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小さな幸せ #3 side Y

朝の手伝いから始まり、車中や目的地である商業施設でも、冬真は随分と調子が良さそうだった。意識は外へ向いているのか、様々な物に興味を示した。マルシェで売られていた珍しい品種や不恰好の野菜を興味深げに覗きこんだり、パン屋では商品一つ一つを丁寧にじっくりと観察し、気になったパンのいくつかを最後に買って帰ろうと告げると、とても嬉しそうに微笑んだ。特に気になる素振りを見せたのは、とある雑貨屋で、そこでは店内はほとんど回らず、商品である手のひらサイズの小さい仔猫の置物の前でずっと立っていた。 「冬真?」 声を掛けると、冬真は何もなかった様に俺の元へ戻って来る。 「そろそろワインショップに行こうと思うんだけど...どうかな?」 冬真は頷いた。ワインショップは冬真の行きたい店の一つだった。親父にプレゼントするワインを買いたいのだと車中で教えてくれた。店を出て、外で待つ俊介さんと合流すると、少し離れた場所にあるワインショップを目指した。しばらく歩いたところで、二人には先にワインショップに行く様に促し、俺は一人、急いで雑貨屋まで戻った。 それは...あの仔猫の置物を購入するため。 購入するのにはワケがある。俺は見たんだ。店を出る瞬間、冬真は振り返り、あの仔猫の置物に小さく手を振っていたのを... 冬真はこの仔猫の置物を欲しかったのだろうか...大きな括りで考えればそうなるのだろうが、それとは少しニュアンスが違うような気がした。冬真はただ純粋に、この置物を愛でたかったんだと思う。このお店が近所にあれば、恐らく毎日、冬真はこの仔猫に会いに来るはずだ。しかし、それが叶う距離でも、体調でもない。だから、別れの挨拶のつもりで手を振ったに違いない。 『これが欲しい』 こんな簡単な意思表示も冬真は出来ない。自分の気持ちを表に出さないこと、それは劣等感の塊の彼が、幼い頃から培ってきた生きてゆくための術なのだ。再会した当初は、幾度となく自分の気持ちを話すように促した。以前と比べれば、少しづつ話すようにはなった。それでも、まだまだ普通からは程遠い。だからと言って、そればかり追求すると、今度はどうしても言えない自分に罪悪感を覚えてしまう。そうならないためにも、ある程度、気持ちを汲んでやらねばならない。 仔猫の置物を購入した後、急いで二人の元へ戻った。少し息を切らせた俺を、冬真は少し不思議そうに見つめていた。 「ごめん...冬真。手...出して...」 おずおずと出した左手のひらに仔猫の置物を乗せた。それを見ると、冬真は驚きの表情を見せた。 「うちに連れて帰ってあげようよ。冬真、その仔猫と一緒にいたいんだろ?その仔猫も冬真のそばにいたいと思うよ。チェストの上のイルカ達も、きっと仔猫を歓迎するはずだよ。」 俺の言葉の後、冬真は左手の上に右手を被せ、大事そうに両手を右頬まで寄せると、静かに目を閉じ、微笑んだ。慈愛に満ちたその微笑みは、あまりにも美しく、神々しく、俺は一瞬言葉を失った。それは俊介さんも同じで、しばらく沈黙が流れた。その沈黙をやっとの思いで破ったのは、俊介さんだった。 「冬真さん、良かったですね。私にも見せて頂けませんか?」 俊介さんの声で瞳を開いた冬真は、両手を胸元まで降ろすと、光を放つかのごとく、そっとその手を開いた。 「可愛らしいですね。どことなく三浦さんちの猫に似ています。」 冬真はコクりと頷いた。 「三浦さん?」 「私のご近所の方で、最近仔猫を飼い始めたんです。とても親切なご夫妻で、冬真さんがうちに来る日、全てではないですけれど、お茶に招待してくださるんです。仔猫と触れ合えば、元気になるかもしれないから...と。」 「そうだったんですか...いつかお礼に伺わないとですね。」 「ええ。お土産とお礼を兼ねて、ワインを買うつもりです。ご夫妻揃って、お食事の際にワインをたしなむと伺ったことがあるので。」 「俺は何にしようかな...お礼の品。」 「葉祐さん...もし、よろしかったら、『Evergreen』のブレンドを少し分けて頂けませんか?」   「ええ。もちろん。でも、何で今更?」 「三浦さんご夫妻はコーヒーもお好きで、買い物帰りにいつも『Evergreen』に入ってみたいと思うらしいのですが、駐車場がないですから...諦めてしまうらしくて...家から歩くにしても結構な距離ですからね。」 「分かりました。豆を挽いた粉もお譲りしますが、今度、送迎つきでご招待します。でも、その前にご挨拶に伺いたいので、俊介さん、セッティングお願いしても良いですか?」 「分かりました。ワインをお渡しする時に、ご予定を確認しておきます。」 俺と俊介さんの少し長い会話が、最後まで音に変わることなく理解出来たのか、冬真は俺達二人の顔を交互に見て、本当に嬉しそうに笑っていた。 今日は顔色も良いし、笑顔も多い。本当に素敵な一日になりそう... ……この時までは...本当に...そう思っていた...

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