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第40話 幻……?

   そして次の週、原田さんの美術館『MUSEAM harada』がプレオープンの日を迎えた。  初日には小さなパーティーが催されていて、ここの美術品管理を任されている俺も、当然のように招待された。  原田さんとの付き合いの深い蒐集家が訪れたり、作品を寄せた作家たちが集ったりしていて、いわゆる社交場のような雰囲気だった。  原田さんはパリッとした黒いスーツ姿で胸に花を飾り、キビキビとした動きで招待客をもてなしている。着飾ったお客たちが美術品談義に花を咲かせている様子を、俺は壁際でグラスを傾けながら静かに見守っていた。車だから、グラスの中身はジンジャエールだけど。  受付のそばでは、原田さんに面差しのよく似た美青年が招待客たちと言葉を交わしている。彼は原田さんの息子さんだ。  年齢は二十四歳らしいが、年齢以上に大人びた雰囲気を醸し出している青年だ。親子で衣装を揃えているのか、黒いワイシャツに黒いベスト、黒のスラックスといういでたちが、すらりとした長身によく映えている。彼も芸術家なのだろうか。  そのパーティのかたわら、一般のお客さんもちらほらと館内を歩き回っていた。開館日は今週末という広告はあちこちですでに打って出ているが、プレオープンに合わせて、いち早く『MUSEAM harada』を堪能したいとやって来たお客を、原田さんは快く受けれいているらしい。  特に話が盛り上がる相手もおらず、華やかな場面になんとなくくたびれてきた俺は、ふらりとパーティ会場を後にした。時刻は午後二時。こんな時間からがっつり飲む気にもならなくて、俺は『王の凱旋』を見に行こうと二階へ向かった。  二階は一階に比べて人が少なくて、しんとしている。やはり一般客の関心を集めやすいのは、パッと目を引く立体アートの方なのかもしれない。  原田さん自身も、最近はもっぱら立体創作の方をメインに取り組んでいる。となると、今日来ているお客たちのお目当ては、原田さんの未公開の最新作なんだろうな……。  そんなことを考えつつ、俺は二階に展示されている絵画をのんびり眺めながら、最奥にあるティルナータの部屋へとゆっくりと歩を進めた。奥へ向かうほど人気は少なくなっているから、今なら誰もいないかもしれない。  着慣れないスーツは肩が凝るし、久々に履いた革靴のせいで足が痛い。コツコツと響く靴音は、まるで自分の足音ではないような気がした。いい歳をして、普段はスニーカーだのサンダルだのばかり履いているのもどうかと思うが、職人なんてそんなものだろう。  講師業を引き受けるにあたって新調した濃紺のスーツのジャケットの前を開け、ネクタイを緩めると、ようやくほっと息ができるような気がした。 『王の凱旋』の展示室が見えて来た。  俺は少し歩調を速め、逸る気持ちに身を任せた。  そして白い壁を四角くくりぬいたかのような入り口から、展示室の中へ足を踏み入れる。  するとそこには、一人の先客がいた。  小柄な少年が、『王の凱旋』の真正面に立っている。  俺の気配に気づく様子もなく、その少年は一心に『王の凱旋』見上げていた。  黒っぽいブルゾン、長く細い脚にフィットしたデニム、そして白と黒のカジュアルなスニーカー。背中には黒いリュックサックを背負っていて、見たところまだ未成年者のようだ。  日本人ではないのかもしれない。髪の色は、少し茶色みがかった艶やかなダークブロント。緩いクセのある柔らかそうな髪を、肩のあたりまで伸ばしている。  なぜだか唐突に、鼓動が速まった。  ハーフの友人なんて、俺にはいない。見ず知らずの人物であるはずなのに、全身の細胞が、不思議とざわめいている。  一歩足を踏み出すと、コツ……と靴音が響いた。  その音に驚いたのか、少年はぴくりと肩を揺らし、そして、ゆっくりとこちらを振り返った。 「……あ……」  目が合った瞬間、全身に電流が走ったように感じた。  凛とした光を湛えた、知性の滲む瞳。はっきりとした目鼻立ちは華やかで、肌は抜けるように白く、美しい。  背後にある『王の凱旋』の中央に立つティルナータと、その手前に立つ少年。