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麗しく贅沢なオレンジ
指先から骨の内側まで凍えてしまいそうな寒い日には、ショコラ・ショーを飲まなければならない。
これは義務ではないけれど、私にとってのジンクスのようなものだ。
なにもかもうまくいかない日は、深く沈み込むような味のエスプレッソ。少し浮ついた気分の日は、さっぱりとしたオレンジジュースで心をフラットにする。そして、皮膚が凍えて吐いた息すら凍るような日は、どろりと甘いショコラ・ショーだ。
沸騰する前のミルクに、クーベルチュール・チョコレートをたっぷり溶かした濃厚な飲み物。
私は普段からあまりチョコレートを口にはしないけれど、カフェのショコラ・ショーの魅力には抗えない。熱いカップからどろりと口の中に広がる甘さは、夏の昼間に飲む冷たい炭酸と同じくらいに素晴らしい。
マフラーを巻き直し、冷たいマネキンのように凍えた身体をカフェの隙間に滑り込ませた途端、暖かい照明と深い珈琲豆の匂いに包まれる。不思議と妙な懐かしさを覚えた私は、ここ最近は仕事帰りのカフェ通いをしていない事に気が付いた。
以前は帰路の途中にあるカフェの魔力に抗えず、毎日のように疲れた心をカフェ・クレムで慰めていたものだ。家に帰って自分で珈琲を淹れてもいいのだけれど、やはりプロの味は格別だ。パンはパン屋で買うべきだし、おいしい珈琲はカフェで飲むべきだと思う。
時間がなかったわけでも、疲れていなかったわけでもない。
相変わらず私の勤め先は盛況で、外の寒さなどまるで関係ないように毎日お客様は押し寄せる。暖かい豆のポタージュ。さっぱりと酸味を利かせたパプリカのサラダ。オレンジのソースが麗しい鶏肉のソテーと白身魚のフリット。ソムリエが選んだワインの後にはストレートの珈琲とクリームブリュレ。
次々に厨房から消えていく料理を見送っているうちに、あっという間に一日が終わる。満足感がないとは言わない。けれどやはり疲労は残る。
冬のレストランは忙しい。ヴァロンタン付近は特に慌ただしく、今年はスタッフが数人流行りの風邪にノックダウンしているから、余計に忙しく感じてしまう。その上今日は、どうしても抜けられない打ち合わせの為に遠出を強要された。身体も心も、疲労と寒さですっかりくたびれてしまっている。
去年の私は忙しい二月の夜の疲れを、ほとんど毎日カフェで吐き出してから帰路についた。けれど今年の私は真っすぐに家に帰り、暖かいスープを温めながら、一日の疲れを言葉にして電話口に連ねる。
年下の花屋の主人の事を恋人と呼ぶことに、あまり抵抗も無くなった。フレデリックは、いつもわたしが恐縮するほどの暖かさで相槌を返してくれる。彼は当たり前のように優しく、ささくれ立った私の言葉を難なく笑って受け流してくれるから素敵だ。
電話じゃなくて直接ウチに来たらいいのに、と彼は言う。
でもこんな時間にお邪魔したら本当に邪魔でしょう? と私は主張する。
このやり取りに、決着はついていない。私とフレデリックは根本的には別のタイプの人間で、とても小さな問題でも解決するまでに多大な時間と話し合いと譲り合いが必要になる。
何と言っても私はナタリー・マルタンだ。パン屋シュミネの主人に並ぶ程の固い女なのだから。表情に負けないくらい、頭の中も固い。年下の恋人がいくら可愛くても、私の根本的な頑固さはどうしようもない。
臆病で面倒くさいのに見栄ばかり気にしてしまう。そんな自分に時々無性に腹が立つが――やめよう。その話は、今は無し。私はそう、暖かいショコラ・ショーを堪能しに来たのだ。
平日のせいか、寒さのせいか、いつもは混んでいる店内で寛ぐ人はまばらだった。皆家に帰って家族と過ごしている時間だから、仕方ない。フランス人は夜を家で過ごすものだ。
厚着だらけのフランス人を見渡してふと、その中に、見慣れた人を見つけた。
馴染みのパン屋の主人は私に気が付くと、口角を一ミリも動かすことなく器用に友愛の表情を浮かべる。
本当に、びっくりする程クレマンは笑わない。私に言われたくはないだろうけど。
別に彼が笑おうが笑うまいがどうでもいいと言えばその通りなので、クレマンの斜向かいに腰を下ろした私はほんの少しだけ肩を竦めて、口角を上げる努力をした。
ちなみに私の方も、努力が実るとは限らない。何と言っても私の表情も、クレマンと同じくとても固い。
「やぁ、ナタリー。久し……もしかしてクリスマス以来?」
