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【短編】あいのはなし。
寒いから愛の話をしよう、と絵本作家が声を上げたのは冬の初めの夕刻だった。
私は切ったばかりの電話を手に持ったまま、アンリはまだ熱いジンジャーティーが入ったマグカップを掲げたまま、そしてムッシュ・シュクレは毛布をかぶってベッドの隅に縮こまりながら、かの突拍子もない発言に定評のあるオーレリーの言葉に各々返す言葉を探した。
まず、呆れたように白い息を吐いたのはアンリだった。
当たり前のように馴染んでしまったこの年下の日本人は、いまやオーレリーの取っ散らかった言葉に丁寧に付き合ってやる唯一の人間となった。今まではムッシュがその役目を担っていたのだが、言葉を放つ前にゆっくりとそれを探すムッシュが口を開く前に、アンリがすっかり流ちょうになったフランス語を口にするのだ。
「寒くて思考回路固まっちゃったんじゃないの、オーレリー。アンタは言葉を吐きだす前に、熱い珈琲を飲んだ方がいいと思う」
「俺だってできればそうしたいさ、でもな! 五分前までは熱々だった珈琲も、見てみろよシェフ、すっかり温いだけの液体だ! とんでもなく寒い。結局少々身体の中をあっためた所で、この底冷えるような寒さにはかなわないのさ。ガタガタ震えて温い飲み物に縋るよりも、そうさ、心があったまるような話をしたらいい、と俺は考えた!」
「……普通にその辺走ってきた方が体温上がると思うけど」
「残念ながら俺はスポーツマンじゃないんだ。大体アンリもクレマンも、休日を運動に費やすようなタイプじゃないだろう、この愛すべき同類たちめ! それに俺たちが外に出てしまったら、誰がムッシュ・シュクレをあっためるんだ、なあそうだろう?」
一瞬、全ての視線を受けたムッシュだったが、いつものようにのっぺりとしたぬいぐるみの顔を傾げるだけで、あの柔らかな言葉は出て来なかった。どうやら寒くてうまく喋れないらしい。あんな寒々しい屋根裏に住んでいるのに、この引きこもりは寒さが苦手なようだった。
我がシュミネを一階に構えるメゾン・ブーランジェは、ありがたいことにセントラルヒーティングだ。
私が建てたわけではないのでそこのところは先人に感謝するしかないが、常にどこにいても快適なはずのこの建物は、生憎と昨日の朝から凍えるように寒い。
普段、何もしなくても家自体が勝手に暖かくなっているので、この暖房システムが急に沈黙してしまうと、私たちは大いに慌てる事しかできない。パン屋上の住人達は朝から何度も湯を沸かし、ありとあらゆる服を重ね着し、まるでアラスカの洞窟にでもいるような面持ちだ。
何が原因でどこのシステムが馬鹿になってしまったのかはわからない。たったいま折り返しがあった近所の電器屋は、今日はもう店じまいだから明日行くよとすげない言葉を愛想よく放ち、私とブーランジェの一同を更に絶望の底に叩き落した。
……まあ、これは言い過ぎかもしれない。
停電しているわけでもないし、ガスが止まっているわけでもないので、要するに室温が上がらないだけだ。私のあばら家にある小さなヒーターは、タイミングが悪い事に先週から壊れている。家にいたところで、本を読んで寝るだけの生活だから、多少寒くても不便だとは思わなかった。
つまり私は割合平気なのだ。寒さには慣れているし、少々歯がガタガタとかみ合わないだけでもどうということはない。冬はそういうものだと思っているからだ。
しかし、どうも小うるさい絵本作家は寒さに耐えられないらしい。
煩い口は寒さで凍えて固まることなく、更に煩く喚くのだから手に負えない。ただし、オーレリーに関して言えば『耳を塞いで放っておく』という選択肢もある。私がどうにかこの部屋の気温を上げたいと心を砕くのは、絵本作家が大げさに喚くからではない。ただでさえ背中が丸いムッシュ・シュクレがあまりにも不憫な様子で身体を震わせているからだ。
確かに私たちは運動には向かないし、ムッシュは更に無縁だろう。この数年、ほとんどこの建物から出たことがない引きこもりは、少し体を動かすだけでも息が上がるに違いない。
