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沈黙 #1 side Shun
「今までに描いた絵はこれだけ。完全とは言えないけれど、それでも随分と調子の良いときに描いたんだよ。」
医師は全部で4枚の絵を差し出した。それらの絵は随分と雑なタッチで描かれていて、落書き程度の物だとしても、彼が普段描くあの繊細の絵からは程遠く、それが非常にやるせなかった。
冬真さんが俺の腕の中で意識を失ってから、8日が経過していた。倒れた直後、俺は葉祐さんの許可を得て、冬真さんを病院へ搬送した。それ以来、冬真さんとは誰も面会出来ないままでいる。ところが今日になって、担当医から連絡を受け、来院するように告げられた。俺は葉祐さんに、店を自分に任せて病院へ行くように勧めた。しかし、それに反し、葉祐さんはしばらく沈黙した後、やっぱり二人で行こうと言い、そして、また沈黙した。その沈黙は、彼の固い意志そのものの様な気がした。俺はそれに同意し、閉店後二人で病院を訪れた。
「この3枚の人物画、1枚は冬真君、もう1枚は海野君、もう1枚は...えーっと...」
医師は俺の顔を伺う。
「藤原です。」
「そうそう、藤原君。君が病院に搬送してくれたんだよね?」
「はい。」
「何かこの絵のヒントになるようなこと、倒れる直前に言ってたかな?」
医師は残りの1枚を差しながら言う。その絵は、最も冬真さんらしからぬ作風で、認識出来るのは無数にある小さい丸だけで、あとはほとんど歪んでいて、何を描いているのか全く解らず、正直なところ、見ているだけで随分と気分が悪くなった。
「いいえ。俺が聞いたのは、『ようすぇ、しゅん、たすけ』だけです。多分、『葉祐、俊介、助けて』だと思うんですけど。」
「まぁ、それで間違いないだろうなぁ...この人物画、冬真君だけ何か言いたげな、切ない表情なんだよなぁ...二人は微笑んでいたり、それに近い柔らかな表情なのに。それとこの絵...これは何を表しているのか...」
医師はトントンと絵を指でつついた。
「ねぇ...先生?」
それまで一言も声を発していなかった葉祐さんが、やっと口を開いた。
「何だい?」
「冬真に会うことは出来ますか?」
「良いだろう。もう熱も下がったしね。」
「それと...退院はいつ頃に?」
「そうだな...調子が良さそうな時間も増えて来し、退院出来なくもないんだ。ただ...一つ気になることがあってね...」
「気になること?」
「ああ。だいぶ減ってきたものの、たまに自傷行為が見られるんだ...」
「えっ?」
思わず声を上げてしまった俺に対し、葉祐さんは何も言わなかった。
「時折、自分の腕に爪を立ててしまうんだ。程度としては小さな流血が起こるぐらい。それが気になってね...以前はそんなことしなかっただろう?自傷行為もどんなときに行われていて、何を意味しているのか、今の段階では全くもって解っていない。判断基準すらも掴めていない。だから、一般的なアドバイスは出来ても、君達向けにアドバイスすることは難しい。結果、何かあった時、君達が立ち往生するだけなんだよ。それに...もしかしたら、今は病院にいるから軽く済んでいるのかもしれない。家に帰ればそこらじゅうに自傷出来るものは転がっているからね。」
「冬真は俺達に『助けて』と言いました。俺達に救って欲しいと思っているのに...その人達がそばにいない。調子が良くても悪くても、そんなの関係なくて...心細いだろうな。俺達に拒絶されたって思って...また...全てを諦めちゃう冬真に戻ってないと良いな。」
葉祐さんのその言葉の後、長い沈黙が続いた。このままだと...きっと何も結果は出ないだろう。それを打破すべく、俺は口を開く。
「先生…ひとまず、冬真さんに面会させては頂けないでしょうか?」
「分かった。病室に案内しよう。だが、調子が悪そうだったら、すぐに退出だよ?良いね?」
医師はそう言い、立ち上がった。
病室に入ると、冬真さんはぼんやりとベッドの上に座っていた。
「冬真君、調子はどうかな?」
医師が話し掛けても、冬真さんは反応することもなく、虚ろな瞳をただただ悪戯にさまよわせているだけだった。
「冬真......」
葉祐さんが優しく声を掛けた。医師のそれとは異なり、冬真さんは体をピクリと揺らし、ゆっくりと顔を動かし、視線をこちらに向けた。
「冬真.........」
「冬真さん......」
冬真さんはゆっくりと葉祐さん、俺の順番で見つめた。それから、またゆっくりと正面を向き、何もなかったかのようにしばらく壁を見つめていた。
今は調子が悪いのだろうか?
そう思った瞬間...
冬真さんの瞳からポロポロと涙が溢れ落ちていた。葉祐さんが堪らず、冬真さんの元に駆け寄った。そして、彼の涙を拭い、その手を取った。その際、手首の辺りの肌が露出された。そこには、小さいけれど無数の傷が存在した。腕の一部だけでも結構な数の傷痕...腕全体で一体どれだけの数あるのだろか...
「帰ろう…冬真。家に帰ろう。俺...約束したもんな...お前のこと守るって。だから...時間が掛かるかもしれないけど...お前が描いた絵のことも...どうして...こんな風に...自分のこと...傷つけちゃうのかも...俺...ちゃんと理解してやるから...なっ?だから一緒に...」
涙混じりのその声は...最後の方はほとんど言葉になっていなかった。
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