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切欠
せめてあと30分遅く出れば良かった。
まんまと通勤ラッシュの波に飲まれた遥翔は、自分の思慮の無さを心の底から悔いていた。
遥翔の通勤時間はラッシュが終わった後なので、満員電車は実に高校以来だった。
どうせ座るつもりもないので、ドアの前の角に立ち、体の右側面を壁によりかかるようにして体重を預け、目の前にいるOLらしき女性に痴漢と間違われないよう、静流から預かった荷物を抱き締めるようにしてしっかり持つ。
4月も終わりに近づき、だいぶ気温も上がって来たとはいえ、朝晩はまだ冷え込む時期で、乗客もコート姿が多い。
車内は暖房が効いているが、狭い車内にこれだけの人数が押し込まれていると、人の熱気も加わり暑いくらいだ。
空気が篭もり、具合も悪くなりそうで、遥翔は早く目的地に着いてくれと願いながら窓に視線を移す。
ふと、窓越しに目の前の女性と目が合った。
小柄で、肩にかかるくらいの焦茶色の髪をゆるくウェーブさせ、眉毛の上で揃えられたバングが大きな瞳をより強調させている。
見た目だけでいえば、遥翔より年下の、女性というよりは少女だった。
いつもならすぐ逸らすのだが、少女がその大きな瞳に今にも零れそうな程の涙をたたえ、ぷっくりとした唇を小さく震わせながら顔を俯かせるのが先だった。
視線を戻した遥翔は、少女の涙の理由がすぐにわかり、体をずらすとさり気なく少女を自分が今いた場所に誘導し、少女にピッタリと体をつけていた男との間に入る。
後ろからチッ、と舌打ちが聞こえたので、静流仕込みのメンチを切ると、男は青ざめながらサッと下を向いた。
数分後、ようやく目的地の新宿駅に到着し、ドアが開いたと同時に乗客のほとんどが下車して行く。
その波に紛れるように、男もそそくさと逃げて行った。
もうやるなよ、と男の背中に心の中で念を送り、出口へと歩き出すと、後ろから「あのっ!」と声を掛けられる。
振り返ると、そこには助けた少女が頬を高揚させて立っていた。
「あの、助けて頂いて…ありがとうございました!」
「あー…やっぱり…触られてた?」
「はい…。コートの上から、だったので…多分、ですけど…触られてる感じはしたので…。」
春風に乗って、女の子ならではの甘い香りが鼻先をくすぐる。
そりゃこんな可愛い子が目の前にいて良い匂いさせてたら、気が迷う事もあるだろう。
だからといって痴漢が許されるわけではないが、同じ男として遥翔は先程の男に同情しそうになる。
「どうする?今から追いかければ捕まえられると思うけど…。」
「いえ!大丈夫です!それより、あの…何かお礼をさせてもらえませんか?」
「いやいいよ、そんなたいしたことしてないし。」
「そんな!それじゃ私の気が済みません!」
「や、ホントにいいって。」
「ダメです!お願いします!お礼させて下さい!」
「んー…困ったな。…あ、そうだ。」
これは何か提示しない限りここから解放させてもらえないな。と、遥翔はバッグパックからショップカードを取り出し、少女に渡した。
「俺、ここで働いてるんだ。良かったら今度お友達とでも食べに来て。それをお礼にしてもらうってことでいいかな。」
「アトレ…?」
「そう。イタリアンだから、女の子好きだと思うし。今日は俺休みなんだけど、定休日以外なら大体いるから。」
「是非!行きます!」
「うん、待ってるね。じゃあ、気をつけて。」
「はい。本当にありがとうございました!お店、絶対絶対行きますね!」
遥翔は少女に手を振り、出口へと向かった。
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