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第39話 それから

   それから、七年が経った。  俺は大学を卒業後、株式会社art aliveに就職し、今は『洋画修復部』にて日々絵画修復の仕事にあたっている。  季節は春。  新入社員と学生アルバイトが数人増えて、職場が少し賑やかになる、そんな時期。  窓の外では満開の桜が悠然と咲き誇り、穏やかな春の空気が眠気を誘う……が、うとうとしている暇は俺にはない。俺は今年から母校での講師業も請け負うことになっているため、いつになく落ち着かない春を迎えているのだ。  ティルナータがエルフォリアに帰ってから、七回目の春がきた。  + 「悠真、今日はもう上がんのか?」  午後三時。  俺は着替えを終えて作業場から戻り、自分のデスクの片付けを始めた。そんな俺をちらりと見て、淡島は眠そうな顔でパソコンをいじりながら声をかけてきた。 「うん、今日はもう終わり。明日搬送するぶんの準備も終わったし」 「あぁ、原田さんとこの新しい美術館か」 「そうだよ。あ、入場券もらってるからさ、淡島も見に来てよ」 「いや俺はいーわ。プライベートでまで美術館行くとかありえねーから」 「はぁ? なんだそりゃ。お前には絵画に対する情熱ってもんがないのかね」 「うっせーな」  そして淡島も、俺と一緒にart aliveに入社した。こいつは文化財修復部にいるのだが、なんだかんだとめんどくさそうなことを言いつつも、仕事だけは器用にこなす世渡り上手だ。 「なぁ悠真、久々に飲みに行こうぜ。九条が会いたがってたぞ」 「えぇ? 一ヶ月前に飲んだじゃん」 「色々煮詰まってるらしいんだよ。あいつ友達少ねぇからさ、俺たちと飲んで憂さ晴らししたいだけだろーけど」  九条は今や、新進気鋭の若手現代アーティストとして名を馳せる有名人。卒業制作がインテリア雑誌に取り上げられてからというもの、世間から注目を浴びるようになったのだ。  九条は相変わらずあやしげなトーテムポールを創っているのだが、そのあやしさがクセになると評判らしく、金持ちの豪邸のインテリアとして飾られたりしているらしい。俺にはよく分からない魅力だが、個展まで開けるほどの人気なので、どうも需要はあるみたいだ。  しかも九条は、顔を出せばあの美人ぶりだ。コアなファンにあとをつけまわされたりして、色々と苦労もあるのだとか。 「ごめん俺、ちょっと今日無理なんだわ」 「えー、じゃあ九条と二人飲みかぁ?」 「いいじゃん、しょっちゅう飲んでんだろ?」 「そんなでもねぇよ、俺だって忙しいんだ。これからどっか行くのか?」 「うん、原田さんの美術館にな」 「え? 搬送か? 業者に頼まねーの?」 「いや、そういう用事じゃなくて。ちょっと、先に入れてある絵を見に行くだけ」 「あー……そっか。分かったよ、来週はどっか空けとけよ」 「はいはい」  あの絵画修復を請け負ったことがきっかけで原田さんの信頼を得た俺は、多くの美術品修復やクリーニングの仕事を依頼されるようになった。  この春、原田さんは新しい美術館を郊外にオープンする。俺は、そこに展示する美術品のメンテナンスを任されているのだ。今回は、銀座のギャラリーから美術館へ移すもののメンテナンスが主な仕事だった。作品点数が多いため、搬入作業は専門業者に任せる事になっている。  といっても、これから美術館へ行く理由は仕事のこととは関係ない。  俺は月に一、二度、七年前に修復したあの絵を見るために、art galleryHARADAを訪れる。それがこの七年間の、俺の習慣。  砺波春明氏が描いた、『王の凱旋』。  その絵画の中に、ティルナータの姿を見ることができるからだ。  原田さんは友人の遺作でもあるその作品を、ギャラリーで大切に保管していた。誰にも売らないと決めてはいるものの、陽の目を見ることもなく仕舞い込んでおくのも忍びないと思ったらしく、今回新たな美術館を設立するにあたり、『王の凱旋』を展示することに決めたのだという。  オープンは来週末だが、設立準備に関わった俺は特別に入館を許可されている。  薄暗いギャラリーの一室ではなく、広々とした明るい場所であの絵を見ることを、俺は密かに心待ちにしていた。それが、今日なのだ。まだ人の入らない静かな空間で、『王の凱旋』と対面する。  今日もティルナータと、会うために。  あの日以来、俺は誰のことも愛せていない。  ただティルナータのことを恋しく思うばかりで、一歩たりとも前進できていない。我ながら、女々しい男だと思う。  ティルナータからもらった首飾りを握りしめていると、不思議な気持ちになった。生きる世界は違うのに、鼓動を共にしているような感じがした。ティルナータとの暖かな記憶に包み込まれるような、しあわせな気分になれた。  でも、後から襲って来るのは虚しさばかり。  俺の傍らには誰もいない。ティルナータの笑顔の残像が浮かんでは消え、俺の孤独を深めるばかりだった。  それを忘れるために、俺は仕事に没頭した。人前に立つのは苦手なくせに、講師の仕事まで引き受けた。