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ポタージュ・ランティーユ

 玉ねぎを切る作業が嫌いだ、と言うと、旦那は軽く息を吐く。 「……まあ、言いたい事はわからなくもないけどね。けどそうやってアレも嫌いコレも嫌い、と言葉にしていると、僕みたいにつまらない人間になってしまうと思うから気を付けた方がいい」  怒ってる時の旦那は、こんな風に息を吐いたりはしない。呼吸なんてしてないんじゃない? って感じのロボットみたいな顔で静かに言葉を羅列する。  だからこれは別に怒られているわけじゃなくてただの雑談だなって判断して、おれはいつものように生意気に反論した。  ああいえばこういう、なんて旦那は息を吐くけど、ちゃんと怒っている時以外はおれの子供っぽい反論に一々言葉を返してくれることを知っている。 「旦那別にそんなに文句とか言わないじゃん」 「今はね。僕だって歳を取って落ち着いたりもするんだよ、人間だから。何もしなくたって人間は老いるものだ。老いれば脳の細胞だって多少はまろやかになる、と僕は勝手に信じている。リュカ、よそ見していると指を切るよ。いつもキミの指の怪我を消毒してくれるシェフは、まだ屋根裏で隔離中なんだから」 「わかってるよ。ゆっくりやれば俺だってさ、キャベツくらいは切れるんだよ。玉ねぎが悪いだろこんなん。目が痛いし前が見えないし鼻水垂れそうだしさ、ほんと、コイツってさ、すげー人間が嫌いなんだよきっと」  トン、トン、と階段をゆっくり上がるみたいな速さでしかナイフは動かないのに、それでも手元は危なっかしい。最初は別の作業をしていた旦那が、いつの間にか手を止めてじっとおれの手元を見ている。  だってさ、こんなのさ、玉ねぎが悪いだろう、どう考えてもさ。  そもそもなんで『切ると涙が止まらない』なんていう野菜を食おうと思ったのか、謎すぎる。そんなの絶対に毒だと判断していい。おれが人類で初めて玉ねぎを切った人間だったなら、絶対に呪いかなんかだと思って切りかけの玉ねぎ放り投げてベッドに潜り込んでしまうはずだ。  恨み言は思っているだけじゃなくて、つい口から流れてしまう。  シュミネの中でのおれは、比較的何も考えずにだらだらと言葉を口にする。  おれはあんまり喋る方じゃない、って学校でも家でも思われているはずだった。だって本当に喋らないから。喋っても意味がないと思っているから、喋らない。  でも放った言葉にすぐにレスポンスが付けば話は別だ。独り言じゃない会話ってやつは案外楽しい。このパン屋の住人は奇抜でどっかおかしくて、とにかく喋る事に関してはこの辺一帯の誰にも負けないんじゃないかと思う。喋ってばっかのオーレリーは勿論、それにガンガン付き合うアンリも、旦那も大したもんだよホント。みんな馬鹿みたいに喋るから、うっかりしていると置いていかれそうになる。  いつも喋らないで飲み込む弊害は、時折忘れかけた頃におれを襲う、事もある。  喋り慣れていないせいで、どれを言葉にしたらいいのか、どの程度我慢したらいいのかわからない。結局全部口にして、時折言いすぎだと旦那には窘められるし、オーレリーには褒められる。多分世間一般的には旦那の方が正論だ。ていうかオーレリーの言う通りに生きたらたぶん、ただの自己主張の激しいハッピークソ野郎になってしまうと思う。  いつもだったら比較的素直に旦那の言葉に従うところだけど、玉ねぎに関してはおれも譲らない。だってマジで目が痛い。 「ちょっと、こら、待てリュカ。一回それを置きなさい。……キミはまず手を洗って、ほら、あそこで鼻をかんでおいで」  鼻水をずびずびと啜りながら目を擦りそうになり、流石に旦那に止められた。 「まったく、病人に差し出す食事を汚すのは流石にどうかと思うよ。だから上でトランプでもしていたらいい、と言ったのに」 「えー……やだよ、だってほら、あのー……でっかい顔の人いるじゃん」 「……キミはムッシュ・シュクレの事が苦手なの? 彼の作るマカロンを、あんなに喜んで食べるのに?」 「だってあれはさ、そりゃ食うよ。あんなのずるいじゃん。おれマカロンなんて初めて食ったけどあんなにうまいなんて知らなかったしさ。でもさーあの人おれの事見ると一回身体引くしめちゃくちゃビビッてるのわかるし、別に嫌いってわけじゃないけどどうしていいかわからないんだよ……」  おれの作業を引き継いで、涼しい顔でトントンと玉ねぎを切る旦那は、いつも通りの顔で『ああ』と低い息を零した。  