何よりあの大きな被り物の中では、満足に酸素も供給できない筈だ。まったくもって難儀な生き物で、まったくもって愛おしいと思うから、私もついにオーレリーの面倒な愛情表現が移って来たのかもしれない。
震えるムッシュを毛布で埋めたアンリは、普段は絶対にそんなことはしないのだが、この日だけは特別とばかりに彼にぴったりと寄り添いながら、オーレリーに新しい珈琲を渡した。
「心があったまるような話って言ってもなぁ……要するにそれって、良い話ってこと?」
新しい暖かなカップを握り直し、オーレリーの白い息を吐いた。寒い寒いと文句を喚きながらも、この男はやたらと嬉しそうに笑うものだと感心しつつ、私もアンリから新しい珈琲を受け取った。
「良い話ってやつは感動するが、時にそれは湿っぽい涙も誘うもんだ。心が満たされれば寒さも暑さもどうでもよくなることもあるかもしれない。が、今はもっと端的に、簡単に体温を上げたいと俺は思う、なあそうだろ?」
「オーレリーがジョギングの代わりに言葉を求めている事は理解してるけど、もっとこう、わかりやすく提示してくれないと」
「俺は最初から至極シンプルに提示しているさ! 寒いから、愛の話をしようと言っているじゃないか! そうさ、愛ってやつはシンプルに見えて複雑で、その種類は様々で、結局同じ愛情を理解することなんかできない。だから個々の話のおこぼれで、俺はホットな気分になりたいんだ」
「……それってつまり、あー……俺とか、シュクレさんの、個人的な愛を語れってこと?」
「まさにその通りだな! 聞きたきゃ俺の愛を語ってもいいが、残念ながら今は強烈に誰かを愛してはいないんだ。俺の愛情は毎朝顔を出す太陽と夜空から落ちてくる神様のアイディアに注がれている! と言ったらそれなりに聞こえなくはないが、まあ、寂しい独り者には違いない。毎日割合満ち足りているから、自分の境遇が不幸だとか足りないとか思う事はないけどな」
言いたい事だけ言った絵本作家は、さあ、とアンリを促す。
目で言葉を強要されたアンリは、しばらく黙った後に視線を逸らしながらなんとも言い難い表情を作った。
……確かに愛のはなしは、人の体温を上げるのかもしれない。アンリはすっかり動揺している様子で、私が助け舟を出す前に早くも降参の言葉を放った。
「無理。……わかったよオーレリー、アンタの言う事は正解だ。確かに愛の話は他人とは共有できないし、寒さなんてどうでもよくなる。ついでに言うと、お裾分けはしたくない」
「なんでだ! いいじゃないか、たまには俺にもお前たちの愛を見せつけてくれ。俺はな、アンリ。お前が好きだしムッシュが好きだ。好きな友人と友人がハッピーになっているんだ。勿論そのハッピーはお前たちだけのものだが、ちょっとくらい覗き見したいという気持ちだってある」
「アンタのその言葉が好奇心じゃなくて真面目に愛情から成り立っているってことを、俺は知ってるから余計に嫌だよ……」
そうだ、愛情には、様々な形がある。
ムッシュとアンリの間にある愛情とは別のものが、オーレリーとアンリの間にもあるに違いない。
愛が目に見えるものならば、この部屋は煩い程にそれで満ちていることだろう。
勿論私も彼らの事を疎んでいたり、嫌っている訳がない。そうでなければいくら自らが管理している建物とはいえ、寒い寒いと同じ事ばかりを繰り返すこの住人達の暖取り談議にわざわざ付きあったりはしないのだ。
すっかり照れた様子のアンリでまだ満足できないオーレリーが、今度はムッシュをつついたが、彼は相変わらず凍えている様子だ。若干心配になってきた。ムッシュへのクリスマスプレゼントは、小型のヒーターにした方がいいのかもしれない。
ムッシュが可哀そうにも言葉を紡げる程の元気がないとわかると、慈悲深いオーレリーは当たり前のように私に視線を向けた。まあ、そう来ると思っていた。何しろこの部屋には四人しかいない。仲間外れにされても私は怒らない、ということを彼は信じていないのだから仕方がない。
