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温泉旅行 #3 side Y
どうして...
どうして...女将さんは...冬真の名前を知っているのだろう...
宿帳で知ることは可能だろう...
だけど...
「君」って...
「ビックリしたわよね?驚かせてごめんなさい。私は藤岡礼子と申します。旧姓は山内。山内彰は私の弟なんです。」
「えっ...お姉さん?」
「はい。この度は弟がご迷惑をお掛けしたようで...本当に申し訳ありません。」
女将さんは頭を下げた。
「いいえ。こちらこそ...こんなに素敵な旅館に招待して頂いて...山内さんには感謝しています。」
「そう言って頂けるとありがたいです。彰は悪い子じゃないんだけど...小さい時から、言葉足らずな所がありまして…里中先生はいつも心配してくださっていました。」
「親父さんが?」
「ええ。」
冬真の右手が俺を探していた。不意に親父さんの名前が出てきて、急に不安になったのだろう。俺はその手を握りしめる。
「大丈夫...大丈夫だよ。」
「どうかされました?」
「いいえ...大丈夫です。女将さんは冬真の親父さんのこと、知っているんですか?」
「弟ほどではありませんが、存じています。当時、私は大学生でした。当時のあの塾は、本当にアットホームでね。季節のイベントが多かったの。夏にはハイキングやお正月にはお汁粉大会とかね。私も何回か参加させて頂いて...里中先生は私より3歳ほどお兄さんで、大学の話や勉強の話をしたり、お薦めの本なんかを教えてくださったり、その本を読んだ後にお会いすると、互いに感想を言ったりして...私にとって里中先生は、本当に優しくて、博識で素敵なお兄さんでした。そのうち、塾のイベントに冬真君が来るようになりました。里中先生は冬真君を本当に可愛がっていて...目の中に入れても痛くないって言うのは、こういう事なんだろうなって...よく思ったものです。実際、冬真君はとっても可愛くてね...私も抱っこしたことあるの。あの時の赤ちゃんが、こんなに立派な大人になっているなんて...」
女将さんの言葉に、冬真は恥ずかしそうに頬を朱に染めた。
「それにしても...親子って不思議ね。冬真君が里中先生に瓜二つなのは、チェックインの時見て、本当に驚いたんだけど...意外なところも似るものなのね...面白いわね...」
「えっ?」
「いえね...さっき食事をしている冬真君を見て、あぁ...里中先生もこんな風に食べていたなぁ...って思ったものだから...」
「例えば...例えばどんなことですか?」
「さっき、お吸い物を食べていた時、海野さんが念入りに冷ましていたでしょ?『フゥフゥ』って。そして、冬真君が口に運ぼうとした時、もう一度、自分で『フゥフゥ』って冷ましたでしょ?あれ見てね...親子で猫舌なんだなぁって。里中先生もかなりの猫舌で、生徒さん達からよくからかわれていたの。あぁ一緒だなぁって。あとは左に小首を傾げるクセとか...さっき、海野さんが『美味しい?』って聞いた時、冬真君が微笑んで、少し左に小首を傾げるのが見えたから...本当に里中先生の生き写しだなぁって。」
「教えてくださって、ありがとうございます。冬真は親父さんの記憶がほとんどないんです。父さんの記憶がある方は、赤ちゃんの頃の冬真の記憶しかないから...こうして二人の似ているところを教えて頂けると、冬真が親父さんを身近に感じることが出来ます...俺...そのことが本当に嬉しくて...」
俺がそう言うと、冬真は頼りなさ気に手を握り返した。
「少しでもお役に立てて良かった!私も嬉しいわ!さっ、冷たいうちに召し上がって!ビール!」
女将さんは再度、ビールを勧めてくれた。俺は嬉しさのあまり、それを一気に飲み干した。
ビールを飲んだことのない冬真は、それを恐る恐る口にすると、あからさまに『苦い!』という顔をした。
子供のような冬真がおかしくて...愛おしくて...俺は思わず笑ってしまう。
冬真はそんな俺を見て、久々に声を出して笑う...
う...ふふ...ふ......
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