彼らの顔貌(かおかたち)はもちろん別物なのに、どういうわけか、ティルナータがあたかも絵画の中から抜け出して来たかのように見えて……俺は、ただただ呆然としてしまった。  硬直しているのは俺だけではない。そこに立っている少年も、じっと俺から目を離さず、身じろぎすらしない。呼吸さえもできているのかどうかあやしいほど沈黙が、しばしの間俺たちの間に流れた。 「……あの……」  沈黙にたまりかねて声をかけると、少年はビクッと肩を震わせて目を瞬いた。  そして、突然その場に崩れるようにして、倒れてしまった。 「えっ!? ちょ……大丈夫ですか!?」  慌てて駆け寄り、倒れ伏していた少年を抱き起こす。  肩を抱き、少年の顔をじっと覗き込むと、伏せられた長いまつ毛が痙攣するように震えているのが見て取れた。 「……だ、大丈夫ですか!? だ、誰か呼ばなきゃ……」  ――まさか、まさかな。そんなはず、あるわけない。そんなこと、起こるわけない……だって、この子の顔立ちはティルナータとは違う……。  ――でも、だったらどうして、どうして俺はこんなに……。  少年の肩を抱き寄せたまま、スラックスのポケットに入っているはずのスマートフォンを探ろうとするが、慣れないスーツのせいでそれはなかなかうまくいかず、俺は焦りながらもたもたするばかりだった。しかし、そもそもスマートフォンで何をすればいいのかも分からず、俺は一旦スマホの捜索をやめた。  美術館で大声を出すことも憚られるため、俺は一旦人のいるところへ向かうべく、少年を抱える腕に力を込めた。  その時、少年の手が、そっと俺の腕に触れた。  俺は少年の顔を見下ろして、日本語が通じる相手なのかどうかと訝しみつつ焦りつつも、少年に声をかけた。 「あっ……だ、大丈夫ですか!? 気分でも……」 「……ゆ……」 「に、日本語わかりますか? ええと……とにかく、ここじゃあれなんで下に……」  少年は白昼夢でも見ているかのような表情で、俺をじっと見上げている。やはり日本語が通じないのかもしれないな……と思い立ち、俺はあせあせしながら少年の表情を見つめていた。  少年の瞳の色は、吸い込まれそうな透明感を持つ、淡い蜂蜜色。どことなくあたたかみのある色味をもつ、美しい瞳だった。  俺を見上げるその瞳が、かすかに揺れた。そして見る間に少年の双眸に涙が膨れ、すうっと頬を伝って流れていく。  頬を伝う涙を見た瞬間、俺は直感した。 「……ティル、なのか……?」  俺がそう語りかけると、少年は俺の腕の中でフッと意識を失った。  + 「……大丈夫ですよ。怪我をしている様子もないですし、熱もない。脈も正常です」 「あ、ありがとうございます」 「少し、栄養状態が心配です。軽い貧血か、低血糖か……そういった類の失神かもしれません」 「栄養?」 「体格の割に筋肉量が少ないですし、顔色も良くありませんから。目を覚ましたら、もう一度呼んでください」 「あ、はい……ありがとうございます。お医者さんなんですか?」 「え、僕ですか?」  意識を失った少年を抱えて一階に降り、受付にいた宝来さんに応接室を開けてもらった。そして真新しいソファに少年を寝かせて様子を見ていると、原田さんの息子さんが応接室にやって来たのだ。  そして少年の身体を丁寧に調べ、落ち着いた口調で俺にそう伝えて来た。 「いえ、僕はスポーツトレーナーの仕事をしています。ですので、多少人体についての知識があるだけです」 「スポーツトレーナー……? どこかの病院にお勤めなんですか?」 「いえ、大学時代に起業しまして、今は国内のアスリートや、プロサッカーチームと個人的に契約をしているんです。そこで彼らのフィジカルケアとメンタルケアを」 「……へ、へぇ……すごいですね。おひとりで?」 「いえ、数人のスタッフを抱えています。地味なものですよ」  そう言いつつも、原田さんのご子息・原田裕正さんが挙げたアスリートの名前やサッカーチームの名前は、さほどスポーツに詳しくない俺ですら知っているくらいの有名どころだった。  語彙力のない俺がひたすら「すごいっすね」と言っていると、裕正さんは父親によく似た麗しい細面に優しい笑みを浮かべた。 「父がいつもお世話になっております。時田さんのこと、家でもよく話を聞きます。今後とも、どうぞよろしくお願いします」 「あ……いや、そんな」 「では、僕はこれで。