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第31話 友人の気遣い

   その次の日も、俺はひとりで作業に集中していた。  淡島たちの手を借りることもなく、たった一人で。  ティルナータは、午前中の間中ずっと、俺のそばで絵画修復の様子を見つめていた。  昨夜、ティルナータは俺にしがみついたまま、しばらく涙を流していた。  泣きじゃくるティルナータを抱きしめることしかできなくて、すごくすごく、もどかしかった。  しかし、少し泣いて気が楽になったのか、それとも俺の前で泣いていても意味がないと思ったのか、ティルナータは気恥ずかしそうに目元を赤く染めながら、すっと俺から身体を離した。  そして、「ちょっと寒い……もう、出るよ」と言って、先に風呂から出て行ったのだった。俺はすぐにティルナータを追いかけて風呂を出たけど、その頃にはもう、ティルナータは普段通りの凛々しい目つきをしていた。 「忘れてくれ。騎士たるもの、人前で涙を流すことなど、あってはならないことだ」  ティルナータはそう言って、濡れた髪もそのままにリビングの方へと行ってしまったのだった。  +  午後になって、淡島と九条がアトリエにやって来た。 「ティルナータさん、外に美味しいもん食べに行かへん? たこ焼きって食べたことある?」 「タコヤキ……?」 「そうそう、こんな仕事ばっかやっとるつまらん男はほっときーな。もっともっと現代日本の楽しさ味わってもらわんことには、異世界になんて帰されへんで!」  と、九条はやたら達者なイラストをスケッチブックに描きながら、ティルナータを外に誘い出そうとしてくれている。どうやら二人は、こうして筆談をする間柄になったらしい。  ちらりと俺を見るティルナータの目線に気付き、俺は作業の手を休めて顔を上げた。 「……一緒に行けなくてごめんな。行ってこいよ、美味いぞ、たこ焼き」 「……うん。そうか」 「ほらほら、こんな薄情な男ほっといて行こや。俺のおごりやで」 「オゴリ……?」  そう言って、九条はティルナータの背中を押して部屋を出て行った。俺はなんとも言えない申し訳なさを抱えながら、こっちを振り返りつつも九条に促され、アトリエを出て行くふたりの背中を見送った。  すると、ドアの脇に腕組みをしていた淡島が、ジロリと俺を睨んできた。そして、バタンとドアを閉めた後、ズカズカと俺の方へ歩み寄って、ぐいっと荒々しく胸ぐらを掴んだ。 「なっ……なんだよ」 「お前さぁ……いいのかよ、こんなことしてて」 「こんなことって?」 「血のり剥がすのと、もうすぐこっからいなくなっちまうティルナータと過ごす時間と、どっちが大事なんだよって聞いてんだよタコ」 「……そんなの、ティルナータの方が大事に決まってるだろ」 「だったらもっとそばにいてやれよ!! あいつ、すっげ寂しそうで、もう見てられねぇよ」  淡島はそう言って、苦しげな表情を浮かべた。俺は淡島の腕を振りほどこうとしていた手を止めて、淡島を見上げる。 「……ごめん」 「謝るんなら、ティルに謝れ」 「……ティルは、理解してくれてる。俺はどうしても、ティルが帰るまでにこの絵の全貌を知りたいんだ。不安がってるあいつに、何か示してやれることがあるかもしれねーんだよ」 「……」 「だから、頼む。ティルのこと……」 「俺だって、絵画修復師のはしくれだ。俺の手伝いは、いらねぇのか?」 「一人でやったほうが効率がいい。それに、九条一人にティルのこと頼めねーし」 「……まぁ、それもそうか」 「淡島。ありがとう……ティルのこと、考えてくれて……」  首元を解放され、俺はふらりとよろめいた。淡島はウェーブのかかった硬そうな髪を一つ括りにした頭を掻きながら、はぁ、とため息をつく。 「……ったく……こういうことになると、お前も相当頑固だな」 「ごめん……」 「分かったよ。ティルナータのことはまかしとけ。でもな、夜までほっとくのはダメだ。午後六時にここに送ってくるから、夜は絶対一緒にいてやれよ」 「分かった。ありがとう……本当に」  淡島はそう言って、大きな手でわしわしと俺の頭を撫で回した。 「うわっ!! 何するんだよ!!」 「顔に覇気がねぇよ。しゃんとしろ!!」 「……あ、うん……」 「パン買ってきたから。これ食え。いいな」 「……ありがと」  ボサボサになった頭でコンビニの袋を受け取る俺を見下ろして、淡島はちょっとだけ笑った。  ――……淡島がこんなに優しいやつだったなんて、俺、初めて知った。  受け取ったパンをかじりながら作業に戻り、俺はまた少し、涙ぐんだ。  +   +  淡島たちのおかげで、作業はだいぶはかどった。  窓のないアトリエにこもっているせいもあるだろうが、一日が本当にあっという間で、時間の感覚がよく分からなくなってくる。  