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相反
新から「仕事が終わったら電話して」とメールが入っているのに気づいたのは、帰りの電車の中だった。
乗る前に気づくんだった、と心の中で舌打ちしながら、電話が出来ない理由と一緒に用件を聞くメールを返す。
少しすると、直接話したいからアパートまで来て欲しいと返事があり、遥翔はいつも降りる駅より2つ手前で降りた。
新と香織が暮らしていたアパートは、駅から徒歩5分くらいのところにある。
引越しの手伝いで一度訪れただけで、それ以来ここへ来るのは2度目だ。
道を覚えていて良かったと思いながら、2階の角部屋へと向かう。
インターホンを押すとすぐに新が出た。
「いらっしゃい、迷わなかった?ごめんね急に。」
「いや、それは良いんだけど…、おまえドア開ける時はちゃんと確認してから開けろよ。不用心だぞ?」
何のためらいもなく開かれたドアに一瞬驚いた後、新に軽く説教をする。
いくら新が180cm以上ある男とはいえ、今の世の中、知らない人間になんの理由もなくいきなり刺されることが絶対ないとは言えないのだ。
「いつもはちゃんと確認してるよ。でも今のはハルだってわかったから。」
「?なんで?俺、どのくらいで着くとか言ってなかったよな…?」
「足音でわかったよ。」
ああ、なるほど。とどこか納得しながら、やはりそれは確信に値するものではないんじゃないかと思う。
自分と似た足音の人物だったらどうするつもりだ。
過信は後悔を招く。
やはりもう少し説教せねばと口を開きかけた時。
「僕がハルの足音を聞き間違えるわけないでしょ?」
絶句とはまさにこの事か。
何をおかしな事を言っているの?とでも言わんばかりの表情に、遥翔は返す言葉が見つからない。
「そんなところに突っ立ってないで入って入って。春先とはいえまだ寒いし。外寒かったんでしょ?顔少し赤くなってる。」
新の大きな手が、遥翔の頬を優しく包む。
「ああホラ、冷たい。」
「……っ!」
遥翔は小さい頃から、寒いと頬や鼻が赤くなった。
けれど今赤いのは寒さのせいだけではない。
「おまえ…手、あったかいな…。」
直接触れる温もりに、思わず新の手に頬を擦り寄せる。
このまま、手のひらにキスしてしまいたい。
頬をもう少しずらせば、唇が触れる。
偶然を装ってしてしまおうか。
「心が冷たいのかもね…。」
新からポツリと出た言葉に遥翔は動かしかけた頬を止めた。
「え?今なんて……。」
「ううん、なんでも。さぁ、入って。」
「あ…うん。」
何事もなかったかのように中へ入るよう促す新に、遥翔はそれ以上聞き出す事が出来なかった。
廊下の突き当たりのドアを開けリビングに入ると、引越し当時とはまた違った部屋になっていた。
カーテンや家具はそのままだが、物が増え、位置も変わっていた。
カウンターキッチンと垂直になるように4人用のダイニングテーブルが置かれ、その隣に2人掛けのソファとローテーブル、テレビの順に並んでいる。
テレビの隣に置いてあるチェストの上には、新と香織のツーショットの写真や結婚式の写真などが、可愛いフォトフレームに入れられ、幼馴染み4人で撮った写真が一番目立つ所に飾られている。
4人とも、幸せそうに笑っている。
「適当に座って。コーヒーでいい?取引先の営業さんが豆くれたんだ。」
「あ、うん。サンキュ。」
ソファに座るのはなんだか気が引けて、遥翔はダイニングテーブルのほうに座った。
豆をミルでゴリゴリ挽く音と、お湯の沸くシュンシュンという音だけが部屋に静かに響く。
挽きたての豆にお湯を注ぐと、シュワシュワと豆の膨らむ音がし、その後はサーバーにコポコポと琥珀色の雫が落ちていく。
遥翔はコーヒーを落とすこの時間が好きだった。
落としている間はコーヒーの芳ばしい香りと音に包まれ、無心になれる。
家族や新達にごちそうしているうちに、新が自分もやりたいと言い始め、遥翔が教えてやったのだった。
遥翔は新と、まるで世界に2人きりにでもなったような感覚になれるこの時間がとても幸せだった。
淹れ方をマスターした新に、誕生日プレゼントであげたミルを今でも使ってくれている事が嬉しいのと同時に、やはり複雑な気持ちでもあった。
いつもなら、もしくはここが新のアパートでなければ幸せな時間だったのだろうが、今日に限ってはインスタントにして欲しかったと思う。
香織には申し訳ないが、新への気持ちを再確認してしまった今となっては、2人の愛の巣に長くいるのはツラい。
「はい、おまたせ。」
「サンキュ。」
2人分のコーヒーを注ぎ、新がキッチンから顔を出した。
「で、話したい事って?」
早々に切り上げて帰ろうと、遥翔から口火を切る。
「あ、うん。僕ね、ここを出ようと思うんだ。」
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