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さまよう心 #1 side Y

ガタンゴトン...ガタンゴトン... 一定に奏でる電車のリズム。春の暖かい日差しに恵まれた今日、俺は冬真を連れて出掛けた。 『暖かくなったら、電車…乗りにいこう』 この言葉に胸を躍らせ、随分前からその日を楽しみにしていた冬真だったが、今は家から持参したブランケットにくるまり、ただ、ぼんやりと車窓を眺めていた。いや、もしかしたら、瞳を開けているだけで、何も見ていないかもしれない。 「冬真。ほらっ?菜の花が見えてきたよ!」 いつしか車窓からはたくさん連なった菜の花の列が見えていた。その言葉にも、冬真は無反応だった。 「ずっとこうしているのも疲れるだろう?もう、そろそろ家に帰るか?」 何往復もその電車に乗り続ける俺達。しかも、車イスに乗る冬真の腕の中には自身で作った編みぐるみ。怪しいと思われても仕方あるまい。現に車掌が1度声を掛けて来た。 「やっぱりダメか...電車に乗ったら、少しは元気になると思ったんだけど...」 ジオラマの中を走るミニチュアの電車を、へばりつく様に眺めていた冬真の横顔を思い出した。涙が出そうになった。 「次の駅で反対方向の電車に乗り換えよう。」 それだけ冬真に伝え、まだまだ続いている菜の花の列をぼんやりと眺めた。 冬真が心臓の発作を起こしたと、リハビリセンターから連絡が来たのは、もう6日も前のことだ。俺はまさに、冬真を迎えにリハビリセンターに向かう車中にいた。車を停め、電話に出ると、冬真の担当療法士、佐々木氏からだった。 『今、病院の方に運ばれて処置をして頂いてます。海野さん、一刻も早くこちらへ!』 その緊迫した声に、胸の鼓動が早まった。急いで車を走らせ、病院に到着すると、腕や体にいくつも管を付け、顔に酸素マスクを付けてること以外、家にいるときと何ら代わらない、あどけない寝顔がそこにあった。 「心臓の方は心配ないよ。直に目を覚ますだろう。念のため、今日一日は入院しておいた方が良いかな。明日もう一度診察して、何もなければ即退院。でもね...退院してからの方が心配かな。彼にとって、ちょっとショックな物を見てしまったらしいんだ。心臓はそれでちょっと発作が起こっただけなんだけど...詳しくは心療内科の方で聞いてもらえるかな。」 ドクターはそれだけ告げると、病室から出て行った。代わりに心療内科のドクター、柳瀬先生が入って来て、ことの詳細を告げた。 リハビリを終え、冬真は野崎さんと一緒に更衣室へ向かった。普段ならそこに佐々木氏も加わる。冬真の着替えを手伝うために。しかし、今日、冬真はそれを拒んだ。最近芽吹いたばかりの冬真の自主性を尊重し、佐々木氏はついていくことを辞めた。もうすぐ着替えが終わろうかという頃、見知らぬ二人の間で、ちょっとした喧嘩が始まった。最初は小競り合い程度だったが、徐々にエスカレートし、殴り合いにまで発展した。二人の顔はみるみるうちに腫れ上がり、生憎、更衣室には冬真と野崎さん、それと喧嘩している二人組の四人しかおらず、野崎さんは人を呼びに更衣室を出ようとした。しかし、殴り合っているうちに二人はじりじりと移動して、冬真の目の前までやって来た。野崎さんは、その場から逃げるように言った。しかし、冬真は恐怖でその場から動けなかった。そして、偶然、どちらかの血飛沫が飛び、冬真はそれを顔や手など、上半身で受けとめてしまう。冬真は血がかかった自身の手や体を茫然と見つめ、その後、フラフラと歩き出し、更衣室にある緊急ボタンを押した。そして、悲鳴を上げて倒れた。 「これは一緒に更衣室にいた、野崎さんとおっしゃる方の証言なんだけどね。もう分かるだろう?君には...」 「はい......」 「そうなんだ。あの事件の時と様子が酷似しているんだ。殴られて飛ぶ血、腫れ上がった顔、緊急ボタン...悲鳴を上げたところをみると、フラッシュバックが起こったのは間違いないだろう。だから、目が覚めても、心は閉ざしたままかもしれない。まぁ、今回のは一時的なものだとは思うけどね。浮き沈みがあったけど、やっと日常生活は送れるようになっていたのに...君も大変だろうけど、彼が早く日常に戻れるように努力してやってくれ。くれぐれも一人で頑張り過ぎないように。ご家族も協力も得るんだぞ。」 冬真は翌日退院し、それから4日、ずっと家に閉じ籠っていた。その間ずっと、編みぐるみを離さなかった。柳瀬先生は、あの編みぐるみは冬真にとって、時間経過の象徴なのかもしれないと言った。あの事件の時、冬真は瀕死の状態で、冷たく固い浴槽にその身を置かれた。だから、異質の温かく柔らかい編みぐるみを肌に触れさせることで、あの時とは違うと本能的に悟ろうとしているのかもしれない、だから無理に取り上げないようにと言った。編みぐるみに人が触れると、冬真はその度に体をびくつかせていた。奪われることが怖いのかもしれない。両親が来ても、俊介さんのアトリエに行っても、冬真は編みぐるみを抱え、ブランケットにくるまり、ずっと小さくなっていた。 両親と俊介さんとで話し合いを重ね、結果、冬真が好きなことや楽しみにしていたことをしてみようということになった。 『暖かくなったら、電車に乗りに出掛けよう』 そう約束していたことを思い出し、店を俊介さんに任せ、今日、出掛けてみたのだが、あまり良い結果は出なかった。俊介さんはこちらに越してきてから、よく店を手伝ってくれた。元々、カフェを経営していただけあって、とても飲み込みが早く、数回店に出ただけで、ほぼ完璧に店の味を再現出来ていた。 乗り換えた電車がN駅に着くと、真っ先に俊介さんに連絡を入れた。店の様子を聞いた後、惨敗だった今日の結果を知らせた。 「そうでしたか...葉祐さん、もう少し二人でゆっくりしてきてはいかがですか?」 「でも...」 「店の方は、平日ならお母様と二人でなんとかなります。」 「う~ん...ひとまず帰ります。冬真も久々の外出で疲れただろうし、昼食もまだなんで...」 「わかりました。ただ、今日は店には寄らず、このままお帰りください。あなたも疲れたでしょうから...」 「ありがとうございます...じゃあ...」 通話を切り、再びコンコースを歩き出す。それまで顔を正面にしたままで、視線も定まっていなかった冬真が、不意に首を横に動かし、視線をどこかへ移していた。

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