けれどこの笑わないパン屋の主の言葉は、思いの外柔らかい事を知っているので、私は安心して他人に対する殻を脱ぎ捨て言葉を返すことができた。クレマンはいつも、とてもフラットで良い。私は彼の作るパンも、彼の事もかなり気に入っている。
「……そうかも。最近寒くてすっかり家から出ないからダメね。せめてシュミネまで歩くようにしなきゃって思うのに、出来合いの硬いパンで済ませちゃう。だって冬は寒いし忙しいもの、なんて言い訳してね」
「全くだよ。僕も最近はパンの材料の買い出しに行く程度しか動いてないね。久しぶりに街に出てみればもう二月も終わりでびっくりだ。一体僕は今月何をしていたのか記憶にすらない。……ところで何でそんな微妙な位置に座ったの? 正面に来たらいいのに」
「え。だって、待ち合わせだったら邪魔かしら、と思って」
「こんな時間に僕と待ち合わせをするような奇抜な人はいないよ」
そう言ってクレマンは、さっと私の正面に移動する。ついでのように彼は、目の前に置かれていたロングカクテルグラスも移動させた。
「オレンジジュース?」
こんな寒い夜なのに珍しい、という本心がすっかり透けていたらしく、笑わないパン屋の主人は軽くて長い息を吐いてからグラスを傾ける。
グラスに半分残っていた薄い黄色の液体がさらりと波打つ。百パーセントのオレンジジュースではないらしい。濃いオレンジジュースは、もっととろりと波打つ。
「ミモザだよ。正式名称は、ええと……」
「シャンパーニュ・ア・ロランジュ。シャンパンのオレンジジュース割りね。世界一贅沢なオレンジジュースと呼ばれる素晴らしいカクテルだわ」
「流石、レストランのシェフだ。ナタリーは一々色々なものに詳しいから面白い」
「カクテルは専門外だけど、綺麗な言葉が頭に残っていただけよ。調べ物は趣味。気になっちゃうとすぐ調べないと気持ち悪くて苛々しちゃう面倒な女なだけ。……二月の夜にミモザなんて洒落た飲み物、どうしたの?」
「ん? うん。ちょっと頭をすっきりとさせようと思ってね」
なんと珍しいこともあるものだ。
クレマンの頭の中が、煩悩や不純なもので濁る事などあるのだろうか。気安さだけを武器に、私は少々どころかかなり不躾なこの気持ちをとてもストレートに口にしてしまった。けれどクレマンは嫌な顔もせずに肩を竦めてすとんと落とす。
クレマンは笑わないし、クレマンは怒らない。この人の変わらぬ固いフラットさは、夜のカフェの心地よさに似ていると私は気が付く。
「残念ながら僕も人間という生物の一人だ。なんなら本当に脳みそまで石なら良かったと思わなくもないね。悩むことがない人生は、ひどく簡単そうで良い」
「わかる。わかるわ、それ。私もナタリーは笑わないなんて揶揄されるけれど人間だもの、悩むし苦しむし悲しくなるし怒るし辛いときだってあるのよね。本当に笑わない人だったなら、たぶん、もっと楽だったわ。……でもその分、喜びもない」
「それなんだよね。そう、うん。まあ、人間って奴は本当に面倒だなってことだ」
「あなたの悩みは、オーレリーやアンリには相談しないの?」
メニューをざっと見ながら私が口にした名前に、クレマンはどんな反応をしたのかわからない。私の目はショコラ・ショーを探していたから。
とりあえず彼は嫌そうでも楽しそうでもない、いつも通りの声のままミモザを飲んだ気配がした。
「僕のパン屋の上の住人達は善良で愛に満ちすぎていて僕には少し熱すぎる。温まりたい日にはぴったりだが、頭を冷やしたい時には向いていない。オーレリーは情熱的すぎる。アンリは優しすぎる。屋根裏のムッシュに関しては最悪だ、他人の感情に引きずられて最終的にはあの被り物の中身が涙で湿気ってしまうからね。晴れ間の無い冬に、彼の頭を湿らすわけにはいかない」
「……確かに、あの人たちはみんな優しすぎるわね」
クレマンの的確な描写に思わず笑ってしまいそうになる。
屋根裏のシュクレさんに関してだけは、実は私はいまだによく知らない。何度か顔を見る機会には恵まれているものの、きちんと話したことがないからだ。
けれど私は彼の作るマカロンが、素晴らしい味だと言うことを知っている。だから、というわけではないけれど、シュクレさんにはぜひ優しい人であってほしいと、とても勝手な妄想を押し付けている。
アンリとオーレリーと、そしてこのクレマンまでもが『彼はこちらが泣きたくなる程に優しい困った奴だ』と口を揃えるのだから、本当に全くその通りなのだろう。
二階の住人には零せないクレマンの悩みを、私は聞き出すつもりはない。
