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第30話 不安と戸惑い

 あれから午後まるまる、俺は一人きりで作業にあたった。  部屋を締め切り、淡島たちにティルナータのことを託して、ただひたすらに作業に没頭した。  自分の過去を思い出した途端、いち早く、ここに描かれているものが何なのかを知りたくなった。  なので俺は、一区画(淡島たちと作業するにあたって、絵画を20×20cmで区分けしていた)ずつ集中して血液を剥離するというようなやり方をやめた。血液の下にあるものの全体像を確認することができるよう、各区画に付着した血液を、それぞれ少しずつ剥がしていくことにしたのだ。  赤黒いモザイクがかかったような状態になるだろうが、それでもいい。とにかく、ティルナータが帰ってしまう前に、ここに描かれているものの正体が知りたかった。俺は、こういう細かい作業は速い方だ。集中すれば、間に合うかもしれない……。  引きこもって作業に没頭していると、いつの間にかアトリエに入って来ていた守衛に肩を叩かれた。  今、大学は冬季休業中。アトリエは午後八時で締める決まりだと言って、俺は半ば強引にアトリエから追い出されてしまったのだ。  追い出されてみて、気がついた。  アトリエの前の薄暗い廊下に、ティルナータがひとりで座り込んでいることを。  考え事をしながら作業にのめり込んでいた俺は、すっかり時間を忘れていた。腕時計を見て仰天し、俺は慌ててティルナータに駆け寄って、ぎゅっと冷えた身体を抱きしめる。 「……ごめん!! ティル、ごめん……!! 寒かったろ!? 本当にごめん……!!」 「いいさ。僕が好きにしろと言ったんだ。構わない」 「……うう、本当にごめん。早く帰ろう。腹減ったろ」 「……ふふ、ユウマはそればかりだな」  ティルナータは俺の背中にそっと手を回し、俺の分厚いパーカーをぎゅっと握りしめた。言葉ではこう言ってくれているが、さみしい思いをさせてしまったことは間違いない。俺はティルナータの髪に頬を寄せて、しなやかな身体をひたすらに抱きしめる。 「……仕事は順調か」 「うん……なぁ、ティル」 「ん?」 「あのさ……いや、何でもない。帰ろ」 「うん」  寄り添って夜の道を歩く間、俺たちはどちらも無言だった。  俺は暗がりに紛れて、すっとティルナータと手を繋ぐ。か細い手は冷たくて、ティルの白い指を飾る細い金色の指輪たちは、氷のように冷えていた。きっと、廊下で一人俺を待っている間に、身体が冷え切ってしまったんだろう。申し訳なくて申し訳なくて、俺はぎゅっと強くティルナータの手を握った。 「帰ったら、まずは風呂に入ろうな」 「風呂……ユウマと一緒に?」 「うん、狭い風呂だけど、ちゃんとお湯張って、あったまろう。また風邪ひいちまったら、大変だ」 「……うん」  帰宅してすぐに風呂を沸かし、入浴している間にご飯が炊き上がるように炊飯器をセットする。そして脱衣所で先に服を脱いでいるティルナータのところへ行き、俺ももぞもぞとパーカーを脱いだ。  ふと、俺に背を向けて服を脱いでいたティルナータが、ちらりと後ろを振り向いた。ベルトを緩めてズボンとパンツを脱ごうとしている俺を、素っ裸になったティルナータはじっと見つめてる。……ちょ、そんなに見られると、恥ずかしいんだけど……。 「な、何?」 「いや……明るいところでこうしてユウマの裸を見るのは、初めてだなと思って」 「そ、そんなジロジロ見んなって。ほら、入るぞ!」  恥じらいもなく美しい肢体を晒すティルの身体を泡で洗ってやり、先に湯船に追い立てる。シャンプーをしている俺を浴槽の中からじっと見つめるティルナータの目線を感じて、俺はそわそわしながら泡を流した。  そして二人で湯船に浸かっていると、温まった身体からため息が漏れた。ティルナータを背中から抱きしめるような格好で湯の中でひっつきあっていると、こてんとティルナータの頭が俺の肩のほうに倒れかかってきた。  しっとりと濡れた金髪が、細い首筋に絡みついている。抜けるように白い肌の上を、細かい水滴がつうっと鎖骨の方へと流れていくのは、とても美しい眺めだった。 「……シュリに聞いたんだってな。僕の……生い立ちのこと」 「あっ、あ……うん」 「そうか……」  ティルナータはそれだけ呟き、俺の脚の間でもぞりと身体を動かした。湯船の中からすっと手を持ち上げて、いくつかの金色の指輪に飾られた細い指を、じっと見つめている。 「ティルも……びっくりしたよな。自分が、王子だったなんて」 「うん……」  ティルナータは、右手の人差指に嵌った指輪を左手で撫でている。見下ろした横顔は、指輪を通してもっと遠くを見つめているようにも見えた。  