「嫌だという人間の口から言葉を引っこ抜くような真似は、俺だってしないさ。ムッシュは凍えて言葉を作る余裕もない。アンリ、クロークの中のマフラーを巻いてやったらどうだ? どっかにあるだろう、確か去年放り込んだ筈だ。――なあ、クレマン、石頭だって愛を感じる日もあるだろう? どうだ?」
にやり、と笑うのがまた腹立たしい。
思うに私はこの男の顔が腹立たしいのだと思う。これは人格や愛情には関係なく、単に私の好みの話だから口には出さない。私が他人の顔や見た目に関して何かを思う事は珍しく、そういう意味ではオーレリーは特別な人間だ。
もう一人の特別な人間は、今は夜間営業に切り替わった階下のパン屋のレジで、ダウンコートを着込んで震えていることだろう。
別に、見た目が好きだという明確な自覚があるわけではない。ただ、隈を作っていれば寝不足は成長を妨げるし感情を揺さぶるよと声をかけたくなるし、髪をくくっていれば柔らかな髪に痕がつくのではないかと余計な心配をしてしまう。日々気になるのだから、私は彼の見目に関して何か思うところがあるのだろう。
これが愛かと問われれば、私はしばらく唸ることしかできない。
その議題は、私の中でさえも答えが出ていない。
この感情が愛ではないのならば、私は愛と言うものを知らない生き物なのかもしれない、とも思う。
愛なのだろうか。違うのだろうか。
しかしどう言い訳をしてみても、私がリュカ・ティオゾの毎日の髪型に興味を持ち、彼の健康と体調に口出しをしてしまう口うるさい大人になってしまうのは、私が彼に何かしらの感情を抱いているからに違いない。
愛なのだろうか。どうなのだろうか。まあ、大まかに言えばそれは愛だ。
愛には違いないのだが、それではどんな種類の愛なのかと言う話で、私はまた唸ってしまうので、結局石頭を言い訳にはぐらかすのが常だった。
熱いと思っていた珈琲は早くも温い。ふわりと立ち上がる白いもやの奥で、腹立たしい顔で笑う絵本作家にぶつける言葉を考えてはみたが、どうもうまく言葉がまとまらない。寒さは確かに、思考を鈍らせるのかもしれない。
ついでに寒さは判断も鈍らせるのだ、と私は言い訳をして、オーレリーの視線から逃げるアンリに暖かいグリューワインをリクエストした。
「お、なんだ飲むのか相棒! クレマンが酒を飲むのは珍しいことじゃあないが、いつもは夜の帳が降りてきてからだろう?」
「僕は朝からビールを飲むドイツ人の血を引いてはいるが、酒と共に仕事をするタイプじゃないものでね。それにグリューワインは好きじゃない。僕には先ほどの珈琲が残っている」
「じゃあその甘いワインは誰が飲むんだ」
「誰も彼も、暖かい飲み物を欲しているのはこの部屋の住人だけじゃないだろう」
「そうか、逃げるつもりだなクレマン! だが、そうだな……寒いと震えているパン屋のバイトは確かに不憫だ。何より暖かい愛をこの部屋だけで独り占めしているのは、よろしくない。ジョギングの代わりにアンリとムッシュは愛を語らえばいいし、クレマンはホットワインを差し入れればいい」
「……んで、オーレリーはどうやってあったかくなるの?」
キッチンスペースからアンリが顔をのぞかせると、オーレリーはあの腹立たしい笑顔で白い歯をのぞかせ、白い息を大いに吐きだした。
「俺は愛の話を想像するだけで十分だ! 妄想でも想像でも白い紙にそれを叩きつけて仕上げる空想をするだけで、お手軽にホットになれるんだ。まったくエコで素敵な人間だと思わないか?」
「言ってろ、言葉のペテン師」
ふははとアンリが笑い、熱いよと言って私にカップを渡してくれる。
ありがとうと言葉を返し、寒いが何かで満ちたその部屋を出て外の階段を下った。
いつもはそれなりに威勢のいい声で迎える夜の店員は、今日は椅子の上で縮まっている。先ほどのムッシュを思い出して、おかしいような、心配なような、どうにも不思議な気持ちになった。
「……やっぱり寒いか。明日、リサイクルショップでヒーターを買ってくるよ。キミの次のバイトの日には、暖房が直っていなくてもきっと足元くらいはあったかくなっている筈だ」
