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雇主

新宿東口から徒歩10分。 表通りから路地裏に入り、さらに何度か曲がった先の小さな交差点の角に、地下を含めると4階建ての小さなビルがある。 1階はテラス席もある今時のカフェだが、その端に、ナチュラルテイストのカフェとは全く正反対の重厚感のある黒い扉があり、その横にはステンレス製の小さな表札に『Attrait』と細い黒文字で書かれている。 遥翔はその前を通過すると、ビルの裏手に回り、関係者用出入口の扉を開け、廊下を進むと、階段を降り、表の扉とはまた正反対の無機質な鉄のドアの前に立つ。 昨日渡されたばかりのカードキーを通すと、ピピッという電子音と同時にガチャ、と鍵の開く音がして、遥翔はホッと息を吐いた。 中に入ると、閉じると同時にドアの鍵が閉まる。 オートロックに慣れていない遥翔は、勝手に閉まるドアを思わずしげしげと見ながら、足を目的地へと向けた。 『Staffroom』と書かれたドアを開けると、そこには一人の男が着替えをしていた。 「おはようございます。」 「ん?その声、遥翔か?おはよー。」 男はちょうどトップスを脱ごうとしていたところらしく、顔が覆われてしまっている。 「ちょ、コウさん!?何してんですか!」 「何って着替えをしようと…。」 「それはわかりますけど、まだ怪我が治ってないのにそんなアクロバティックな格好になるくらいなら誰かに手伝ってもらって下さいよ!」 「いやもう大丈夫だって。利き手は使えるし。」 「着替えもまともに出来ないくせに何が大丈夫なんですか。あーもーほら、貸して下さい。」 顔のあたりでまごついているトップスを脱がしてやると、コウと呼ばれた男はぷはっと息を吐いた。 「やー、わりぃわりぃ。ついでにそれ着せてくんない?」 コウはロッカーに掛かっている白のワイシャツを指差し、人懐っこい笑顔を見せた。 (ズルいよなぁ、この笑顔見せられると許したくなっちゃうんだもんなぁ。) 遥翔は心の中で独りごちながら、コウの左腕を吊っている三角巾を一度外し、シャツを着せると器用に腕を固定し、ボタンを留め、腰にエプロンを巻いてやる。 「ありがとなー、助かった。」 「いえいえ。その代わり、今日もいていいのはカウンターだけですからね?キッチン入っちゃダメですよ?」 「はいはい。つか、キッチン入ろうとしたらスタッフ全員で追い出すんだからそもそも入れねぇんだもん。みんな俺よりヒロキの言う事聞くんだもんなぁ。遥翔もこの一ヶ月ですっかりヒロキみたいになっちゃったしさぁ。」 「みんなコウさんを心配してるからこそ、ですよ。」 「うん、わかってる。ありがとな。」 そう言うと、また人懐っこい笑顔を浮かべ、遥翔の頭をよしよしと撫でる。 コウと呼ばれたこの男は、この店のオーナー。 遥翔の雇い主だ。 日本へ戻ったらすぐ働きたかった遥翔は、イタリアにいる間に就職先を探していた。 このご時世、なかなか良い所が見つからずに焦っていた時、専門学校の同級生がこの店のことを教えてくれた。 ダメ元で連絡を取った所、ちょうど求人を出そうとしていたらしく、即戦力なら大歓迎だからメールで履歴書を送ってくれと言われ、翌日にはもうスカイプで面接し即採用となった。 遥翔が驚いたのは、コウの決断力の早さもあるがそれ以上に驚いたのが、面接した時にコウが病室にいたことだった。 「ちょっと怪我しちゃって、こんな格好でごめんね。」 と、申し訳なさそうな笑顔を見せられ、コウの人柄の良さに安堵した。 遥翔の初出勤の日には既にコウは退院していたが、怪我が治りきっていない事もあり、挨拶と一通りの説明やらスタッフ紹介やらしてもらった後、副店長のヒロキに半ば強制的に同じビルの3階にある自宅に戻された。 「ごめんね、あの人俺達が止めないと平気で無理するから…。」 ヒロキの言葉に周りにいたスタッフからも、そうそう!とか働き過ぎなんだよ〜とか声が上がるが、その表情や言い方でコウがスタッフから信頼され愛されている事がよくわかった。 元々そんなに人見知りではなかった遥翔は、初日からスタッフともすぐ打ち解け、仕事覚えの早さを褒められ、通常2ヵ月の試用期間を1ヵ月でクリアし、昨日店の鍵を渡され、今日から正式採用となったのである。

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