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8話
(もう、そろそろ潮時なのかもしれない……)
晴斗は財布の中身を確認しながら、一人重たい溜息を吐いていた。バイトで稼いできた金がそろそろ無くなりそうになっていたのだった。自分の生活費も考えてみて、愁と一緒に過ごす金が無い事実に、頭と心が痛み出しそうだった。
知らず知らずのうちに晴斗は、愁に恋をしていた。それは、初めて出会った時に、初めて助けてくれた時に、初めて抱いてくれた夜の時に、いつしか晴斗の心は愁に奪われていた。けれど晴斗は、あの日の夜に愁に言われた言葉を思い出す。
『金しか信用していない』
愁にはっきりと告げられた言葉。金の無い自分はもう用済みかもしれない。それならば、愁から潔く離れた方がいいのだろうかと晴斗は考える。考えてみて、せめて、今まで最高の夜と優しくて甘い夢を与えてくれた愁に対して、何かお礼は出来ないだろうか。考え込みながら晴斗は、ふらふらと街中を歩いていた。
ふと、目に止まったのは、とある花屋だった。彩り豊かな花々が活けられていて、とても綺麗に目に映る。花特有の香りも香って、少しだけ心が穏やかになった。しばらくの間、立ち止まってぼんやりと眺めていると、店員に声を掛けられた。
「いらっしゃいませ、ごゆっくりご覧になってください」
「ど、どうも……」
愛想の良い店員に対して晴斗は、頭を下げて会釈をする。改めて店内を見回すと、見た事の無い花や知らない花がたくさん置いてあって、色鮮やかで綺麗だと思った。見回してみて、晴斗は青色の花に目が止まる。小ぶりな花がたくさんついている綺麗な青色をした花だった。何となく愁の瞳の色も青色系だったと思い出す。晴斗は徐に、その青色の花を指差して店員に告げていた。
「この花を、小さめの花束にしてください」
「かしこまりました」
にこにこと愛想の良い店員は笑みを浮かべながら、慣れた手つきで小さなサイズの花束を作り上げていく。すると、店員は晴斗に対して話しかけてきた。
「誰かとお別れするんですか?」
「えっ……。何で、分かったんですか……?」
「いえ、このお花の名前が『勿忘草』と言いまして。花言葉が『私を忘れないで』という意味があるんですよ。別れを告げる時によく用いられるお花でして」
「そう、だったんですね……」
偶然、目に入って綺麗な色をした花に、まさかそんな意味があるとは晴斗は思っていなかった。けれど、同時に店員が言った通り「別れを告げる」時に用いられる花だから、ぴったりなのかもしれないと考えた。
(忘れないでください……って、女々しいかな、俺)
店員に気付かれない様に、少しだけ晴斗は落ち込みながら、自嘲気味に笑みを浮かべるのだった。
*****
綺麗にラッピングされた勿忘草の花束を見つめながら晴斗は、いつもなら夜遅くに行く所を、夕方頃に『ナイトムーン』の飲酒店に向かった。店内に入って、辺りをきょろきょろと見回してみると、客の姿があまり無かった。いつもカウンター席に座っている愁の姿が無い事に、晴斗は一安心した。もしも、愁と直接出会ってしまったら、花束を渡すどころか、未練がましく泣きわめいてしまうかもしれない。そんな失態を晒したくなかった。きょろきょろ見回してみると、いつもいる洋平もまだ来ていない事に気付く。それなばらと、晴斗は顔見知りになったマスターに対して声を掛けた。
「あの、すみません……」
「おや、どうかされましたかお客様?」
「この花束を……、いつも、この席に座っている睦月愁さんに渡してもらえませんか?」
「睦月様に、ですね。かしこまりました、預かっておきます」
マスターは柔らかい笑みを浮かべながら了承するのを見て、一安心した。晴斗はマスターに小さな勿忘草の花束を渡すのだった。すると、マスターはふと何かを思ったのか、晴斗に言葉をかけた。
「もうこのお店には来られないのですか?」
「ええ……。お金、無くなって来てしまったので」
「それは、残念でならないです。ですが、またいつでもいらしてくださいね」
「はい、ありがとうございます。ここのカルーアミルク、とても美味しかったです」
いつも見守ってくれていた心優しいマスターに対して、ぺこりとお辞儀をした。本当ならば、世話になっている洋平にも挨拶をしかったが、いないならば仕方が無い。もう二度と、このお店に足を踏み入れることは無いのだろうと思いながら、晴斗は店内を後にしたのだった。
そうして、歩いている途中で晴斗は目が熱くなるのを感じる。ほろり、ほろりと、気が付くといつの間にか涙を流していた。ほろりと零れ落ちる涙の雫は、地面に落ちて消えていく。街中が眠りに着いて、月の光が差し込む前に、晴斗は逃げる様に自分の住んでいるアパートまで足を早めたのだった。
「……っ、さようなら、愁さん」
きっと、もう二度と出会えない。本気で恋をした相手に対して、晴斗は別れの言葉を零したのだった。
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