亀のように首をすくめるリュカに、暖かいグリューワインのカップを渡す。一瞬触れ合った指先はまるで冬の調理場に下がっている泡だて器のように冷たく、思わず眉を顰めてしまう。私の些細な表情の変化に聡いリュカでも、今日は寒さで鈍感なようだ。
「サンキュー旦那……っあー、いきかえるさっむい……」
「だから、今日は閉めようかって言ったんだよ」
「駄目だよ今日金曜だろ? マニュエラさんが姪っ子連れて来る日なんだよ……あともうちょっとしたらたぶんアンリのとこの、あー……なんだっけ、あの強そうな……」
「ナタリー?」
「そう。それ。ナタリー。あの人が来る。金曜だからさ。金曜の夜には八十パーセントくらいの確率でブリオッシュ買ってくんだあの人。今日は寒くて売れ残ってるだろ? だからオレは夜の八時まではここに座ってなきゃいけないの」
「まったくキミは本当に見た目以上に真面目なレジ係だね。……外はもう真っ白じゃないか。ちゃんと帰る算段はあるの?」
すっかり雪で埋まった路地を眺め、温くなった珈琲を飲み込む。
はしたない音をたててシナモンくさいグリューワインを啜ったリュカは、斜め上くらいを眺めながら適当な声を吐き出していた。こういう時の彼はひどく照れている。恐らく、痒いような、不思議な気分を味わっているのだろう。夜中に愛の事を真面目に考える私と、きっと同じような気分に違いない。
「……道が雪で埋まってヤバそうだったらオーレリーとアンリに掛け合ってみる、けど、暖房壊れてんのに邪魔かなぁー」
「暖房とキミの外泊はあまり関係ないだろう。キミが布団に入ってしまえば、寒くたって問題はないというのならね。案外、泊まって行った方がいいかもしれない」
「え、なんで? 暖房壊れてるのに?」
「暖房が壊れているからだよ。ムッシュとアンリは、同じベッドで体温を分かち合った方が合理的だと僕は思うからね」
デバガメしてけしかけてきたらいいよ、と言い放つ私に、リュカはうははと声を上げた。
最近笑い方がアンリに似てきたように思う。彼らは時に兄弟のように仲がいいので、それも仕方のない事だ。オーレリーに似るより断然いい。
繰り返すが私は決して、あの絵本作家を憎んでいるわけでも嫌っているわけでもないし、大まかに分類するならば愛していると言ってもいい。友愛をはぐくんでいたとしても、腹立たしいと思う事は多々あるので、それはそれ、という話である。
アンリのように笑うリュカは、アンリの作った甘いグリューワインを飲み、そしてアンリをベッドから屋根裏に追い出して、あの寒くて愛で満ちた部屋で眠るのだろう。
そして私は、ヒーターの壊れた裏の寂れた家に戻り、読みかけの海洋冒険小説を数ページ片付けて、冷たいベッドに入って息を吐き、愛について考えるのかもしれない。
別に私は寂しいとは思わない。
思わないが、ほんの少しだけ、熱いような愛情の欠片に触れてみたくなり、悪戯心の赴くままに口を滑らせた。
「帰らないのならばアンリのベッドではなくて、僕の部屋で寝てもいいけれど」
「え」
「…………なんだい、その顔は。喜ぶか嫌がるか、せめてそのどっちかにしなさい」
「お」
「お?」
「おどろいて、ん、の……」
その後に真っ赤になるリュカの顔を眺めていたら、そうか寒さはやはり愛で解消すべきなのだと言ったオーレリーは間違っていなかったのかと、少し癪な気持ちになった。
「もーなんだよ急に降りてきてさーそうやって息するみたいに急にさーそういうこと言うの、ほんっと、もー……そういう事言ってオレが本気にしたらさ、どうすんの旦那……」
「一緒に寝るよ。誘ったのは僕だからね。断じて横になるだけだがね」
「……………オレが、大人だったら?」
「…………」
「ガチで悩むのやめてよこえーから……オレが悪かったよ………つか何しに降りてきたんだよ旦那……ワイン余ったの?」
「いや、そういうわけでも、ないのだけれど」
愛の話をしていたら、顔が見たくなった。
――というのは、流石にどうか、と思うくらいの理性はまだあった。
寒い日は、愛の話をするべきなのかもしれない。
end
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