旦那の声は別にそこまで低くない筈なのに、喋り方が単調で息みたいに吐き出すせいで、なんだか妙に音が低く聞こえる。時々声なのか息なのか歌なのか判断つかない時もある。  歌みたいな息みたいな声を吐き出して、旦那はふと天井を見上げた。 「まあ、確かに……ムッシュは理性ある大人というわけではないし、他人に譲る事には慣れているが慮る事には不器用か。年下のキミからしてみたら、不思議で面倒くさい人になってしまうんだね。僕たちはすっかり彼の事を面倒で愛おしい隣人だと思っているからなぁ……」 「愛おしい? か? あの顔ちょっと怖くない?」 「別に。かわいいものじゃないか。平気で人を殴ったり、無駄に人を貶したりする人間だっている世の中だ。そんな人間に比べたら、ムッシュはあまりにも優しすぎて不安になるほどだよ」  ……確かに。いい人なんだろうなーというのはわかる。なんてったって、あのアンリが手放しに褒めるような人だ。  オーレリーはどんな人間でも手放しに褒める。おれのことだって無駄に褒める。だからあいつの言葉を、おれは信用していない。半分くらい本当で、半分くらいはおれにはよくわからない言語だと思って聞いている。  旦那はどんな人間でもほとんど興味がないようで、そもそも褒めたりとか貶したりとかしない。そういう人もいるものだ、というスタンスらしい。隣人みな狂人だとよく言っている。でも友人連中にはわりと甘い顔をするから、旦那の言葉もあてになんないよなーと思う。  でも、アンリは別だ。あの兄のような人は、なんていうか、妙に正しい。それはそれ、これはこれ、ときっちりと分けた考え方をする。アンリが懐いている人間はきっとみんないい奴だ。ナタリーとか、フレデリックとか。  だからシュクレさんって人も絶対に良い奴だ。わかる。わかってはいるけどおれは、あのでっかい青くて丸い目を見てるとなんだか不安になって、後退りしてしまう。 「キミはたいして人の顔を見て会話なんてしないだろうに、顔が見えないと不安だなんて不思議な事を言うね」  玉ねぎを切り終わった旦那は、さっさとフランパンに投入して炒め始める。  玉ねぎ独特の甘い匂いが、厨房に充満する。人間を呪う悪魔の野菜も、熱してしまえば甘くてうまい食い物だ。 「目を見て話すのって苦手なんだよ。だってなんか、怖くない?」 「僕はそうでもない。ただ、『僕は』という話であって、キミがそう思うのは別にいいんじゃないかと思うよ。失礼な言葉をぶつけなれければそれでいいさ。一時間くらい一緒にトランプでもしたら、ムッシュの方が先に慣れるんじゃないかな」 「そもそもおれトランプそんなに好きじゃない」 「今日のキミはまったく、文句ばかりだね。じゃあお茶でも……あーいや、ムッシュは人前でお茶を飲まないな。ストローをさせる冷たい飲み物がせいぜいだ。そうだなぁ……ムッシュが喜ぶ話題か。ああ、でもそうだ、彼は寒そうな人に弱い筈だ」 「寒そうな人?」 「そう、寒そうな人。悲しい思いを抱えている人や、涙を我慢できない人。ムッシュの優しさは、そういった寒そうな人間を放置できない。彼をそういう人間を見ると、思わず作り立てのマカロンを差し出してしまう優しさの持ち主だからね。キミも悩み事があれば、ムッシュに打ち明けてみたらいいんじゃないか? ムッシュ・シュクレは相談者には向いていないが、この建物の中で一番、人の言葉を聴く事に長けている。彼は喋る事が苦手な代わりに、他人の悲しみに相槌を打つのがうまい」  滔々と喋る旦那は、底の深い鍋に炒めた玉ねぎと水で戻したレンズ豆とブイヨンを一緒に入れて火をつけた。ぐつぐつと後はしばらく煮るだけらしい。  適当にぐるぐるとかき混ぜる旦那の手元を眺めつつ、おれの中の山積みの悩みのどれなら他人に明かせるのかなぁ、と考える。  進路の事は駄目だ。なんかもう、口にするだけで泣きそうになる。泣きそうになるから諦めて、いつも堪えて考えないようにしている。  同じように親の事も駄目。別に愛してほしいとか思ってないし、今のままでも殴られないだけ充分だけど、たぶん他人に話したら泣いてしまう。そういう話はまだ誰に対しても口にする勇気なんてない。  学校、友人関係、サークル、好きなバンドの解散、昨日立ち寄った本屋でぶつかった知らない女。  悩みというかちょっと心が重くなるような事を羅列してみても、どうもしっくりこない。 「……シュクレさんって、恋の悩みも聴いてくれんの?」  シュクレさんの恋マカロン、なんていう乙女ちっくな言葉を思い出しただけなんだけど。