砺波氏が描いたもの。  その六割ほどが、おぼろげにだが見て取れるようになってきた。細かい部分までクリアになっているわけではないが、赤黒い血痕は着々と除去できつつある。  ――早く、ティルに見せてやりたい。できれば、もっと美しい状態にして……。  そんなことを考えながらスーパーの中を歩き回っていると、ティルナータが隣にいないことにふと気づいた。  あたりを見回してみると、ティルナータは魚売り場で物珍しげに生簀を覗き込んでいる。 「ティル、今夜何食おっか。魚食いたい?」 「サカナ? 何だそれは」 「えっ?エルフォリアにはいねーの? これだよ、水の中で泳いでるやつ、魚っていうんだ」 「ほう……」  俺の適当な説明を聞いて、ティルナータはまたしげしげと水槽の中を覗き込む。そして、「こんな愛らしい生き物を食べるなんて……僕には無理だ」と言って、生簀の中で泳ぐオコゼやコブダイを物悲しげに見つめている。 「そ、そうか……愛らしいんだ。……うん、じゃあ別のメニューにしよう。何がいいかなぁ」 「そうだな……。あれ、あれがいい。僕が初めて食べた、白くて長い不思議な食べ物……」 「ああ、うどん? 鍋焼きうどんか」 「ウドン? あれは美味かった。あれがいい」 「オッケ」  手を繋いで、スーパーに立ち寄る。そんな何気ない一場面が、今は途方もなく貴重なものに思える。  ティルナータの外見はあいも変わらずご近所の皆さんの目線を惹きつけまくっているが、俺は何も気にならなくなっていた。少し前の俺だったら、こんなことはできなかっただろう。性癖を自覚してからというもの、自分がゲイであるということをひた隠しにして生きてきたから。  好きになった相手にきちんと思いを告げることもできず、妖艶なセフレの魅力に負けて爛れた関係を続けて……思えば本当に、ティルナータと出会うまでの俺には何もなかった。ティルナータが降ってこなければ、誰かと想い合うことがこんなにも尊いことなのだということなのだと、知ることもできなかった。  レジに並びながらぎゅっと手を握ると、ティルはちょっと驚いたように顔を上げた。 「ん?」 「……あ、ごめん。痛かった?」 「いや、どうしたんだ。腹が減ったのか?」 「おー、もう腹減りすぎて死にそう」 「僕はまだ大丈夫だぞ。タコヤキとかいうものがあまりにも美味くてな、五十個ほど食べてしまったからな」 「五十!? まじかよ!」 「九条が食え食えと勧めてくるものだから、ついな。そのあとはけぇきというものを食べに連れて行ってくれた。甘くてふわふわで、まるでこの世のものとは思えないような食べ物だった……ニホンは、素晴らしい国だな」 「そ、そっか。満喫してくれたか……嬉しいよ、俺」 「そのあとはらぁめんというものを食べに行ったよ。あれもすごく美味かった。最高だ」 「てかどんだけ食ったんだよ!!」 「ん? 何を驚いてるんだ?」 「いや、何でもない。……うん、いろんなとこ連れてってもらって、楽しかったよな」 「あぁ、次はユウマも……」  と笑顔で言いかけて、ティルナータははたと言葉を切った。  俺たちはもう、『次』の機会を待つことはできない……その現実を、思い出したんだろう。  ティルナータはほんの少し目を潤ませ、小さく苦笑いをした。俺も笑みを返して、ぎゅっとティルナータの手を握り直す。 「……行けたらいいな、いつか」 「……うん」 「はい、次お並びの方どうぞ〜」  湿っぽくなっていた俺たちに、レジのおばちゃんが朗らかな声をかけてきた。俺は慌ててカゴを置く。 「あらぁ〜綺麗な子。どこの国の方?」 「え? あぁ、えーと……ロ、ロシア人です」 「そうなんですか。はぁ〜〜綺麗ねぇ」 「どうも……」  おばちゃんはレジを通しながら器用におしゃべりをして、ニコニコしながらティルナータのことを見つめては、頬を赤らめている。ティルナータもそんなおばちゃんに少しばかり気を許したのか、哀しみに染まっていた表情を緩めて、微笑みを浮かべた。 「あらぁ〜〜〜かわいいねぇ! お兄さんのお友達? インターナショナルねぇ」 「え、あはは、まぁ」 「また来てねぇ! はい、ありがとうございました」  そう言って、おばちゃんはレジ袋をティルナータに握らせた。ティルナータは笑って、「アリガトウ」と片言の日本語を口にした。 「アワシマとクジョウにな、色々教わったんだ」 「へぇ……そうなんだ」 「ニホンの言葉は、うつくしいな。柔らかくて、気品に満ちている」 「そうかなぁ」 「そうさ」  ティルナータはレジ袋に買ったものを詰める俺を見上げながら、花が咲くような笑顔を見せた。

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