あの日のことを考えないようにするために、あえて自分を多忙に追い込んでいた。  ひとりで車を走らせていると、いつしか風景はのんびりとした田園風景に変わっていた。ここ一年半ほどの間、しょっちゅう通った道のりだ。この林の先に、原田さんの美術館がある。  特に渋滞にはまることもなく、目的地に到着した。広々した駐車場に車を停め、俺は一つため息をつく。 『王の凱旋』と対面するのは、三週間ぶり。しかも今日は、あの絵をギャラリーの外で初めて見るのだ。ただそれだけのことなのに、なんとなく緊張している自分に笑ってしまう。  新設される美術館の外装は木造。あたたかみのある色味の木材で組み上げられた、二階建ての広々とした建物だ。内装はほぼ白い壁紙で統一されていて、正面玄関から一階メインホールは二階までは吹き抜け。明るくて、とても開放感のある空間に仕上がっている。  大きな窓ガラス(もちろんUVカット)からは、陽の光が柔らかく差し込んで暖かく、屋外で絵画を鑑賞しているような気分になれるところが、特に魅力的だと俺は思っている。 「やぁ、よく来たな」 「あ、原田さん。お疲れ様です」 「作品が届くのは明日だな? 十時?」 「ええ、そうです。俺も当然立ち会いますから」 「ああ、頼むよ」  原田さんは受付カウンターのそばで、秘書の宝来さんとパソコンを覗き込んでいたが、宝来さんに何やら指示を出したあと、俺をちょいちょいと手招きした。そして、美術館の奥へと歩き出す。 「『王の凱旋』の設置は終わったよ。素晴らしい眺めだ。外に出して正解だった」 「そ、そうですよね」 「君は素晴らしい仕事をしてくれた。砺波もすごく喜ぶと思うよ」 「あ、ありがとうございます……」  原田さんは俺の少し前を歩きながら、至極上機嫌な声でそう言った。仕事に厳しい美中年芸術家にお褒めの言葉をもらえることは、修復屋にとってはとてもありがたいことだ。 「君も、随分とあの絵に思い入れが出来てしまったようだね」 「え、ええ……。とても、綺麗な絵ですから。それになんとなく……見ていると勇気をもらえるような気がして」 「確かにな……私もそんな気がするよ」  原田さんはそう言って横顔で微笑むと、ゆったりとした歩調で階段を登り始めた。そして二階の最奥の部屋へと、俺を導く。  二階は窓が少なくて、一階に比べるとぐっと落ち着いた雰囲気だ。ちなみに一階は主に現代アートの立体造形の展示スペースになっていて、二階が絵画作品の展示スペースになっている。 「……わぁ……」  真っ白な部屋の中に、『王の凱旋』は飾られていた。  昨日までは狭いギャラリーの一部屋にひっそりと置かれていたが、今はまっさらな展示室の壁のど真ん中に展示されている。  明るい展示室の中で見ると、色彩の鮮やかさと緻密なタッチが際立って、とてもとても美しい。中心に描かれたティルナータの表情も、いつにも増して張りがあるように見えた。  風にそよぐ国旗も、戦士たちが身につけている白銀色の甲冑も、空の色も大地の色も、そして彼らの肉体から流れ出す血液さえも、より鮮やかに見えてハッとさせられる。  今までじっと潜めていた息を、いきいきと吹き返しているように見えた。 「……すごい」 「『王の凱旋』が、この美術館の目玉の一つだからな。ぐっと表情が良くなったろ? こうして堂々と展示できる場所を用意するまでに七年もかかってしまったが、色々と頑張った甲斐があったというものだ」 「ええ、本当に……すごく、いいです。うまく言えないけど、ここじゃなきゃダメだったんだなぁ……って感じがするっていうか」 「はは、そうだろう。まぁ、ゆっくり見ていきなさい。来週からプレオープンだ。多少人が入るからな、陽のあるうちにこの絵を独占できる時間は少なくなるぞ」 「あぁ、そうですね。……それはちょっと残念かも。でも、いろんな人に見てもらいたいですしね」 「そう、名画は人に見られることでその輝きを増すものだ。この絵がどう成長してくれるか、私も楽しみだよ」 「はい、俺もです」  俺がそう言って微笑むと、原田さんも穏やかな笑みを浮かべて絵を見あげた。そして静かに踵を返すと、軽い靴音を立てて、展示室を去って行った。 「ティル……」  俺はそっと絵に近づき、荘厳な金色の額縁に収まったティルナータの勇姿を見上げた。もはや触ることはできないが、こうしてふさわしい場所に展示されている様子を見ていると、こっちまで誇らしい気持ちになってくる。 「元気にしてるか? こっちは春だよ。もうすぐ桜も満開だ。そっちは……あ、そっか。四季はないんだったな」  俺のひとりごとが、がらんとした展示室の中に小さくこだまする。 「やっぱり、ティルには明るい場所がよく似合うよ。ギャラリーのあの部屋も悪くなかったけど、ティルにはやっぱり、こういう華やかな場所がよく似合う。……すごく、きれいだよ」  服の上からあのペンダントを握りしめ、俺は絵の中のティルナータに語りかけた。この七年、ずっと俺が繰り返してきたことだ。  俺は日が暮れるまでずっと、ティルナータのそばに佇んでいた。

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