ない、なんて言いやがってあの野郎シュクレさんを寄越してきやがるんだから、もー……確かに、まあ、マスクっちゃーマスクだけど……」
やっぱり具合がよくないのかと思って心配したのだけれど、アンリはオーレリーに対して怒っているだけ、らしい。それでもやっぱり僕は心配で、そっと近づいてベッドの横の小さな椅子に腰かけた。
いつも、窓際から外を見下ろす時に、僕が座る椅子だ。
「具合は? ……まだ辛い?」
半分寝ているような顔で、アンリはゆっくり息を吐く。咳はしていないし、汗もあんまりかいていない。
「んー……そうでもない、かな……本当はもう結構治ってるんだと思うけど、症状が治まってからもウイルスって身体の中に残ってるでしょ? だから、あと二日間くらいは嫌でも孤独に耐えて引きこもるつもり。ナタリーはいっそ来週まで休めって言うけど……」
「サン・ヴァロンタンの夜も終わったし、少し、ゆっくりしてもいいんじゃないのかな、って僕も、思う。アンリはいつも、すごく真面目に出勤しているもの」
「それ、みんな言うけど、普通だよ? 普通に朝起きて、普通に出勤してるだけ」
「でも、たくさん休んだり、遅刻したりするよりは、絶対に真面目でえらいことだよ。アンリが特別じゃないなら、きっと、日本の人がきっちりしているんだね」
僕は毎日ちゃんと同じ時間に起きるアンリの真面目さが、とても好きだ。
きっちりと同じ時間に起きて、きっちりと同じ量の珈琲を淹れてくれる。帰りの時間はレストランの忙しさによってちょっとだけ遅れたりもするけれど、アンリはいつも、すごくきっちりと生きていると思う。
僕はずっと、時間なんてあってないような生活をしていた。下の階のオーレリーもよく昼夜が逆転しているし、唯一早起きで店を開けるクレマンの生活音は、残念ながら屋根裏までは聞こえてこない。
朝きちんと起きて、夜きちんと寝るようになったのは、アンリが来てからだ。
少しだけ熱が逃げてしまったスープとパンが乗ったトレイをサイドテーブルに置いて、僕は炭酸が抜けたコーラを手渡す。
だらだらとついいつものように喋ってしまう僕に対して、ゆっくりと身体を起こしたアンリは、マグカップを受け取りながらはにかむように笑った。
「あー、でも、なんかわかる……俺さ、こんな風に丸一日屋根裏のベッドを占領するなんて、初めてじゃん? 俺がシュクレさんの部屋に遊びに来る時って大体夜中だし、昼間はみんな二階に集まるし。だからなんていうか、二階の生活音ってこんな風に聞こえるのかーって、ちょっと、不思議で、楽しいよ」
昼間に起きたオーレリーが、珈琲を飲みながら歌う調子はずれの鼻歌とか。みんなが何度も注意するらしいけど、一向に静かにならないリュカの足音とか。時々顔を出して聞き取れないくらいの低い声で滔々と言いたい事だけぶつけて帰っていくクレマンの声とか。
確かに、この部屋の床の下は、ほんの少し騒がしい。耳を澄まさなくてもダイレクトに聞こえてくる生活音は、いつだって愛おしい音だ。
これがシュクレさんの聞いている音なんだね、とアンリは笑う。そして僕がさっき延々とぐるぐるかき回して炭酸を追い出したコーラを一口飲んで、甘い、と眉を顰めた。
「これ、何……あ。コーラ……?」
「うん。フランスの風邪っぴきは、炭酸抜きのコーラを飲むんだって、オーレリーが」
「……確かになんか聞いたことあるような気がするけど、炭酸抜きのコーラってこんな甘いもんなの」
「飲めない? 好きじゃないなら、僕が、飲む?」
「あーいや大丈夫。飲むよ。喉は常に乾いてるし、糖分取って健康を取り戻さなきゃ。……シュクレさん、早く二階に帰らないと、ウイルスに気に入られちゃうよ」
すごく控えめに僕の退室を促すアンリは、ちょっとだけ苦笑いをしているように見える。僕の幻想とか、妄想とか、そうだったらいいなっていう願望かもしれないけど、なんとなく名残惜しいような空気が漂った、気がした。
アンリは僕達に病気がうつらないように、とても注意している。
それなのに僕が我儘なせいでその配慮を台無しになんてできない。僕は素直に彼の言葉に従うことにして、とても名残惜しい気持ちをどうにか飲み込んで、アンリの頭をちょっとだけ撫でた。
「……アンリが早く、僕の足元に帰ってきますように」
オーレリーの鼻歌も、リュカの足音も、クレマンの聞き取れない小言も好きだけれど、やっぱり僕が一番愛おしく感じるのは、アンリが料理をする時の音だから。
朝、キッチンから漏れ聞こえるお湯を沸かすケトルの音。こぽこぽと珈琲を淹れる音。ベーコンと卵を焼く音。合間に混ざる、食器とか、フライ返しとか、フライパンとか、コンロとか、そういうものがカチャカチャと触れ合う無機質だけれど軽やかな音。
朝、僕はベッドの上から移動して、キッチンに続く扉がある場所に椅子を引きずっていく。そしてアンリが料理している音を聴きながら、寝る前に読みかけだった本だとか、オーレリーが試し読みしてくれって渡して来た原稿だとか、そういうものをゆっくりと読むのだ。
これは実は、結構前から朝の日課になっているのだけれど、誰かに話したのは初めてだった。