けれど彼が二人分のオペラのパンフレットを持っている事だとか、いつもよりすこし上等なコートを羽織っている事だとか、そんな些細な事にうっかり気がついってしまったから、殊更興味のないように努めながら私もミモザを注文した。
「……珍しいね。君はいつも、夜のカフェでエスプレッソを静かに飲んで、ゆっくりとため息を吐いているイメージだった」
「たまには冷たいドリンクをさっぱりと飲みたい時もあるのよ。日本人は『喉越し』って言うんでしょ? アンリが言っていた。日本のビールは味じゃなくて喉越しが重要なんだって話、何度聞いても釈然としない」
「それは確かに釈然としないな。ビールは味を楽しむものだろうに。……あ。そういえばナタリー、きみは今日レストランには出勤していないんだっけ?」
「ええ。コンペの打ち合わせにマルセイユに。平たく格好良く言えば出張って奴ね。それがどうしたの?」
「アンリで思い出したんだよ。まあ、明日キミが出勤すれば否応なく直面する事実だけどね、どうせなら早めに悲しい気分を味わっておけば、当日の悲しみは半減するかもしれないと思ってさ。アンリは暫く病欠だよナタリー。今日体調不良で早退してそのまま彼は天井裏に隔離、そのままベッドの住人だ」
「……うそ。ガストロ?」
「いや、グリップだってさ。どちらも嫌だけど、感染力的にはマシな方なんじゃないかってオーレリーは笑っていたよ」
私の後輩は胃腸炎ではなく、インフルエンザにかかってしまったらしい。なんてことだ。それは確かに悲しいニュースで、辛いニュースだ。明日からの忙しさを思うと少し重い息が出そうになる。
この時期のフランスは、インフルエンザは勿論のこと、ガストロと呼ばれる胃腸炎全般が異様に流行る。私達は食事を提供する人間だから、ガストロにはとても敏感になる。
勿論インフルエンザだって困った病気だし怖いウイルスだ。今頃アンリはベッドの中で熱にうなされているだろう。かわいそうだとは思うが、医者に行ってしまえばあとは友人である私達に出来ることは少ない。
後はもう、アンリの体力の問題だ。私はアンリの身体が病気に打ち勝ちますようにと、祈ることしかできない。
「それじゃあ明日から倍の忙しさね……最近スープはずっとアンリ任せだったから、味を思い出すことから始めなくちゃ」
「悪いね。フレデリックも出張だか親戚の手伝いだかでマンドリュー・ラナープルだろう? キミの疲労のはけ口になるなら、いつでも深夜のカフェにオーレリーを派遣するよ」
「………………」
「……ナタリー? どうかした? 明日がそんなに憂鬱?」
「え、いえ、仕事はそうでも……ただ、ちょっとびっくりしたの。あなたまでアンリの代わりに謝るものだから」
「……ああ。本当だ。何で僕は謝ったんだ?」
「知らないわよ。でも何となくわからなくもないわ。だって私だって明日料理長にきっと謝っちゃうわ。『ごめんなさい、アンリの穴は私がどうにかするわ』って」
私たちはすっかり彼の保護者気どりなのだ。と、気が付いて、恥ずかしいような気まずいような、それでいて少し誇らしいようななんとも言い難い気持ちになった。
私の目の前に、オレンジ色のロンググラスが届く。ほんの少し持ち上げて、今日はやっぱりショコラ・ショーじゃなくて冷たいオレンジの飲み物で正解だったと思った。
不思議に浮ついてしまった心は、オレンジジュースでフラットにするべきだ。手元の贅沢なオレンジジュースには、ちょっとだけお酒も入っているけれど、オレンジには変わりない。
軽くグラスを掲げると、クレマンもグラスを掲げてくれる。本当にこの人は思いもよらず優しい人だ。
明日がちょっと憂鬱だ。でもそれよりも、アンリの事が心配だ。そう言えば私はあまり風邪にかからないし、ひどく体調を崩すこともない。だから鉄の女だなんて言われてしまうのだけれど、故に病人相手に何をしてあげたらいいのかわからない。
フレデリックは今、南フランスにいる。急に旅行に行くことを決めた母親が心配だからと、一時的に店を閉めて旅立った。旅立ったと言っても同じフランス内だし、時差があるわけでもない。
グリップに効く食べ物は何かしら。胃腸炎にはコーラだとうちの母は言っていたけれど、日本人もそれでいいのかしら。フレデリックに相談するべきことを考えながら、明日はカフェには寄らずに帰らなきゃと思う。
麗しいオレンジジ色の飲み物は、甘い余韻を残してするりと喉の奥に消えていった。
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