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過保護と自立 #4 side Y

浮かない気持ちのまま、冬真を迎えに病院へ向かうと、待合室で意外な人から声を掛けられた。 「海野さん。」 「野上さんの奥さん!ご無沙汰しています。お元気でしたか?」 「ええ。あなたもお元気そうで何より。お店の方はいかがですか?一度お伺いしたいとは思っているのだけれど...お父さんと二人では...なかなかね...」 「何とかやっています。お陰様で冬真と二人、質素に暮らしていくには困らない程度に。」 「そう。それは良かった。」 「あっ...野上さん。パンの教室の月謝のことなんですけど...」 「いやだぁ~教室だなんて...」 「えっ?」 「教室とか月謝とか...そんな大層なもんじゃないのよ。おばあさんの趣味に付き合ってもらうだけよ。それと...おじいさんのお守り。」 「趣味?」 「そう。私の主人はね、かつて商社マンだったの。海外の暮らしが長くてね...色んな国に住んで...その土地の料理をたくさん覚えたわ。お料理は今でもよく作るの。分量調整ができるから、お父さんと二人でも大丈夫。でも...パンは...そうもいかなくて...作ろうと思うと大量になってしまう。だから作りたくても作れない。たまにあるのよ...あの土地で食べたあのパン食べたいなって思うことが。だから岩崎君にお願いしたの。パンを作りたいんだけど、出来たら貰ってくれないかって。そうしたら、岩崎君、『どうせなら作るところから教えてもらいたい』って言ってくれて...私は喜んで引き受けたの。パン作りには発酵時間があるから、待ち時間が長いでしょ?その時間はお父さんのお守りをお願いしようと思ってて...岩崎君、チェスや将棋が好きだって言ってたから。だからね、月謝なんて要らないのよ。払うとしたら、こちら側が払うべきなのよ。」 「そうだったんですか...」 「それに...岩崎君には感謝しているの。お父さんが真面目にリハビリをしてくれる様になったのは、岩崎君のおかげだから...」 「冬真の?」 「ええ。お父さん、不貞腐れてリハビリ全然してくれなくて...今考えると、急なことでショックだったのね。そんな中、岩崎君を見掛けたの。岩崎君は、リハビリセンターの中でもすごく異彩を放っていたから、悪いと思いつつも、ついつい目がいってしまったって。いつも無表情で、療法士さんの声にも何にも反応しない、最初はこんな状態でリハビリして何の意味があるのか思ったらしいの。佐々木さんにも突っ掛かった。大きなお世話でしょ?本当に失礼よね?岩崎君みたいに全然進歩しないかもしれないのに、リハビリなんてやったって意味がないって。ようは八つ当たり。でも、佐々木さんは諭す様に言ったの。 『確かに岩崎さんは、今は目に見えるような進歩はありません。だけど...岩崎さんはここに来るだけでも、充分リハビリになってるんです。家から外へ出る、ご家族の元を離れる…たったこれだけでも、かなりの負担なんです。精一杯の勇気を振り絞って、恐怖心と戦って、閉ざした心を開こうと努力されているんです。自分を支えてくれる人のために。野上さん、岩崎さんと向き合ってみてはいかがですか?岩崎さんを通して、ご自分の姿やすべきことが見えて来るかもしれないですよ。』って。 それから岩崎君と積極的に関わろうとしたの。今から考えると、本当に失礼なんだけど、最初は佐々木さんへの反発心から。でもね、岩崎君と向き合うことによって、徐々に彼の置かれた状況、人となりが分かってきた。そして、気が付いたの...確かに岩崎君は、少しづつ前を進んでいる。ゆっくりと変わっていく岩崎君を見て、自分も頑張ろうと思ったみたい。」 「そっか...冬真...前に進んでますよね。やっぱり...信じてみようかな...」 「信じる?」 俺は野上さんに、昨日から今日までの出来事を話した。 「そうね...それは心配ね...海野さんの言う通りよ。あなたは間違ったことは言ってないわ。でも...岩崎君の気持ちも、海野さんのお父様の気持ちも分かるし...なかなか難しいわね...」 「はい。」 「そうね...最初は月に一度ぐらいで考えているの。最初のうちは、あなたもいらしたらどうかしら?」 「俺も...ですか?」 「ええ。お仕事大変で、お疲れでしょうけど...月に一度、お店がお休みの日に、岩崎君に付き合ってあげてくれないかしら?あなたが一緒なら、岩崎君も嬉しいでしょうし、それに...あなたにパン作りを見てもらえた方が、岩崎君の目標も早く達成出来そうだしね。」 「目標?」 「岩崎君がパンを作りたいと言ったのはね...あなたのためなのよ。」 「えっ?」 「あなたのコーヒーによく合う美味しいパンを作って、あなたを喜ばせたいんですって。今まで迷惑や心配ばかり掛けてきたからって。岩崎君、昨日今日は複雑だったでしょうね...お父様を気遣った結果、あなたに心配をさせてしまったんですもの。あなたを喜ばせるためのパン作りなのに...」 「そうですよね...可哀想なことをしました...」 「お父様のお気持ちも、岩崎君にキチンと話した方が良いと思うわ。岩崎君と車中で過ごす時間はお父様にとって至福の時間なんだって。うちのお父さんだって、今じゃ『岩崎君、岩崎君。』って、リハビリの日の前後は岩崎君の話ばかりなの。可愛くて仕方がないのね。うちのお父さんでさえ、そうなんだから、ほぼ身内のお父様はもっとでしょうね。ひとまず、海野さんの連絡先を教えて頂いても良いかしら?日程をある程度絞りましょう。」 野上さんと連絡先の交換をし、パン作りの日には、店と同じ豆を持参し、美味しいコーヒーを淹れることを約束した。 リハビリセンターからの帰り、デパートへ向かう車中で、野上さんのパン作りに俺も何回か参加することを伝えた。冬真はとても驚いていたが、朝のぎこちなさはすっかり消え、ちょっと嬉しそうにも見えた。 「冬真の一番習いたいパンは何?」 「しなもん...ろーる...」 「シナモンロールかぁ...」 「よぅすけの...こーひー...しなもん...ろーる...おいしい...でも...ふつうの...ちがう...あいしんぐ...ない...よぅすけの...こーひー...あう...」 「アイシングのかかってないシナモンロールかぁ...珍しいね...でも、確かにそっちの方が俺の淹れるコーヒーに合うかも!うん!」 「ぼく...ぱん...べんきょう...」 「やっぱり冬真はスゲーな!」 「なん…で?」 「だってさ、俺のこと何でも分かってるし、努力家だし、勉強家だし...」 冬真は頬を朱に染めた。いつも通りの可愛い冬真になっていた。 「パン作り...楽しみだな!」 「うん...」 「まずは、プリンだな!」 「うん...ぷりん...ぷりん...」 冬真は彼らしく、小さく微笑んだ。

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