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さまよう心 #6 side T

大丈夫...大丈夫だよ... だから...安心して...そこから...出ておいで... 遠くから...声が聞こえる...誰? 僕は...水中にいるみたい 音が...くぐもっていて...よく聞こえないし...水中から...たゆたう水面を見ているみたいに...よく見えないんだ そう...ここは...湖の底 とても綺麗だけど...暗くて冷たい湖の底 ずっと離れた湖上の方から、やっぱり優しい声が聞こえてきて...その声に導かれるように...僕は思い切って湖底を蹴る 湖上に近付いて来て...見えてきたのは...やっぱり葉祐の姿だった 『葉祐!僕はここだよ!』 そう言おうと思うのに...僕は声が出せない。 また...喉の奥に何が詰まっているみたいな感覚。 それでも...一生懸命声を出そうとすると...湖底から誰かが足を引っ張るんだ。 怖いけど...足を引っ張るのを止めて欲しくて... 湖底を見ると...足を引っ張っていたのは... もう一人の僕だった。 『辞めなよ...』 もう一人の僕は言う。 『湖上は危険な物ばかりだよ。君だって知っているだろう?』 「でも...」 『その証拠に君は怖い目に遭ったり、傷付いてばかりじゃないか!ここにいれば安全だよ。俺と一緒にここにいよう...ずっと...ずっと...』 「でも...悲しむから…葉祐。僕がそばにいないと…」 『葉祐君は大丈夫さ。両親も友達もいる。だけど...俺には...誰もいない。君しかいないんだよ…』 「じゃあ...一緒に...一緒に行こう。葉祐には僕から話してあげるから...」 『俺はここから動けない。俺は番人なんだよ。』 「番人?何の?」 『君のさ。君を恐怖から守るために俺はいる。俺がここから動いてしまったら、君は逃げ場がなくなって...もっと苦しくなって...もっともっと深い湖の底へと行ってしまうから...君のお母さんのようにね...』 「お母様の様に?」 『ああ。』 「でも...ごめん。僕...やっぱり葉祐の側にいたい。」 僕はもう一人の僕にそう言って、湖上へ上がろうとした。するともう一人の僕は、すごい力で僕の足を引っ張った。 「嫌だ!辞めて!僕、葉祐と離れたくない!」 『そろそろ開放してやれよ。葉祐君を...』 咄嗟に何かに掴まって、僕はもう一人の僕から離れようともがいた。しばらくすると、不意に引っ張る力が弱まって...僕はやっと湖上に浮上することが出来た。気が付けば、温泉に入っていて、葉祐が目の前にいた。しかし、彼の腕は真っ赤に腫れ上がり、流血していた。僕の指先もジンジンと傷み、血が付いていた。葉祐の傷は、僕が付けたのだと悟った。 葉祐をまた傷付けてしまった... 頬に冷たい物が流れた。多分涙。なのに...もう感覚が分からない... 葉祐が何か言っていた。その声を聞きたいのに、もう一人の僕が耳元で話すんだ。 『ほら!言わんこっちゃない!君が湖上に行くと、君ばかりじゃなくて、葉祐君も傷付くんだよ。これで分かっただろ?君は俺と一緒にいた方が良いんだ。そうすれば、もう誰も傷つかない。さぁ...行こう...』 僕はまた、もう一人の僕と一緒に...湖底へ落ちていく... 葉祐の声も徐々に聞こえなくなって... その表情も...僕が湖底に落ちる時に出来た波で見えなくなった… どこからかピピピと電子音が聞こえてきて、意識が覚醒し、重たい瞼を持ち上げた。 あぁ...眠っていたんだ... あの時...現実に僕に起こっていた出来事をそっくりそのまま夢に見ていた。 怖い... あれから何日ぐらい経ったのかな… 僕は未だに、もう一人の僕に湖底から足を引っ張られていて、意識の浮上と沈没を繰り返している。もちろん声は出ない。 「目が覚めたんですね。冬真さん、大丈夫ですか?私が誰だか分かりますか?」 体温計を片手に、そう言いながら覗き込んだ俊介さんの顔が見えた。声が出せないから、俺は瞬きを一つする。 「良かった。まだまだ熱が高いですね。解熱剤…飲ませないで大丈夫なんでしょうか?葉祐さん、何か話して瞬きが出来るうちは、自分が戻るまで飲ませないで欲しいとおっしゃっていたのですが...」 ああ...そうか...葉祐はお店があって、お父さんとお母さんは、お正月に行けなかった葉祐のお兄さんの家に遊びに行っていて...だから...俊介さんに来てもらっているんだ。俊介さんがお仕事出来るように、リビングの折り畳みベッドで寝かされているんだ。   ごめんね...俊介さん。僕のせいで...お仕事出来ないね... 言葉に出来ない代わりに気持ちを伝える様に、俊介さんを見つめた。 「冬真さん...頭に触れますね。」 俊介は僕の頭を撫でた。 「今週は元々、デザインをメインでいこうと心に決めていたんです。あなたが気にするようなことは何もありません。冬真さんは何も心配しないで、元気になって、微笑んでいれば良いんです。葉祐さんもご両親も私も、皆、冬真さんの笑顔が大好きなんですから...」 俊介さんはまた頭を撫でる。俊介さんの掌から与えられる優しい熱が心地よくて...僕は心からホッとした。でも...そう思った瞬間、彼がまたやって来て...僕の足を引っ張った... 『何してるの?早く湖底に戻るよ。今度は俊介さんを傷付けるつもり?』 違う!高熱で上手く頭が回らないけど...君の言っていることは多分...葉祐やお父さん、お母さん、俊介さんが求めている事と違うと思うんだ。 どうしたら...どうしたら...良い? 声にならなくても良い... まずは...気持ちを伝えなくちゃ... 「よ...う...す...ぇ...」 「えっ?」 「しゅ...ん.........たすけ...ぇ...」 伝わるかな...僕の声 … 俊介さんは勘が良いから...受け取ってくれるよね...僕のSOS 。 葉祐、俊介さん、助けて! 「冬真!冬真!しっかり!俺達が君を助ける!絶対助けるから!安心しろ!」 俊介さんは僕をしっかりと抱きしめてくれた。 ああ…温かいな… 俊介さんの声を聞きながら、僕はそんなことをぼんやりと考えていた。それから徐々に意識を失っていった。

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