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嫉妬と暴挙と制裁と #8 side Y
2月のとある日曜日、その人は突然現れた。
店を閉めるため外灯を消そうとした時、一人の男性が突然話しかけてきた。
「もう閉店ですよね?」
男性はそう言った。モデルを思わせるのような長身で引き締まった体に甘いマスク。一度見たら忘れられない華やかさのある人だった。見た記憶がないのだから、恐らく初めて来店した人であろう。
「ええ。ですが、せっかくいらっしゃったのですから...どうぞ中にお入り下さい。生憎、パンはなく、コーヒーだけのご提供になりますが、それでもよろしいですか?」
「はい。ありがとうございます。」
その人は丁寧に頭を下げた後、
「すみません。更に図々しいお願いなのですが...店内の岩崎先生の作品を拝見させて頂いてもよろしいでしょうか?私、岩崎先生の大ファンなんです。このお店のことも随分前から知っていて、一度訪れたいと考えていながらも、なかなか都合がつかなくて...何とか仕事を切り上げて、今日、やっとの思いで来たものですから...」
そう言った。
「そうでしたか。それでは、私は少し片付けをしています。頃合いを見て、コーヒーを淹れますので、それまで、どうぞご自由にご覧下さい。」
「お心遣いありがとうございます。お言葉に甘えさせて頂きます。」
店内に飾られた冬真の作品を、その人はゆっくり丁寧に見ていった。その中でも取り分け、俺の一番のお気に入りの絵に長い時間を掛けていた。俺はその人の隣に立ち、話し掛けた。
「その絵、良いでしょう?」
「ええ。」
「私の大好きな作品なんです。あまりにも好き過ぎて、原画を返して頂けるように、ずっと出版社にお願いして、最近やっと手元に返ってきたばかりなんですよ。」
「『夢見る森』シリーズの1番目ですね...」
「お詳しいですね。」
「この作品、『夢見る森』の1番は、田辺マナブの小説のカバーイラストになりました。」
「本当にお詳しいですね。その通りです。元々は趣味で描いていたものらしいんですけど、その絵を見た田辺先生のご担当の方から、どうしてもと頼まれたらしくて...」
「そうだったんですね!『夢見る森』シリーズは、有名な作家の方々の代表作のカバーイラストになりました。」
「その通りです。あなたの様なファンの方がいらして、岩崎も画家冥利につきます。さぁ、コーヒー淹れますね。どうぞお掛けください。」
俺はその人をカウンターに近い席に座るよう促した。その人は藤原と名乗り、コーヒーを淹れている間、様々なことを話してくれた。冬真の作品を知ったきっかけは、甥へのプレゼントにと、本屋で偶然手にした児童書だったこと。それ以来、冬真の作品の虜になり、冬真が表紙や挿し絵を手掛けた全ての本を所有していること。東京から来たこと。デザイン関係の仕事をメインにしていることなど。
淹れたばかりのコーヒーを藤原さんの前に差し出した。
「どうぞ。」
藤原さんは一礼して、コーヒーを口にし、
「美味しい!」
と目を輝かせながら言った。
「ありがとうございます。」
「本当に美味しいです。それにしても...随分丁寧に淹れるんですね...コーヒー...」
「ここは水も空気も良いですからね。丁寧に淹れなければ、全てが台無しです。それに...」
「それに?」
「こんな僻地まで足を運んでくださるのですから、丁寧に淹れなくては、お客様に申し訳ないです。藤原さんの様に岩崎の作品を心から愛してくださる方には特に。」
「恐縮です。恥ずかしながら、どうやら、私は誤解していたようです...」
「何をです?」
「あなたのことをです。葉祐さん。」
「えっ?」
まだ自分のことは名ばかりか、何ひとつ語ってはいない。それにも関わらず、藤原さんは俺の名を知っている。俺は懐疑の目で彼を見つめる。藤原さんもまた、それに臆することなく、真っ直ぐな瞳で俺を見つめ返した。
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