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Il y a fagots et fagots.

 薪といっても、色々な薪があるもんだ。  俺はこの諺が好きだ。愛していると言っても過言ではないが、そんなことを零せばアンリは『オーレリーは世界の言葉の八割を愛してるだろ』なんて言ってくる。  けれど今日はそんな風に苦笑いで言葉を叩きつけるシェフはいない。彼は昨日ふらりと帰ってきてから、屋根裏のムッシュを部屋から追い出し、ムッシュのベッドを占領した。と言ってしまうとひどく横暴に聞こえるからよくないな。実際は俺たち三人でさっさと話し合い、アンリを屋根裏に放り込んだと言った方が真実に近い。  薪と一口に言っても、その形は様々だ。色だって違う。太さだって違う。そうつまり、同じものは何一つない。日本では似たような事を言いたい時に『十人十色』と言うらしい。なるほど人はみな色が違う、などとは洒落た言い回しだ。  姿かたちが一つとして同じではない俺たちだ。勿論能力だって何一つ同じではない。得意なものと不得意なものも千差万別だ。  例えば下のパン屋のクレマンは歌が得意だ。けれど笑う事に関しては馬鹿みたいに不得意で、いつだって眠そうな無表情を貫いていやがる。あと何故かパンは焼けるのに料理は不得意だ。パンも焼けない俺に言われたくはないだろうが不思議に思うのは仕方ない。  俺からしてみれば、パンが焼ければオードブルも作れそうなものだと思うが、『じゃあキミは絵本が書けるからサスペンス小説も書けるのだろうね?』という反撃を受けてからはクレマンの前で料理の話をすることを止めた。なるほど、確かに分野の違いって奴は外野からはわかりにくい!  例えばパン屋のバイトのリュカは、ダンスが得意だ。あとは割合勉強も得意なんじゃないかと俺は踏んでいるが、本人は馬鹿だからと否定する。あいつはやる気を出すのが不得意だ。  そして今俺の横でそわそわと天井を見上げる男、ムッシュ・シュクレ。今日も相変わらずいつもの被り物を欠かさないせいで、未だに素顔なんてものは幻なんじゃないかと思わせる男。  彼に関しては得意な事の方が少なく思えるが、とんでもない。ムッシュ・シュクレは非常に多彩な才能と感情を持ち合わせている。  確かにムッシュは人との会話が不得意だ。けれど俺もアンリも、こいつと話していて不快になる事などない。  ムッシュは外に出る事が不得意だ。けれどそんな事はどうでもいい。外に出なくたって世界はそこにある。己が触れている外気があればそれでいい。そこに世界はあるし、世界にそいつは存在している。家から出るか否かなどどうでもいい些細な事だ。  ムッシュ・シュクレはマカロンを焼く事が得意だ。これは素晴らしい特技だ。何と言っても彼のマカロンは、一口食べれば恋が叶うと言われる程に特別な味がする。  この通り人間には得意なものと不得意なものがごまんとある。薪は同じ薪ではない。十人いれば十色の色がある。  俺に関して言えば、そうさな、喋る事は恐らく得意なもののひとつだろう。  言葉が好きだ。言葉を並べたてる事が好きだ。  劇の紙の城のように張りぼての言葉を並べて大層な思想を喚き散らす事が好きだ。言葉ってやつは面白い。内に秘めているだけでは何物でもない。けれど声に出して、文字にして表現すると何物にでもなる。その素晴らしい言葉をうまいこと操れているかは置いておくとして、俺は喋る事だけは得意だ。  そして不得意なものは山ほどある。山ほどあるが、まずは挑戦してみないと俺に向いているかどうかなんてわかるわけがない。  というわけでは俺は今湯を沸かしている。 「レシピってやつは俺たちの味方だ。料理なんてさっぱりな俺達にもわかるように最大限丁寧に簡潔に表記してある説明書だ。こんなにありがたいものはない。だが才能ってやつはここで俺達を振り分ける。レシピ一つで同じものが生産できるなら、それこそうまい飯屋なんていらないわけだ!」  滔々と言葉を垂れ流すのは最早癖だ。上の階でアンリが寝ているから静かにしようかと、一応俺だって気を使った。何と言ってもアンリは最良の同居人だ。彼がウイルスにすっかりやられちまって一人で睡眠を得ている時に、わちゃわちゃと煩く喋って邪魔をするわけにはいかない。  と思って大人しくしていたわけだが、アンリの携帯から俺のパソコンに送られたメッセージは『生きてる? 不安になるからいつも通り煩くしてて』だったのだから、思わず盛大に天井に向かって愛を叫んでしまった。まったくあいつは、ウイルスでへとへとになっていたって愛らしい最強の同居人だ。 「常々不思議だ。火加減とか加熱時間とか、まあそれで食事の質が変わるのはわかる。そのくらいは俺にもわかる。けれどどうだ、お湯の注ぎ方で味が変わるなんて理不尽じゃないか?」  ぐらぐらと沸いたケトルの中の湯を、少しだけ落ち着かせるように取っ手を揺らす。珈琲用の薄い紙の準備は万全で、逆三角形のカップの中には香ばしく炒られた豆の粉が、こんもりとした山を作っていた。  僕は別に珈琲がどうしても飲みたいわけじゃないけれど。