シュリから真実を聞いて、この二日間、ティルナータは何を考えていたんだろう。自分の生い立ちのことについてだろうか。それとも、戦の最中に国王として立つ、自分の未来についてだろうか。  そんなことを問いかけてみたかったけど、聞いてはいけないような気もして、俺はただただ、湯船の中でティルナータの膝小僧を撫でていた。するとティルナータはふとため息をつき、こんなことを呟いた。 「……セッティリオ様が……僕の身代わりのために生きていたなんて。……僕はあの人に、どう詫びればいいものか」 「侘び……?」 「あの人は、僕のために死んだってことだろう? 僕を生かすために、あの人は城もろとも炎に巻かれて死んで行った……僕の、せいで」 「何言ってるんだ! お前のせいなんかじゃない!」  俺はティルナータの肩を強い力で掴み、半ば強引に身体の向きを変えさせた。  ばしゃん、と湯が跳ねる音がバスルームの中に響く。狭い風呂の中で向かい合い、俺はじっとティルナータの緋色の瞳を見つめた。 「それは違う。俺……セッティリオってやつが、そんなふうに思うわけないだろ」 「……どうして、そんなことが言えるんだ。あの人は僕のせいで、ずっとずっと、自分を偽る人生を強いられてきたんだぞ!! 挙げ句の果て、一人きりで死を迎えて……。あの人の孤独を思うと、僕は、」 「孤独だなんてこと、あるわけないだろ!! 俺は……」  ――孤独なわけがない。俺は敬愛する王に頼られることを、何より(ほまれ)と感じていた。愛らしい王子の身を守る真の騎士になれたことを、幼いながらに誇りに思っていた。    多くの仲間に囲まれて、すくすくと素晴らしい成長を遂げるティルナータのことを間近で見守れることを、何よりも幸せだと感じていた。  死の瞬間でさえ、孤独ではなかった。恐怖もなかった。心の中にティルがいたから……。  胸の奥が弾けるような、切なく苦い想い。  俺はぐっとティルナータの肩を掴んだまま、ぎゅっと唇を噛んで黙り込んだ。  俺はこの気持ちを、ティルナータにぶつけてもいいのだろうか。俺はセッティリオの生まれ変わりなのだと、ティルナータに伝えてもいいのだろうか。  そして、あの時伝えられなかった気持ちを告げて、思いのままにティルナータを抱いて……。 「ユウマ……? どうしたんだ、どうしてそんなに、苦しそうなんだ?」 「っ……」  言って、どうなる。  そんなことを知ったところで、ティルナータが国へ戻り、国王となるべき未来は変わらない。  どうせこの先そばにもいてやれないのに、そんなことを伝えて、どうなる。  セッティリオの気持ちを知って、ティルナータが何か救われるとでもいうのか。  それに俺は、『時田悠真』として、ティルナータを愛した。そしてティルナータも、俺を『ユウマ』として愛してくれている……。  過去をもちだすことが、今の俺たちに必要なこととは思えない。  でも、伝えたい気持ちはこんなにも溢れている……。  俺は無理やり笑顔を見せて、怪訝な表情を浮かべるティルナータの頬を撫でた。 「……ごめん……でしゃばったこと、言って……」 「いや……いいんだ。ユウマの言う通りだと、思うんだ。あの人は、そう言う人だったから」 「……」  そう言って、ティルナータは寂しげに微笑む。 「でも、罪悪感は拭えない。あの人は、僕の師であり、兄のような存在だった。すごく……大事な人だった。そんな人の命を踏み台に、僕はこうして生きながらえているんだから」 「……でも、でも! そうならなかったら、俺はティルと出会えなかった。そうだろ?」 「……うん」 「俺、ティルのことが、本当に好きだよ。……本当に、大好きなんだ」 「ユウマ……」  湯船の中でティルナータを抱きしめる。濡れた肌が重なり合い、互いの鼓動を間近に感じた。 「……僕も、ユウマが好きだよ。こんな気持ちになったのは、生まれて初めてだった」 「ティル……」 「だからこそ、怖いんだ。こんな気持ちのまま、ユウマと離れて……僕は、僕は……」 「ティル……泣いてもいいから」  俺がそう囁くと、ティルナータはひときわ強く、俺の身体にしがみついた。そして、堪えていたものが溢れ出すかのように、全身を震わせ、嗚咽を漏らす。 「ぼくは、僕は……っ……帰りたくない……。ずっとずっと、ユウマのそばにいたい!! ……でも、できない。僕は王になる……王になるんだ!! そして、奪われつつある国土を、民を、守って……っ……」 「ティル……」 「こわい……っ……こわいよ……。僕に、そんな力があるわけがない……僕は、……っ……」 「ティル……」 『大丈夫』と、言ってやりたい。でもそれは、今の俺が安易に口にしていい言葉ではないような気がした。

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