おれがぼそりと呟いた言葉に、旦那はぴたりと固まった。  普通にされたらされたでちょっと傷つくとは思う。でもなんか、そんな風にわかりやすく反応されるのも、ちょっと、うん。  妙な顔をして眉を寄せた旦那は、ぐるぐると鍋の中身をかき混ぜながら、歯切れの悪い低い声を出した。なんかその顔あんまり見ない感じで不思議だ。 「あー……まあ、どうかな、キミが……真剣に相談すれば、恐らく、かなり真剣にキミを励ましてくれるとは思うが……え、キミは恋に悩んでいるの?」 「え。悩んでないと思ってるの?」 「……思ってはいないが。それは直接僕には言えない事?」 「………………だって旦那はぐらかすじゃん」 「うん。あー、そうだな。僕が悪いか。いやでもこの前は、キミの方が走って逃げてしまったじゃないか」  旦那の言葉に、だってと言いかけて口を噤む。  だってあんなのアンタが悪いでしょ二人でオペラなんか見ちゃってさ、その帰りにもう少し話そうかなんて手を引かれそうになったらさ、嘘だろわはは雰囲気ありすぎじゃんってびっくりして逃げちゃうだろう誰だって。  いやわからないけど。普通の人は逃げないのかもしれない。  逃げないでカフェ行って帰りにキスとかしちゃうのかもしれない。  でもおれは逃げるよそんなの。だって恥ずかしいしわけがわからない。  おれには好きな人がいる。そんでそれは割と相手にもバレていて、その上で普通に付き合ってくれている。  おれはまだ子供で、進路なんて考えるだけで憂鬱で、好きな人はいるけど恋人になりたいとか思っていないし、人生どうすんのかもよくわかっていない。子供だから大人だからとか言うと、オーレリーに『みんな人間だ』って言われるけど。でもやっぱりおれはまだ子供だ。  子供だから覚悟とかなくて、子供だから人を好きになるだけで手いっぱいだ。どうしていいのかなんてわからない。隣で玉ねぎ炒めて一緒にスープ作ってるだけでも楽しい。楽しいのに、じゃあこのままでいいのかって言ったらやっぱりよくわからなくてぐるぐるする。  確かにあのぬいぐるみの顔は、相談事を持ちかけるには良いのかもしれない。相手の顔を窺って、言葉を選ぶ必要がない。だって顔色なんて変わらないし。話を聴くプロだって言うのも頷ける。なんてったってやたらと喋りまくる奴ばっかりのパン屋で生活しているんだから、そりゃ聴く事にも長けるだろう。  普段、シュクレさんは屋根裏から出てこないらしい。金曜の夜はひっそりと厨房でマカロンを焼いているみたいだけど、その時間、おれはバイトでパン屋の表側に座ってなきゃいけない。みんなのお茶会の中で、堂々と口にするような相談事でもない。  狙うなら今かもしれない。アンリは屋根裏で寝込んでいるから、シュクレさんは今、二階で生活している。  オーレリーだって一応人の話を聞く耳を持ってはいるから、ちょっと席外してって言えば満面の笑顔で散歩に行くはずだ。あのハッピー野郎は、知人がハッピーになるならばその幸福を自分が届けなくてもいいと思っているらしい。手段なんでどうでもいい。自分が散歩に行っている間に幸福が生まれるのならば喜んで散歩に出かける、なんて言いそう。言いそうすぎてちょっと笑っちゃった。  なんだか妙な顔をしたままコンロの火を止め、妙な顔をしたまま煮た豆のスープを裏ごしした旦那は、一回だけ味見をしてから塩をちょっと足して、茶色にちょっとだけ緑を足したような色の液体を深めの皿に流し込む。  レンズ豆のポタージュの出来上がりだ。  料理なんて普段はさっぱりだ、という旦那が唯一作れる病人食らしい。 「まあ、こんなものかな。味は普通だけど栄養はそれなりの筈だ。二階のオーレリーに渡せば、アンリのところに運んでくれる。僕は午後の店番に戻るけれど……」 「おーけー。じゃあおれ持ってく」 「…………リュカ」 「うん?」 「別に僕は直接相談してもらってもいいけれど」 「…………………」  いや馬鹿出来るわけないだろ馬鹿、と口から出なくて仕方なく、おれは旦那の長い脚を蹴った。  出来るだけないだろう馬鹿。  あんたの事が好きだけど手を伸ばされるとびっくりして恥ずかしくて思わず後ろに退いちゃうんだけどどうしたらいいの、なんて、どんな顔して口にしたらいいんだ馬鹿。  やっぱりおれは、何を言っても顔なんて変わらないあのでっかい頭の人に、恥を忍んでまずは好きな人の名前から告白しなきゃ、と心に決めた。

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