なんて殊勝な事を言いやがったのはムッシュだが、俺はすっかり薄い珈琲じゃないと一日が始まらない体になっていた。  アンリは朝起きると、日本式の薄い珈琲を淹れる。大本を辿れば米国式のアメリカンってやつなのかもしれないが、俺はアメリカンを飲んだことがないから薄い珈琲はすっかり日本のイメージになった。  さっぱりと薄い。けれど舌の上にうっすらとコクが残る。飲み干した後にほんの少しだけ余韻が残るような、爽やかな飲み物だ。  勿論カフェで飲むエスプレッソも愛しているが、朝起きて最初に飲み干すものはアンリの薄い珈琲が良い。  我儘になった俺の身体の為に、ウイルスと戦っているアンリを引っ張り出すわけにはいかない。それならば俺が自分で挑戦するしかない。 「ムッシュはあれだろう、オーレリー・コラールは一日中喋りながら絵を描くことしかできない男だと思っているのだろう?」 「……え、いや、そんなことは……」  こぽこぽと、耳に心地よい音を伴いながら、珈琲の粉にお湯が満ちる。白く暖かい湯気が霧のように舞い上がり、俺達の安い鼻にも香ばしい香りが届いた。 「いや正解だ! 大正解だから言い訳なんて一つもない。けれどなムッシュ、やってみなきゃ何事もわからない。俺にだって深夜にココアの粉を溶く事以外に、できることがあるかもしれない!」 「…………オーレリー、二分蒸らすって書いてあるけどもう五分……」 「なんだって? いや、大丈夫だろう、心を強く持とうムッシュ。何も飲めないものが出来上がるわけじゃないさ。何と言ってもこの豆はアンリが譲ってくれた、いつものやつだ! 俺が買い出しから始めたらきっととんでもない珈琲を生成していただろうが、素材は同じだ。粉とお湯、これだけだ。調味料を計量するわけでもない。多少風味が変わっても、豆の汁であることに変わりはない、そうだろう?」 「あ、わ……こぼれ、オーレリー、ちょっと、……あああ……」 「……もう一回こせばきっと飲める!」  うっかりフィルターの上にお湯が溢れ、本来ならば透き通った美しい焦げ茶色の液体で満ちる筈の硝子のポットに、粉そのものが流れ込む。  こいつはひどい。どう見てもゴミが浮いているようにしか見えないし、実際ゴミが浮いている珈琲そのものだ。  店でこれが出てきても俺は怒らないが、ちょっと笑っちまうだろう。店員を呼びつけて、頑張れよ新人とチップを握らせてしまうに違いない。とにかくそれ程に初々しくも残念で、どう見ても不味そうな出来だ。  珈琲豆の粉が舞い踊る透明なカップは、好意的に見ればスノードームのように見えなくもない。まあ、スノードームの中身が旨そうかと言えば勿論否なわけだから、飲み物としては胸を張って失敗だ! と叫べるだろう。  失敗だ。どう見ても失敗だ。なんというか、これは……うはは、と思わず笑ってしまいそうだ。笑う以外の選択肢がない。  正直俺も驚いた。得意なものなんてほどんどないなんて言いながら、珈琲くらいは淹れられるさ何と言っても俺はフランス人だから、なんて思っていたのだ。  困った。俺はフランス人ですらなく、ただの煩いだけの黒人なのかもしれない。  ムッシュと二人でゴミの浮いた液体を眺め、仕方なくムッシュがもう一度フィルターを使ってゴミを取り、キッチンで立ったまま確実に胸を張って失敗したと言えるその珈琲を飲む。あまりにも不味くてもう一度全力で笑う。  不味い。これは不味い! なんて素晴らしいんだアンリ。まったく俺たちは毎日、あいつの魔法のかかった珈琲を当たり前のように飲み下していたわけだ。  ひとしきり笑いながら、くそみたいに不味い珈琲を責任もって一人で飲み干し、俺は新しく湯を沸かすことにした。  俺の横であわあわと見守ってくれた友人思いのムッシュに、新しくせめてそれなりに麗しい飲み物を提供しなくてはならない。慣れない事はするものじゃない。挑戦は大切だが、いつもの慣れ親しんだ味が怠慢だというわけではない。 「まあ、なんだ……これで俺は一つ学習したわけだ。俺にはアンリのように旨くて薄い珈琲を淹れる才能は皆無だ」 「…………でも、僕は、オーレリーが夜中に溶かしてくれる暖かいココアが、とても甘くて、心が満ちるような気がするから……ええと、好きだよ」  無駄に使ったコーヒーフィルターをダストボックスに放り込みつつ、ムッシュは相変わらずの甘さで言葉を吐き出した。  薪といっても、色々な薪があるもんだ。  十人の人間がいれば、十色の色がある。  人間はみな別の生き物で、別々に呼吸をしていて、別々の事を考えながら生きているし、得意なものと不得意なものだって別々だ。  クレマンは歌が得意で料理が下手だ。リュカはダンスが得意で集中することが苦手だ。そして俺は珈琲を淹れる事が苦手で、ムッシュ・シュクレはそんな俺を励ますことが得意だった。  さっぱりと飲み下すアンリの珈琲は、やはりアンリでなければ作れない。  大人しくココアの粉を溶きながら、俺とムッシュは天井を見上げて早くあいつがウイルスに打ち勝つようにと、溢れる愛情を言葉にして投げつけた。

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