まだしばらく館内におりますので、何かありましたら呼んでください」 「ありがとうございます」  裕正さんは腕まくりしていたシャツを下ろし、礼儀正しく一礼して応接室を出て行った。俺はすぐにソファの上に横たわる少年の傍に膝をつき、その顔をじっと見つめた。  伏せられたまつ毛が、時折ぴく、ぴくと震えている。俺は無意識のうちにその少年の手を握りしめ、骨ばった指にそっと頬を寄せた。が、見ず知らずの相手に、しかもどう見ても未成年の少年にそんなことをしていていいわけがないと思い直し、俺は少年の手をそっと毛布の中に戻す。  ――冷たい指だった。さっき裕正さんが言っていたこと、すごく気になる。栄養状態が心配って、どういうことだろう。  それにしても……さっき俺が感じたことは、単なる俺の願望なんだろうか。俺はこの子のことを、ティルナータだと思った。ティルナータが、俺の元に帰って来てくれたんだって、直感的に思った。……でも、そんな夢みたいなことがあるわけない。実際、この子は何も言わなかった。突然倒れて涙を流したことだって、ただ気分が悪かっただけなんだろうし……。 「……はぁ……」  俺は、夢を見すぎている。  そう、ずっとずっと、この七年間ずっと、俺はそんな夢のような出来事を願い続けて来た。  心のどこかで諦めているフリをしながら、俺はずっと、ティルナータのことを待っていた。いつかきっと、俺がここに生まれ直したように、ティルナータがこの世界に現れるかもしれない。ひょっとしたら、シュリが使っていたような術を使って、現代社会に戻って来てくれるかもしれない……。そんな、おとぎ話のようなことを、どこかで期待して待ちわびていた……。  いい歳して、そんなことばかり考えているから、見ず知らずの外国人をティルナータだと信じ込んだんだろう。俺はぐしゃぐしゃと髪の毛を乱しながら、頭を抱えた。虚しくて虚しくて、悲しくて、自分が情けなくて、涙が出てくる。 「……っ……ぅ……」  ――馬鹿だろ、俺。そんなことあるわけねーじゃん。七年前にティルナータと俺が出会えたことが、すでにもう奇跡だった。俺はそのおかげで、ティルナータと想いを通わせることができたんだ。それ以上のことが、起こるわけないじゃないか……。 「っ……っうく……」  ――会いたい。ティルに会いたい……。もう、限界だ。ティルナータがいない世界で生きていくのはつらすぎる。ひとりきりで過ごす夜が痛すぎて、もう、耐えられない。 「っ……ティル……ティル……っ……」  ――もう望みがないのなら、俺はもう、この世界で生きている意味なんかない。この七年、抜け殻みたいに生きてきて、これから先もずっと、そんな人生が続くんだとしたら……。もうそれは、恐怖でしかない。  それならばもう、俺は……いっそのこと……。 「……っう、ううっ……」 「……何を泣いているんだ」  ソファに顔を埋めて嗚咽を漏らす俺の頭に、ふわりと誰かの手の重みを感じた。俺ははっとして、泣き濡れた顔を上げた。  すると眠っていたはずの少年が目を覚まし、澄んだ瞳で俺を見ている。光の加減で、どことなく金色にも見えるような美しい瞳だった。  少年が口にしたのは、流暢な日本語。俺は慌てて涙をぬぐい、鼻をすする。 「……あ、いや……ごめん、びっくりしたよね。君は……」 「ユウマ……。何か、つらいことでもあったのか?」 「……えっ……?」  少年はそう言って、優しく俺の頭を撫でた。  ――今……なんて言った……?   「え……? な、なに……?」 「……どうして泣いてるんだ?」 「えっ、い、いや……え? まさか、本当に……?」 「ユウマ……?」  この目つき、この口調、そして俺に触れるこの手つき……。  それが懐かしくて、ただだた愛おしくて、俺はぎゅっとその手を握りしめ、まっすぐに少年の目を見つめた。  ――……ティル……なのか……?  少年は、ゆっくりとソファの上に起き上がった。  そして手を持ち上げて自分の頬に触れ、髪に触れ、そしてもう一度俺に向き直る。 「夢じゃ、なかったんだ……」  少年は声を詰まらせながらそう呟くと、また一筋、涙を流した。

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