【プロット晒す】踵の裏の天国で遠雷を聞く。 ※後半若干閲注

 元々のタイトルは「遠雷」で、単語だけだとなんか味気ないな〜と思って、作中内の固有名詞とかならいいんですけれど普遍的なものの名前だけのタイトルだとちょっとわいたんピーポーっぽくないゾ?と思って「遠雷を聞く」にしたのですが、コンセプトが「煉獄」(天国と地獄の間のところで、地獄行く前)だったので、天国といえば空、空といえば足が付かない、といったところで足が付く→踵の裏に接地面がある みたいなところで。遠雷といえば大体暑い頃合いなので灼熱地獄みたいなアスファルトなのかな…みたいな。

 

 とはいえわたくしの解釈する煉獄は「行き場のない魂の居場所」みたいな傷の舐め合いをするところ的な。天国に行けるような人間でもないが地獄に行くほど思い切ったこともしなかった(人の世の倫理観や法律は置いておいて)保守的な半端者の居場所という身も蓋もない解釈ですよ。このわたくしの解釈でいうと天国と地獄の二極化なんてできなくて、煉獄に行く人間のほうが多そうだけどな。

 

 書いた時期が盆と重なって掲載を終えた頃が盆が明けるくらいだったので、熱心な仏教徒ではないものの、これは仏教的思想でいこうと。煉獄が仏教思想かは知らんけれども(後で調べたらキリスト教でしたw)なんちゃって仏教ということで許してくれ。大丈夫the仏教ということで(上座部仏教とか大乗仏教というものがある)

 

 話の内容はまったく違うのですが、わたくしの意図的には「火垂るの墓」がモチーフといえばモチーフ。とあるサブカル評論家のO先生が語っていた「火垂るの墓」の考察をコンセプトにしています。

 

 「俺」が油井なので、以下油井なのですが、油井の視ている「あいつ」はあくまでも油井の理想と記憶が折衷されたもので、油井の認識の中の「あいつ」に過ぎず、「あいつ」も煉獄という庶民的な夏の中にいるのか、地獄だの天国だの煉獄だの無くて人の死後つまりわたくしの死生観でいえば「無」になったのか、油井の与り知らない人と冥界にいるのかは誰も知らない。閻魔様もお釈迦しゃまも知らないと思う。

 

 現代日本が舞台でしたが生前の記憶()死後の世界()があるあたりファンタジーですね。これはファンタジーです。

 

 ところでこれを書き終わった後に電車の飛び込み自殺を検証するコラムを読んだのですが、首がスパッとイかないと即死はないらしいですわ。快速特急や新幹線の車体にぶつかって頭の打ち所次第では…といったところで、常人でそのタイミングを見計らってのジャンプは命中率低いとか。電車の飛び込み自殺に限らず時代劇とかの刀剣でスパッてのも人力を越えた腕力でないと難しいらしいですわ。

 

 という点でもファンタジーです、この創作。

 

 とりあえず、電車の飛び込み自殺をしそうなほど追い込まれた人には言っても通じないと思うが、もし通じるなら電車の飛び込みはやめようね。わたくしは今のところ電車乗らない生活なので飛び込み自殺があっても他人事なら困らないけど。自殺自体には消極的肯定派ではあるのですがね。

 

 

 

 それで本作のわたくしの自己採点は60点。ラスト駆け足で、なんで「あいつ」首吊ったのかが不明瞭なの、すごく慌てた感を丸出しにしてしまった感がなくはないので−10点。わたくしを評価していいのはわたくしだけというわたくしのルールがあるのでコメント等「う〜ん、◯点!」はやめちくりぃ〜(求めても誰もやらないと思うゾ)!♡(いいね)評価機能を56しているのもそのためです。満点でも世辞やろな、で2点以下でも「遠回しにdisるのやめてください!」ってヒス展開だし3点4点だとクソが接頭辞に付くほどリアル感あるので。高評価は重いしクソ媚びンゴ〜、低評価は鬱汁を垂らすから。

 「なんであんた等に評価されなきゃならないの?ギャオオオ!」「わいたんの創作が凝ってて面白いからって嫉妬乙!プギャッ!」してしまうので。そこまで強気ではないな。「どうせわいスたんティノープルなんて何やってもダメなんだ……シクシク」って感じですね。