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第26話 分かっていたこと

 加賀屋教授と共にその絵を大学のアトリエへと搬入し、教授と二人で今後の修復プランなどを話し合っていると、あっという間に日が暮れてしまった。  ――あいつ、どうしてるかな。  先に自宅に帰り、シュリの携帯に連絡を入れて住所を伝え、うちまでティルナータを連れて帰ってきて欲しいと頼んでみた。するとシュリは「この俺を顎で使うとはなんたる無礼か!! 俺がその気になれば貴様など、」と電話の向こうで何やらギャーギャー怒っていたけれど、俺は新たに舞い込んできた修復依頼のことで頭がいっぱいだったから、無視した。  ――異世界の風景。おそらく、エルフォリア王国の景色……。ティルナータがそれを見たら、どういう反応を示すだろう。  ……二週間、それまでティルは俺のそばにいてくれるんだろうか。 「……ユウマ、戻ったぞ」  キッチンに立ち、腹を空かせて帰ってくるであろうティルナータのためにレトルトのカレーを温めていると、ガチャリとドアが開いてティルナータが帰ってきた。どことなく、暗い表情を浮かべて。  俺はすぐにティルナータを抱きしめた。ほんの数時間離れていただけなのに、再会がこんなにも嬉しい。しなやかな痩身を強く強く抱きしめていると、ティルナータは俺の背中に腕を回して、苦しげなため息をひとつ吐いた。ちょっと強く締め付けすぎたかと身体を離すと、ティルナータは潤んだ瞳で俺を見上げて、切なげな表情を浮かべている。 「……ティル? どうしたんだ」 「ユウマ……」  ぐいっと背伸びをして、俺にキスをしてくれた。ただの帰宅の挨拶のキスかと思っていたら、ティルナータは俺の首に両腕をしっかりと絡め、自ら舌を挿し入れて、積極的に迫ってくる。俺はびっくりしつつもその行為をあっさり受け止めた。細い腰を抱きしめながらセーターの中に指先を忍ばせ、艶やかな肌を微かに撫でた。 「ユウマ……ユウマ……」 「どうしたんだよ。……シュリと、ゆっくり話せたのか?」 「……ユウマ、僕は」  ティルナータは動きを止め、俺の肩口に顔を埋めた。そしてしばらくの間、じっと押し黙っている。何やら物言いたげな雰囲気は伝わってくるものの、何となく声を掛けづらくて、俺はただティルナータを抱きしめていることしかできなかった。 「……ティル?」 「……なんでも、ない。……そっちはどうだった?」 「え、ああ……。こんな時だけど、仕事が入って……。明日からはしばらく、大学のアトリエに引きこもることになりそうなんだ」 「え……そうなのか」 「一緒に来るか? 手伝ってくれとは言えないけど、そばで作業を見てるくらいなら、許してもらえると思うし。俺も……その、ええと……」 「?」  言い淀んでは見たけれど、今さら恥ずかしがって言葉を選んでいる時間ですら、今は惜しい。俺はティルナータをじっと見つめて、ストレートにこう言った。 「ティルナータと一緒にいたいんだ。ただ見てるだけでつまんないかもしれねーけど、一緒に来ないか」 「……うん、行く。行くよ」 「そ、そっか……」  ティルナータはこくこく頷きながら即答してくれた。俺は嬉しくなって、今度は自分からチュッと音を立てて桜色の唇にキスをする。 「それで……どうしたんだ? シュリからどんな話があったんだよ」 「……それは……」 「? 言いにくいこと、なのか?」 「今は……まだ、言えない。まだ……自分でも信じがたいことで……」 「そっか……」  ティルナータの表情は、やはり冴えない。  帰らねばならないという義務感と、俺のそばで平穏に生きていたいと願ってしまうことへのジレンマで、ティルナータはひどく苦しんでいるように見えた。  こんな時、どんな風に声を掛けてやれば正解なのか、俺には全く分からなかった。  俺自身の願望を押し付けるならば、元の世界になんて帰るな、ここにいてくれと言い放てばいいだけのことなのかもしれない。でも、ティルナータはそれを望んでいるのだろうか。エルフォリア王国でのティルナータは、騎士団を率いる戦士だった。まだ戦争も終わっていないという状況で、ぬくぬくと自分だけ日本で平和に暮らしてしまおうなどという思考など、ティルナータが持つはずがないことも分かっている。  真面目で、責任感が強くて、仲間思いで、忠誠心が強くて……ティルナータはそういうやつだ。俺一人の願望を押し付けることよりも、ティルナータの願いを後押ししてやれるようなことを伝えられたらいいのだが……。  と、迷えば迷うほど、言葉が出てこない。  俺はただティルナータを抱きしめて、とんとんと背中を叩いてやった。 「……あたたかい」 「うん……」 「ユウマ……昨日みたいに、僕のことを……抱いてくれないか」 「えっ……え?」 「ユウマに愛されたい。ここに居られる時間はあと僅かだから」 「わずか……。じゃあ、やっぱり、帰るんだな……」 「うん……僕は、僕は帰らなければならない。国のために、僕は……」 「うん……そうだな。分かってたことだ。……でも、そっか。うん……」 「ユウマ……好きだよ。僕はあんたが、愛おしい」 「……ティル」  ティルナータの緋色の瞳から、一筋の涙が溢れ出す。  俺はそっとそれを唇で受け止めると、ティルナータを抱き上げて、そっとベッドに横たえた。 「……いいのか、ほんとに」 「僕はユウマに愛されたい。……たとえ僕らに未来はなくとも、ユウマの愛を、この身体に刻み込んでおきたいんだ」 「……未来、か」  ――未来はない  分かっていたことなのに、いざ言葉にされると、四肢がばらばらになってしまいそうに重い言葉だった。  ティルナータは、もうすぐ俺の前からいなくなる。元の世界で、全く別の人生を歩むんだ。  分かっていたことだ。覚悟していたはずなのに。  シュリが現れたことで、それは急に現実味を増した。あいつは確実に、ティルナータを連れ帰ることのできる手段を持っているからだ。でもそれは、ティルナータの望みだ。愛だの恋だのというふわふわしたものの心地よさに負け、果たすべき使命を曲げることなど、ティルナータが望むわけがない。  ――……俺のためにここ残るなんて選択肢は、もう、ないんだ……。

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