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第5話 パラソル

 カフェのアルバイトの休みの日、大学からの帰り道で家の最寄り駅に着いた途端に、突然降り始めた雨に困り果てていた。  (天気予報当たったな~、どうしよう、今日傘持ってきてないよ~。)  駅から出て行く人たちは皆それぞれ傘を手に道に踏み出している。道は色とりどりの傘が溢れていた。 「雫くん?」 「えっ!」  声をかけられ振り返るとそこには和樹が立っていた。シンプルなスカイブルーのアイロンの利いた綿のシャツに黒のジーンズ。そこにシルバーのネックレスをしている和樹がいつもの爽やかな笑顔でそこにいた。 「和樹さん・・・」 「やっぱり、雫くんだ。どうした?この雨の中もしかして傘がないのか?」 「そうなんです。傘忘れちゃって。」  雫は肩をすくめて和樹をみあげた。カフェ以外で会う事が新鮮で驚いていた。私服で会うのは初めてかもしれない、そう思うとおしゃれな和樹を前にして恥ずかしくなってきた。 「ここからどこかに行くの?」 「えっ、家に帰るだけです。」  駅にいるのだから聞かれても当然のことを聞かれた雫は慌ててここが家の最寄り駅であり、歩いて10分ほどの所に家があることを説明をした。 「一緒の傘になるけど家まで送っていくよ。ほら、入って。」 「え・・・」  スマートに和樹は肩を抱き寄せ傘に入れてくれた。 決して強引ではなく自然と傘をさしだしてくれる姿は慣れたものを感じさせた。  しとしと降る雨の中、和樹も自身の事を話して聞かせてくれた。和樹は家は駅の反対エリアの、開発の進んでいる所、歩いて5分のマンションに1人で住んでいるらしい。それに比べ、雫の住むエリアはまだ開発進んでいない下町の雰囲気の残る街だ。それでも雫はこの街が好きだった。 「良かったら、家に遊びにおいでよ。」 「良いんですか?本当に行っちゃいますよ?」  左側に立って傘に入れてくれる和樹を仰ぎ見て笑顔で雫も会話を楽しんでいた。傘の中から見る景色がいつもとは違っていて、雫の口も滑らかになっている。 「もちろん。なんなら泊まってくれても良いよ。」 「じゃあ、お邪魔しちゃいます。約束ですよ?」 「もちろん。」  優しく浮かんだその笑顔に雫は嬉しくなった。誰かの家に泊まりに行くのは、高校に行きアルバイトを始めてからはしたことがなかった。  今日の雨音は2人の会話を妨げない。まるで2人の世界のようだった。 (本当に行っても良いのかな?社交辞令っていうものかな?でも良いなこういう話が出来るなんて。)  いつもの見慣れた町並みを雫は新鮮な気持ちで歩いていた。あの角を曲がれがアパートが見えてくる。この時間をまだまだ終わらせたくない雫がいた。 (こんな気持ち初めて、時間が経つのが早すぎる。もっと話してたい) 「あの角を曲がれば僕の住むアパートです。」 「そっか、以外と早かったここまで。」 「ほんとですね。」 (嬉しい。同じ事思ってくれてる。)  雫の歩くスピードがどんどん遅くなっているのに雫は気が付いていなかった。少しでも時間を無意識に延ばそうとしていた。 「雫くん?」 「あの、雫って呼んでもらえませんか?」 「えっ。」 「駄目ですか?」 とうとう雫は歩みを止めて俯いてしまう。 「雫、ほら、もう着くよ」  俯いていた雫はその言葉に咄嗟に和樹を見上げる。そこには優しく微笑んでいる顔がある。雫の好きな顔だった。 「はい!ありがとうごさいます。」  そのありがとうには、2つの意味があった。送ってくれたこと、名前を呼んでくれたことだ。  アパートの軒下に着いて、和樹が傘を閉じたとき、断りを入れて雫は眼鏡を外してハンカチで拭き始めた。 「ごめんなさい。眼鏡が濡れてしまって。」 「構わないよ。」  俯いて眼鏡を拭いていた雫の頬に和樹の右手が触れた。大きな温かい手だ。視線の先には濡れた右肩が写る。 (なんだろ?あっ!僕のせいで雨に濡れてる)  ゆっくりと近づいてくる雰囲気、見上げた雫の額に優しく触れる感触がした。それは本当に優しく触れるだけのもの。雫は目を見開いた。 「じゃ、またな雫。」  和樹は雨の中、身を翻すように傘もささず笑顔で傘の持っていない右手を振って帰って行く。 (今触れたのは唇?)  笑顔で帰って行く和樹に咄嗟に手を振り返した雫は眼鏡を拭いていたハンカチを落としておでこに手を当てていた。

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