きみが料理をしている音が好きだから、早く元気になってね、なんて失礼かな、と思ったのは言葉にしてしまった後で、やっぱり僕は思ったことを適切に言葉にして吐き出す能力がないのかもしれないと憂鬱になりかけた。
別に、料理をしていなくたって、何の音をたてなくたって、アンリの事が好きだ。でもやっぱりアンリが朝僕達の為に珈琲を淹れてくれる音が好きだから、間違ったことを言ったわけじゃないんだけれど。
ああ、だめだ、言葉は、難しい。だから嫌だ、と思ってしまう。僕が勝手にあわあわと、自分の言葉を呪い始めたというのに、何故かアンリは顔を真っ赤にしてベッドに崩れ落ちてしまった。
……アンリは照れた時、いつもそうやって顔を隠して崩れてしまう。赤い顔が、どうしていいかわからない様なちょっと困ったような照れた顔が、とてもかわいいのに。でも僕は自分の顔をずっと隠したままだし、僕も照れた時はぬいぐるみの顔を手で覆ってしまう事もあるから、文句なんか言えないのだけれど。
僕の、無神経な言葉のどこが、アンリの心を擽ったのか、全然わからない。わからないけれど、アンリが傷ついたり、嫌な気持ちにならないならそれでいい、とも思う。
「アンリ、ええと……あのね、僕は、君に料理をしてほしいとかそういうんじゃなくて、あの、アンリの、料理は好きだけど、そうじゃなくて……君が、毎日そこにいて……僕の屋根裏の下で、普通に生活している音が、すごく好きなんだ」
「……もう、だめ、ちょっと……オーバーキルってやつだこれ……リュカの事笑えないよ、もうさぁ……。わかるよ、だって俺も、毎日似たような事思ってたもん。……屋根裏の音、たまにだけど聞こえるんだ。シュクレさんが歩く音とか、窓を開ける音とか。あの窓際のウォーキングマシン使ってる時なんて、天井がぎしぎし軋むもんだから、オーレリーと一緒ににやにやしちゃう」
「……ごめん、うるさくしてるなんて、知らなかった……」
「かわいいから気にしないで。本当に。運動は大切だよ。ちゃんと寝て、食べて、運動して健康でいてくれなきゃ。……俺ももうちょっと頑張って隔離生活続けて、ウイルスを追い出すよ。慣れてきたらこの炭酸抜きコーラ、なんか癖になりそうな感じだし」
「じゃあ、また僕は、アンリの為にコーラの炭酸を追い出して、そしたら梯子を上ってきていい?」
「…………俺のウイルスがうつらないように、手洗いうがいをちゃんとしてくれるなら」
勿論する、という意思を一生懸命かくかくと縦に頷いて表現したせいで、ちょっと頭が取れそうになって慌てて両手で支えた。
眉を落として笑ったアンリは、心配かけてごめんねと零す。アンリの言葉は、風邪で寝込んでいるときだって柔らかくて、僕はいつだって胸の奥がじんわりと、暖かいもので満ちるような気持ちになった。
勿論心配だけど。でも、アンリが謝るような事はひとつもない。二階での生活はちょっとだけ、いつもと違って不便なところもある。それでもやっぱり僕は、迷惑だなんてこれっぽっちも思わない。
きみのからだがよくなりますように。
ただそれだけを祈って、僕はちゃんとした自分の口じゃなくて、被り物の人形の頭の口でアンリの額にキスをした。
これならうつらないから、と思ったんだけど、アンリはどうしてかまた照れてしまって、仕返しのように僕は手を握られてしまった。
アンリに手を握られてると、僕の心臓もぎゅっと握られたように飛び跳ねてしまう。どきどきして、風邪を引いた時みたいに身体が熱くなる。
「…………甘くて喉に優しいコーラで、すぐに元気になってやるから。そしたら、ちゃんとええと……ちゃんと、シュクレさんの口で、キスしてね」
僕もアンリも恥ずかしくてお互いの顔なんて見ていなくて、ただ熱い手を握って僕は馬鹿みたいに頷いて、また顔が取れそうになって、頭を支えながら逃げるように屋根裏部屋を飛び出した。
ああ、熱い。どうしよう。どきどきする。どうしよう。熱いのは本物の顔だけど、僕はついうっかり外側のぬいぐるみの方を摩ってしまう。のっぺりした、いつもの布の感触なのに、心なしか暖かく感じてしまうのはなんでだろう?
「なんだムッシュ早かったな。アンリに追い出されたか?」
キッチンでココアを飲んでいたオーレリーに笑われたけど、僕は本当に熱くてそれどころじゃなくて、どうにか飛び上がった心臓を押さえつけて大人しくさせなくちゃ、とキッチンを見回してからコーラの瓶に気が付く。
そうだ、冷たいコーラを飲もう。そうしたら少しは落ち着くかもしれない。さっき僕がアンリの為に追い出した炭酸ごと、喉の奥に流し込めば、きっと僕の心臓も落ち着く筈だ。
そう思ったのに長いストローをさして無理矢理首の下の隙間からすすり上げたコーラは、記憶にあるよりも随分甘くて、僕は一人でアンリのベッドに崩れ落ちてしまった。
甘くて、麗しくて、喉ごしの良い炭酸飲料は、ぱちぱちと音をたてながら僕の喉を滑り落ち、ほんの少しの言葉でぐちゃぐちゃに踊っている僕の中に溶けていく。
甘い。そう思う度に、どうしてか、甘いと眉を寄せる可愛い人の顔がちらついて、僕はより一層口の中の甘さを実感した。
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