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儚い人 #2 side Y
「大丈夫。大したことはないよ。直に目を覚ますだろう。」
「本当ですか?良かった...天城先生、お忙しいのにすみません。診療所の方は大丈夫でしたか?」
「気にする様なことじゃないさ。まだ午後の診療時間前だ。」
「ありがとうございます。いつもなら、発熱が原因だったりして、何かしら兆候があるんですけど、今回は何の兆候もなく、急に意識を失ったものですから...俺...すっかり動転してしまって...」
「今日からヒアリングとライティングのリハビリ始めるって言ってたからね。疲れたんだろう。」
「そうだったんですか?」
「何だ?聞いてなかったのかい?」
「はい...新しいリハビリメニューをするとだけしか...」
「そっか...冬真が教えなければ、君が知る手立てはないもんなぁ。私は先日、N駅で偶然、柳瀬君に会ってね。彼から聞いたんだよ。」
一緒に暮らしているとは言え、法的に家族と認められていない俺は、冬真の医療関係の情報をドクターからは一切教えてもらえない。冬真の心療内科の主治医、柳瀬先生は天城先生の大学の後輩にあたる人で、柳瀬先生のご厚意と天城先生が発行してくださる証明書や委任状で、冬真の普段の様子を柳瀬先生に伝えるという名目を元に、時折、診察に立ち会わせてもらうことが出来た。
「冬真...何で言ってくれなかったんだろう...」
「まぁ......どちらのメニューも冬真にしてみれば未知の領域だしね。特にヒアリングは今でも苦手なんだろう?」
「ええ...長い会話は理解出来ないというか、途中からただの意味もない音になってしまうみたいです。その音が時折、酷い雑音や騒音に聞こえることもあるみたいで...そういう時、寝込むこともありますね。」
「事件から4年......そんなに強く頭を打ち付けられたんだろうか......」
「でも...生きて帰って来ました。それだけでも...」
「そうだね。脳波の異常は今でも見つかってないんだ。これからのリハビリ次第でどんどん好転するさ。冬真の力を信じよう!」
「はい。」
「しかし...何で今日にしたんだろうな...」
「何がですか?」
「いや、柳瀬君が教えてくれたんだ。年が明けたら、ヒアリングとライティングのリハビリを始めようって言ったら、冬真が今日を指定したんだそうだよ。冬真がリハビリに通う週3日の中で、年明けに始めるってことなんだから、1月中だったら別にどこだって良いはずだろう?何で今日だったんだろう?何で今日にこだわったんだろう?」
「今日......?1月......?あっ!」
冬真の丸の付いたカレンダーを思い出す。
「俺が...送迎...出来る日......」
「うん?」
「1月中...俺が冬真の病院の送迎が出来る日は、今日だけでした。でも...所用が入ってしまって...急遽親父に代わってもらったんです。」
「そっか...」
「それを伝えた時、冬真...かなり落胆したというか...ずっと何か言いたげで...」
「なるほど......あくまでも推測の域を出ないけど...冬真は今日のリハビリのことが不安だったんだろう。だから、君が送迎してくれる日を選んだ。君が送迎するってことは、君との時間がいつもより増えるってことだろう?その楽しみとリハビリの不安を相殺しようと考えたか、君の送迎自体をお守りの様に考えていたのかもしれないね。まぁ...私が知っている限り、冬真という子は、後者の方を考えるタイプだと思うけど。」
「そうですね...俺もそう思います。」
「いつもは、ただただ楽しみな君の送迎。だけど、今日はお守りというか...心の拠り所だったんだろうな。まぁ、不安は口にしてしまえば良かったんだろうけど...大分良くなったとは言え、冬真は自分の気持ちを吐露するのが苦手だからね。でも...今日は相当頑張ったんだと思うよ。ほら!見てごらん!」
天城先生は冬真の右手小指側の側面を見せた。そこだけ真っ黒で、鉛筆で書いた物を擦ったような跡があった。
「一生懸命書いたんだろう...」
「はい...」
「目が覚めたら、たくさん褒めてやってくれ。残念ながら、この子は褒められることに慣れていない。だから...せめて君だけはこの子をたくさん褒めちぎって、たくさん甘やかしてくれないか?絹枝も織枝義姉さんも、そうしてやりたかったんだ...特に絹枝は...冬真のそばにいたからね...しかし、それが許されず、相当ジレンマを感じていたんだよ。一般的な叔母が甥に対してする、当たり前の愛情を注ぐとね、冬真が英輔さんに叱られたんだ。絹枝はそれが不憫でならなかった...診療所で『悔しい...悲しい...ツラい...』そう言って、何度も泣いていたっけ...そう言うと、英輔さんってとても酷い人間って思うだろう?でもね、英輔さんも英輔さんなりに冬真を愛していたんだよ。母親があんな風になってしまって...冬真自身も持病があって、病院暮らしが長い...英輔さんは自分という後ろ楯が無くなった時の冬真の行く末をとても不憫に思った。だから、厳しく育てようと考えた。厳しく育てて、将来、一人で困ることのないようにしようと...その考え自体は間違ってはいないだろう。でも...その方法は、冬真の性格には合ってなかった...冬真は優しすぎる子だから...反発心や反抗心なんて微塵もない。何があっても内向に向かってしまう...誰が悪いワケでもない...ボタンの掛け間違いの様なものだな...きっと...」
「冬真のお祖父さん...岩崎英輔氏って、どんな人だったんだろうって、ずっと思ってました。俺は新聞やテレビでしか見たことないし、里中姉妹にしたことや、冬真のあまりにも無さすぎる自己肯定感を見ていると、かなり冷たい人だったのかなって。でも...今のお話を聞いて...思慮深くて、愛情も深いのに、その表現方法が下手と言うか...知らないと言うか...弥生さんの長兄、正文氏にちょっと似ているのかもしれないですね。どこまで出来るか分からないけど...皆の冬真に対する愛情、したくても出来なかったこと...全部俺が引き受けます。俺のような若輩者が生意気ですけど...」
「いや...君しか出来ないと思う...よろしく頼みます...葉祐君。」
俺の言葉に天城先生は深々と頭を下げ、診療所へ戻って行った。
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